鹿児島県肝属郡南大隅町にある佐多岬です。
日本本土最南端の岬です。インドのニューデリー、エジプトのカイロと同じ緯度の北緯31度線上に位置しています。
南端の断崖から50m沖の大輪島に日本最古の一つである佐多岬灯台があります。この灯台は、慶応2年(1866)江戸条約によって建設することを約束した8ヶ所の灯台の一つです。R・H・ブラントンが設計・指導して、明治4年(1871)に完成しました。
昭和20年の空襲で焼失してしまいました。現在の灯台は昭和25年復旧したものです。太平洋、東シナ海、錦江湾に面し晴れた日には種子島や屋久島を見ることが出来ます。「日本の灯台50選」にも選ばれています。眼下にはエメラルドブルーの大海原が広がります。
佐多岬ロードパークは佐多岬に通ずる唯一の有料道路です。亜熱帯植物などが植えられているものの管理は今ひとつといった感じでした。展望台も落書きがひどくマナーの悪さが目立ちました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/

日本本土最南端の岬です。インドのニューデリー、エジプトのカイロと同じ緯度の北緯31度線上に位置しています。
南端の断崖から50m沖の大輪島に日本最古の一つである佐多岬灯台があります。この灯台は、慶応2年(1866)江戸条約によって建設することを約束した8ヶ所の灯台の一つです。R・H・ブラントンが設計・指導して、明治4年(1871)に完成しました。
昭和20年の空襲で焼失してしまいました。現在の灯台は昭和25年復旧したものです。太平洋、東シナ海、錦江湾に面し晴れた日には種子島や屋久島を見ることが出来ます。「日本の灯台50選」にも選ばれています。眼下にはエメラルドブルーの大海原が広がります。
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鹿児島県薩摩郡さつま町虎居にある宗功寺墓地です。
宗功寺墓地は宮之城島津家の菩堤寺跡で,二代島津忠長をはじめ累代の墓が33基残っています。宗功寺墓石群として県指定文化財となっています。この墓石群は九州一の規模を誇り、国内でも珍しい墓所です。
島津忠長は天正15年(1587)薩摩が豊臣秀吉に攻められ降参した時、人質として京に上りました。京都では大徳寺の玉沖和尚の感化を受け宮之城領主になったとき大徳山宗功寺を建てたのです。
墓石は構造や数、墓の台石の彫刻などに特徴があります。墓の形状は祠堂型をした他に類を見ない壮大な造りです。台座には彫刻が施され、中国や琉球文化を思わせるものがあります。明治2年(1869)の廃仏毀釈により宗功寺は廃寺となりましたが、宮之城家の墓所だけは残され、跡地は墓所を鑑賞するための公園となっています。
中央にある祖先世功碑は5代藩主島津久胤が建てたもので、当時、幕府の弘文院学士であった林春斎の名文が刻まれています。碑を支えているのは亀です。碑の文を一度で間違わずに読み上げたら、亀が動き出して川内川の水を飲みに行くという伝説があるそうです。
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宗功寺墓地は宮之城島津家の菩堤寺跡で,二代島津忠長をはじめ累代の墓が33基残っています。宗功寺墓石群として県指定文化財となっています。この墓石群は九州一の規模を誇り、国内でも珍しい墓所です。
島津忠長は天正15年(1587)薩摩が豊臣秀吉に攻められ降参した時、人質として京に上りました。京都では大徳寺の玉沖和尚の感化を受け宮之城領主になったとき大徳山宗功寺を建てたのです。
墓石は構造や数、墓の台石の彫刻などに特徴があります。墓の形状は祠堂型をした他に類を見ない壮大な造りです。台座には彫刻が施され、中国や琉球文化を思わせるものがあります。明治2年(1869)の廃仏毀釈により宗功寺は廃寺となりましたが、宮之城家の墓所だけは残され、跡地は墓所を鑑賞するための公園となっています。
中央にある祖先世功碑は5代藩主島津久胤が建てたもので、当時、幕府の弘文院学士であった林春斎の名文が刻まれています。碑を支えているのは亀です。碑の文を一度で間違わずに読み上げたら、亀が動き出して川内川の水を飲みに行くという伝説があるそうです。
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鹿児島県出水市麓町にある武家屋敷竹添邸です。
出水市の麓(ふもと)にある武家屋敷群は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
麓というのは薩摩藩が江戸時代に防衛上の必要から外城(とじょう)として造った武家屋敷兼陣地のことです。外城といっても城郭を構えるわけではなく、領内を治める地頭の仮屋を設け、その周りに麓を形成させたのです。
なかでも出水麓は肥後との国境にあることから最大規模になりました。今でも整然とした石垣や武家門、蔵などに当時の様子がしのばれます。
公開されている竹添邸はNHK大河ドラマ「篤姫」のロケ地にもなりました。屋敷は仮屋に最も近い重要な場所にあり、幕末時代には千坪を越すほどの広さがあったようです。
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出水市の麓(ふもと)にある武家屋敷群は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
麓というのは薩摩藩が江戸時代に防衛上の必要から外城(とじょう)として造った武家屋敷兼陣地のことです。外城といっても城郭を構えるわけではなく、領内を治める地頭の仮屋を設け、その周りに麓を形成させたのです。
なかでも出水麓は肥後との国境にあることから最大規模になりました。今でも整然とした石垣や武家門、蔵などに当時の様子がしのばれます。
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鹿児島県鹿児島市加治屋町にある維新ふるさと館です。
維新ふるさと館は幕末の薩摩藩の歴史をビジュアルで見せるテーマ館です。館内にはジオラマや、西郷隆盛ら7体の等身大ロボットがあり、幕末の薩摩藩や人物を紹介しています。
