旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

聖衆来迎寺

2015年11月22日 | 旅 歴史
滋賀県大津市比叡辻に聖衆来迎寺があります。
 紫雲山聖衆来迎寺は天台宗のお寺です。延暦9年(790)、伝教大師最澄が地蔵菩薩を安置して地蔵教院を建立したのが始まりです。長保3年(1001)、比叡山横川の恵心(えしん)僧都(そうづ)源信(げんしん)が入山しました。
 源信は、ここで聖衆来迎を感得したことから堂宇を興し、来迎のありさまを彩画し、自ら阿弥陀来迎像を造りました。聖衆来迎とは臨終に際して西方極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩が現れ迎えに来るということです。寺号も聖衆来迎寺と改められ、念仏道場となりました、
 聖衆来迎寺はその後衰えましたが、大永7年(1527)、真玄により中興されました。真玄は近江守護の六角高頼の5男の六角高信で、永正16年(1519)に出家して延暦寺の僧となった人物です。
 真玄は京都にあった天台宗の元応寺第37世の真雄を戒師とした関係で、応仁の乱によって焼失していた元応寺の本尊を聖衆来迎寺に移し合併しました。元応寺は後醍醐天皇の勅願寺で、中世には法勝寺と並ぶ円戒(天台宗の戒律)の道場でした。
 元亀元年(1570)9月、織田信長と浅井長政、朝倉義景の連合軍との戦である坂本の合戦で、近江宇佐山の志賀城が攻められ、信長側の宇佐山城主・森三左衛門可成(よしなり)が討死しました。森蘭丸の父親でもある可成の墓はこの聖衆来迎寺にあります。
 この時、聖衆来迎寺と親密な関係だった比叡山延暦寺は、浅井・朝倉連合軍に協力していました。しかし時の住持の真雄は、可成の遺骸をこの寺にねんごろに葬りました。後に信長による比叡山の焼き討ちの際、山麓の数多くの寺が焼き尽くされましたが、聖衆来迎寺だけは、目標から外されました。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/


日本一周 ブログランキングへ

にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ
にほんブログ村


http://blog.fc2.com/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする