旅と歴史

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西郷松

2011年06月20日 | 旅 歴史
 鹿児島県大島郡龍郷町龍郷にある西郷松です。
 月照は絶命し、奇跡的に蘇生した西郷に幕府から捕縛命令が出ていたこともあり、藩は奄美大島へ流したのでした。先君・斉彬の無二の寵臣であったことも考慮したのでしょう。
最初に舟の縄をかけた松が「西郷松」として残っています。
 安政6年(1859)1月12日、藩の黒糖運搬船「福徳丸」に乗ってきた西郷はこの地龍郷に上陸しました。年六石の扶持が付いていたといわれていますので島流しよりは軽かったようです。
 文久2年(1862)1月29日、鹿児島召還のときもここから乗船したそうです。新藩主の実父で事実上の藩主であった守旧派の島津久光の怒りを受け同年6月12日、徳之島、のちに沖永良部へ再び流されてしまいました。
 元治元年(1864)2月11日、沖永良部から赦免召還されました。途中この地に上陸し、愛加那母子と面会したそうです。2月26日この地より乗船し、愛加那との最後の別れとなりました。
 島妻制度の掟に従い、二人の子供は西郷本家にひきとられ、愛加那さんは、一人淋しく明治35年(1902)65歳で亡くなったそうです。長男の菊次郎は後に京都市長になったそうです。
 赦免された西郷は京都に上りました。朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としましたが、坂本龍馬仲介で、木戸孝允と謀って薩長連合を結成しました。慶応3年(1867)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立したのです。
 明治4年(1871)薩摩へ帰郷していた西郷は参議として新政府に復職しました。陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導しました。
 その際、朝鮮出兵を主張する征韓論に与し開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを主張し、帰国した大久保らと対立しました。
 1873年の明治六年政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻りました。明治10年(1877)年私学校生徒の暴動から担ぎ出され西南戦争に発展します。善戦したものの自らも足と胸に弾丸を受け、城山で自刃しました。享年50才でした。
 西郷は「吉之助」、号は「南洲(なんしゅう)」と名乗っていました。本名は「隆永(たかなが)」でした。隆盛という名は、明治天皇が西郷を表彰する際に、吉井友実に公式の場で使う諱を訊ねた時、彼の父の名「隆盛」が西郷の名であると勘違いし、これが誤って広まってしまったそうです。

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