地下1階の維新体感ホールでは「維新への道」という映画を上映しています。幕末の薩摩藩の歴史の流れを概略知ることが出来ます。
西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌などの生誕地である加治屋町に造られました。「薩摩の女性」「維新の源流」「鉄砲・キリスト教伝来」などとわかりやすく展示しています。
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維新ふるさと館は幕末の薩摩藩の歴史をビジュアルで見せるテーマ館です。館内にはジオラマや、西郷隆盛ら7体の等身大ロボットがあり、幕末の薩摩藩や人物を紹介しています。
地下1階の維新体感ホールでは「維新への道」という映画を上映しています。幕末の薩摩藩の歴史の流れを概略知ることが出来ます。
西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌などの生誕地である加治屋町に造られました。「薩摩の女性」「維新の源流」「鉄砲・キリスト教伝来」などとわかりやすく展示しています。
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鹿児島市加治屋町に西郷隆盛誕生地があります。
維新ふるさと館のすぐそばに西郷隆盛誕生地があります。この加治屋町一帯は薩摩藩下級武士の居住地で、明治維新の偉人たちの出身地でもあるのです。
「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた西郷隆盛の器量の大きさは彼が生まれ育った下加治屋町の郷中(ごじゅう)教育によって培われたといわれています。
文政10年(1827)西郷隆盛は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生しました。貧しい生活の中で藩校造士館に通い、下加治屋町の郷中の少年達のリーダーになっていきました。町ごとに区切られた郷中という単位で少年達が集まり厳しくしつけられたのでした。
ここには西郷隆盛の三男で海軍大臣を勤めた従道(つぐみち)の庭園にあった石があります。中央のメインは伊豆石、手前の横に長いのが紀州の青石、右下が伊予の石で造られています。目黒区の西郷従道邸庭園から贈られました。
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「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた西郷隆盛の器量の大きさは彼が生まれ育った下加治屋町の郷中(ごじゅう)教育によって培われたといわれています。
文政10年(1827)西郷隆盛は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生しました。貧しい生活の中で藩校造士館に通い、下加治屋町の郷中の少年達のリーダーになっていきました。町ごとに区切られた郷中という単位で少年達が集まり厳しくしつけられたのでした。
ここには西郷隆盛の三男で海軍大臣を勤めた従道(つぐみち)の庭園にあった石があります。中央のメインは伊豆石、手前の横に長いのが紀州の青石、右下が伊予の石で造られています。目黒区の西郷従道邸庭園から贈られました。
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鹿児島市加治屋町にある大久保利通生誕の地です。
加治屋町の一角に「大久保利通誕生地」という大きな石碑が建っています。実際には甲突川(こうつきがわ)を挟んだ対岸の高麗町(これまち)が誕生地です。人格形成を決定付けたのは、西郷やその他同志との交わりを持ったここ下加治屋町でした。案内の説明文には「生い立ちの地」という表現を使っています。
すぐ近くに「西郷隆盛誕生地」という石碑が建っていますが、「大久保利通誕生地」と全く同じ大きさで同じ形式で彫られています。西郷の従兄弟にあたる大山巌が石碑製作の際、西郷と大久保の碑を全て差別・区別の無いように製作するよう注文したからだそうです。
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すぐ近くに「西郷隆盛誕生地」という石碑が建っていますが、「大久保利通誕生地」と全く同じ大きさで同じ形式で彫られています。西郷の従兄弟にあたる大山巌が石碑製作の際、西郷と大久保の碑を全て差別・区別の無いように製作するよう注文したからだそうです。
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鹿児島県鹿児島市にある大久保利通銅像です。
大久保利通は西郷隆盛とともに薩長同盟の中心的存在となり倒幕に尽力しました。明治維新後は木戸孝允らと新政府を指導、版籍奉還、廃藩置県を推し進めました。
明治4年(1871)に大蔵卿になり殖産興業・地租改正をしました。特命全権副使として岩倉使節団に随行しました。内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握しました。
西南戦争に代表される各地の士族反乱を鎮めたりしましたが明治11年(1878)不平士族に暗殺されてしまいました。鹿児島では圧倒的に西郷隆盛の方が人気があるのですが現在の日本は大久保利通がいたからこそできあがったのではないでしょうか。
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明治4年(1871)に大蔵卿になり殖産興業・地租改正をしました。特命全権副使として岩倉使節団に随行しました。内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握しました。
西南戦争に代表される各地の士族反乱を鎮めたりしましたが明治11年(1878)不平士族に暗殺されてしまいました。鹿児島では圧倒的に西郷隆盛の方が人気があるのですが現在の日本は大久保利通がいたからこそできあがったのではないでしょうか。
