宮崎県東諸県郡綾町北俣にある綾城です。
綾町の歴史は非常に古く、中央台地の尾立地区には縄文遺跡があります。古墳時代には、大工園古墳、四反 田古墳、王ノ塚古墳などが作られました。
康保4年(967)の律令の延喜式には日向 16駅の1つに亜椰(綾)駅と記されています。奈良時代には既に宮崎から熊本に通じる要衝として 栄えていたようです。
鎌倉幕府が開かれて間もない建久8年(1197)には伊東氏が日向の地頭 となり、綾を含む宮崎平野一帯を所領しました。
綾郷の最初の領主となったのは、鎌倉時代末の元弘年間(1331~1334)にこの地に下向した足利尊氏の家臣細川小四郎義門です。
その子義遠は、収納使として、綾を領有し、綾氏と称しました。綾町のシンボルでもある綾城は、ちょうどこのころ建てられたものです。
この綾城は当時の城をそのままでなく日本城郭協会の時代考証に基づき戦国時代初期の山城として造られました。すべて綾産の木を使用して日本最古の山城を再現したのです。
綾氏は数代に渡り城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代八代将軍義政の頃、 都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりま した。伊東氏48城のひとつとなり島津氏と戦う重要拠点となったのでした。
都於郡城主伊東義祐は野尻城主などの謀反により島津に追われる身となりました。綾城主佐土原遠江守は天正5年(1577)義祐を城内に迎え入れました。
佐土原遠江守と田中国広は島津の追手から身を守る算段をととのえて、その策を義祐に進言したのでした。その様子を綾城内で再現しています。
伊東氏は元亀3年(1572)の木崎原の戦いで敗れ、天正6年(1578)の戦史に残る耳川の戦 いにも敗れて豊後に落ちました。綾郷の人々は、最後の一戦まで伊東を見捨てず戦ったそうです。
天正5年(1577)に綾郷は島津氏の支配下におかれることになります。そしてこの島津氏の統治は、明治維新を迎えるまで続きました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
綾町の歴史は非常に古く、中央台地の尾立地区には縄文遺跡があります。古墳時代には、大工園古墳、四反 田古墳、王ノ塚古墳などが作られました。
康保4年(967)の律令の延喜式には日向 16駅の1つに亜椰(綾)駅と記されています。奈良時代には既に宮崎から熊本に通じる要衝として 栄えていたようです。
鎌倉幕府が開かれて間もない建久8年(1197)には伊東氏が日向の地頭 となり、綾を含む宮崎平野一帯を所領しました。
綾郷の最初の領主となったのは、鎌倉時代末の元弘年間(1331~1334)にこの地に下向した足利尊氏の家臣細川小四郎義門です。
その子義遠は、収納使として、綾を領有し、綾氏と称しました。綾町のシンボルでもある綾城は、ちょうどこのころ建てられたものです。
この綾城は当時の城をそのままでなく日本城郭協会の時代考証に基づき戦国時代初期の山城として造られました。すべて綾産の木を使用して日本最古の山城を再現したのです。
綾氏は数代に渡り城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代八代将軍義政の頃、 都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりま した。伊東氏48城のひとつとなり島津氏と戦う重要拠点となったのでした。
都於郡城主伊東義祐は野尻城主などの謀反により島津に追われる身となりました。綾城主佐土原遠江守は天正5年(1577)義祐を城内に迎え入れました。
佐土原遠江守と田中国広は島津の追手から身を守る算段をととのえて、その策を義祐に進言したのでした。その様子を綾城内で再現しています。
伊東氏は元亀3年(1572)の木崎原の戦いで敗れ、天正6年(1578)の戦史に残る耳川の戦 いにも敗れて豊後に落ちました。綾郷の人々は、最後の一戦まで伊東を見捨てず戦ったそうです。
天正5年(1577)に綾郷は島津氏の支配下におかれることになります。そしてこの島津氏の統治は、明治維新を迎えるまで続きました。
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