兵庫県川西市多田院多田所町に多田神社があります。
多田神社は源満仲(みつなか)、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀っています。満仲は多田庄に本拠を構え多田源氏を称しました。天禄元年(970)天台宗の鷹尾山法華三昧寺多田院を創建しました。
長徳3年(997)に満仲が亡くなり多田院に葬られ、廟墓が造られたことから一族郎党の信仰の中心になり、源氏を称する足利、徳川などからも崇敬されました。
弘安4年(1281)、鎌倉幕府の祈願所となり、僧忍性の時に真言律宗に変わりました。建武元年(1334)、足利尊氏が寺領を寄進、延文3年(1358)には足利義詮(よしあきら)が尊氏の遺骨を多田院に納めました。
それ以後足利歴代将軍はみな多田院に納骨するようになり繁栄しました。現在の社殿は、寛文年間に徳川4代将軍家綱が再建した建物です。それ以前は天正5年(1577)の有岡城の戦いの際、津田信澄の兵火により焼失し、荒廃していたそうです。
明治になり、神仏習合が否定され、神道が仏教から分離の際に多田神社となりました。多田院の時に仁王門であった南大門には金剛力士像などがありましたが近くの満願寺に移されたそうです。
16000坪ある境内は「多田院」として昭和26年(1951)に国の史跡に指定され、内廓外廓の二重の構造です。外廓南門に楼門があり、東西に高麗形の大門を構え、社務所、宝物殿、儀式殿、斎館などがあります。内廓には、御神廟、御本殿、拝殿、隨神門、神輿庫、神馬舎などがあります。
宝物殿には、国の重要文化財の多田神社文書を始め、伏見天皇棟別銭宣旨、東山天皇正一位宣命、足利尊氏御教書、徳川綱吉書跡などの古文書や、甲冑、刀剣、書画など多数納められています。
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多田神社は源満仲(みつなか)、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀っています。満仲は多田庄に本拠を構え多田源氏を称しました。天禄元年(970)天台宗の鷹尾山法華三昧寺多田院を創建しました。
長徳3年(997)に満仲が亡くなり多田院に葬られ、廟墓が造られたことから一族郎党の信仰の中心になり、源氏を称する足利、徳川などからも崇敬されました。
弘安4年(1281)、鎌倉幕府の祈願所となり、僧忍性の時に真言律宗に変わりました。建武元年(1334)、足利尊氏が寺領を寄進、延文3年(1358)には足利義詮(よしあきら)が尊氏の遺骨を多田院に納めました。
それ以後足利歴代将軍はみな多田院に納骨するようになり繁栄しました。現在の社殿は、寛文年間に徳川4代将軍家綱が再建した建物です。それ以前は天正5年(1577)の有岡城の戦いの際、津田信澄の兵火により焼失し、荒廃していたそうです。
明治になり、神仏習合が否定され、神道が仏教から分離の際に多田神社となりました。多田院の時に仁王門であった南大門には金剛力士像などがありましたが近くの満願寺に移されたそうです。
16000坪ある境内は「多田院」として昭和26年(1951)に国の史跡に指定され、内廓外廓の二重の構造です。外廓南門に楼門があり、東西に高麗形の大門を構え、社務所、宝物殿、儀式殿、斎館などがあります。内廓には、御神廟、御本殿、拝殿、隨神門、神輿庫、神馬舎などがあります。
宝物殿には、国の重要文化財の多田神社文書を始め、伏見天皇棟別銭宣旨、東山天皇正一位宣命、足利尊氏御教書、徳川綱吉書跡などの古文書や、甲冑、刀剣、書画など多数納められています。
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