長野県上田市真田町長(おさ)に長谷寺(ちょうこくじ)があります。
長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていました。天文16年(1547)真田氏繁栄の基礎を作った真田幸隆が上州安中の長源寺から伝為晃運(でんいこううん)和尚を招き一宇を真田山種月院「長谷寺」としたことから始まります。
天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才の長子・信綱が真田家の家督を継ぎました。ところが翌年の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と弟の昌輝がともに戦死してしまいました。
そのため幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
長谷寺の参道入口の石垣と、そびえ立つ大きな石門は情緒があります。石門の上部には六文銭が刻まれています。この石のアーチは創建当時のものといわれています。
真田昌幸は周辺有力三大名の対立を利用しながら、天正11年(1583)頃には小県地方をほぼ支配下に治めたようです。そして父・幸隆の菩提を弔うために長谷寺を改修し諸堂を整備したのです。
ところが長国寺は慶長5年(1600)第2次上田合戦があり兵火にかかり焼失してしまいました。昌幸は関ヶ原で敗れた後、高野山で蟄居の身になり九度山で慶長16年(1611)他界しました。
この時、上田藩主は昌幸の長子・信之(信幸)が沼田とともに治めていました。昌幸の遺骨は長国寺で丁重に弔われたと思われます。
元和8年(1622)真田信之は松代に転封となり、上田には小諸より仙石氏が入封しました。このことで真田氏による土着支配は終わったのです。
信之は松代に菩提所として同じ読みの「長国寺」を建立し、長谷寺の住職も共に移させました。それから先、長谷寺は長国寺の末寺となっています。
長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。
真田幸隆の墓があります。戒名は笑傲院殿月峯良心大庵主です。真田昌幸の墓もあります。戒名は長谷寺殿一翁千雪大居士です。
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