旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

信綱寺

2022年10月08日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長に信綱寺(しんこうじ)があります。
 大柏山「信綱寺」は横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺として室町時代に創建されたそうです。横尾城の東の梅ノ木というところにあったようです。
 天文17年(1548)の上田原合戦で横尾氏が滅んでしまった後、真田幸隆の長男である信綱(のぶつな)が打越に移し、大光智照禅師を迎えて大柏山「打越寺」と改称させたようです。
 天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまいます。幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
 首長になった真田昌幸は兄の信綱の牌所として打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えたのでした。
 真田信綱は天文6年(1537)幸隆の長男として生まれました。幼少時、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に父・幸隆らと上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼って落ち延びました。
 後に幸隆が敵であった武田信玄に仕官した時も一緒に付き従い、後に信玄の近習なりました。幸隆と共に信濃や上野を転戦し、永禄11年(1568)弟・昌輝と駿河国攻めの先鋒を担っています。
 永録12年(1569)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功もあげています。天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才で真田家の総領となりました。
 「武田二十四将」の一人に数えられ、信濃先方衆の筆頭に位置するところまで出世していました。三方ケ原の合戦でも活躍しましたが、5年後の長篠・設楽ヶ原合戦で織田軍の3千挺という大鉄砲隊の前に弟・昌輝とともに最期を遂げたのでした。
 信綱の遺体は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が持ち帰りここに埋葬したそうです。その時の血染めの陣羽織や昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められています。
 白川勘解由兄弟は信綱の供養を済ませたあと、殉死したそうです。信綱寺の墓地には信綱夫妻、昌輝の墓の傍らに白川勘解由兄弟の墓も建てられています。

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