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鹿児島市南林寺にある南洲寺です。
「南洲寺」は西郷隆盛の菩提寺です。南洲は西郷隆盛の号です。ここには京都の清水寺の僧・月照の墓があります。
月照はもともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧でした。 清水寺を統括支配していたのは興福寺でした。興福寺は、藤原氏の後裔近衛家の祈願寺でもあったのです。幕末の勤皇運動家であった近衛忠熙とのつながりが強かったのでした。
成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役を果たしていて、斉彬の下で活躍していた西郷隆盛と親交がありました。隆盛が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死を止めるように諭したのは月照でした。安政の大獄で追われる身となり京都を脱出し薩摩藩に逃れましたが藩では日向追放を西郷に命じました。
西郷隆盛と月照は一緒に錦江湾に入水自殺を計りました。西郷は奇跡的に一命を取り留めましたが、月照は帰らぬ人となったのです。享年46という若さでした。月照の遺骨は南林寺にあった西郷家墓域内に埋葬秘匿されていましたが、明治12年に改葬されこの南洲寺に移されたそうです。
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月照はもともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧でした。 清水寺を統括支配していたのは興福寺でした。興福寺は、藤原氏の後裔近衛家の祈願寺でもあったのです。幕末の勤皇運動家であった近衛忠熙とのつながりが強かったのでした。
成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役を果たしていて、斉彬の下で活躍していた西郷隆盛と親交がありました。隆盛が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死を止めるように諭したのは月照でした。安政の大獄で追われる身となり京都を脱出し薩摩藩に逃れましたが藩では日向追放を西郷に命じました。
西郷隆盛と月照は一緒に錦江湾に入水自殺を計りました。西郷は奇跡的に一命を取り留めましたが、月照は帰らぬ人となったのです。享年46という若さでした。月照の遺骨は南林寺にあった西郷家墓域内に埋葬秘匿されていましたが、明治12年に改葬されこの南洲寺に移されたそうです。
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鹿児島市城山にある鹿児島市立美術館です。
城山の麓、鶴丸城二の丸跡の地にあり、隣には西郷隆盛の銅像があります。彫刻類は、ロダン、ブールデル、マイヨールなど展示しています。
鹿児島出身の黒田清輝、藤島武二、和田英作、東郷青児などの郷土作家と現代工芸、印象派のモネ、ルノアール、セザンヌなどの西洋美術の作品を展示しています。
黒田清輝「アトリエ」、和田英作「赤い燐寸」、東郷青児「ブローニュの森の風景」、山口長男「卓上B」、モネ「睡蓮」、セザンヌ「風景」、ダリ「三角形の時間」、カンディンスキー「二つの黒」など有名です。
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鹿児島出身の黒田清輝、藤島武二、和田英作、東郷青児などの郷土作家と現代工芸、印象派のモネ、ルノアール、セザンヌなどの西洋美術の作品を展示しています。
黒田清輝「アトリエ」、和田英作「赤い燐寸」、東郷青児「ブローニュの森の風景」、山口長男「卓上B」、モネ「睡蓮」、セザンヌ「風景」、ダリ「三角形の時間」、カンディンスキー「二つの黒」など有名です。
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鹿児島県鹿児島市城山町にある鹿児島県立博物館です。
鹿児島県立博物館は、鹿児島の自然に親しみ、自然を中心とする博物館です。
鹿児島市ではこの付近から黎明館、私学校跡までの道のりを「歴史と文化の道」と呼んでいます。
少し先にある県立博物館考古資料館は日本でも数少ない石造建築物で明治16年に鹿児島市で開催された九州沖縄連合共進会のパビリオンとして建てられたものだそうです。昭和28年より県立博物館として使用され、現在は考古資料館となっています。
現在の県立博物館は昭和2年の築造で以前は図書館だったそうです。展示品としては日本には4~5体しかない恐竜の化石が2体もあります。そのほかプラネタリウムや自然史、理工関係の展示物があります。
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鹿児島市ではこの付近から黎明館、私学校跡までの道のりを「歴史と文化の道」と呼んでいます。
少し先にある県立博物館考古資料館は日本でも数少ない石造建築物で明治16年に鹿児島市で開催された九州沖縄連合共進会のパビリオンとして建てられたものだそうです。昭和28年より県立博物館として使用され、現在は考古資料館となっています。
現在の県立博物館は昭和2年の築造で以前は図書館だったそうです。展示品としては日本には4~5体しかない恐竜の化石が2体もあります。そのほかプラネタリウムや自然史、理工関係の展示物があります。
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鹿児島県鹿児島市城山町にある西郷隆盛銅像です。
西郷隆盛の銅像は市立美術館のすぐそばにあります。台座とあわせて高さ8mの銅像です。昭和12年(1937)に西郷隆盛没後50年祭記念事業として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」で知られる安藤照が造りました。
軍服をきた西郷は明治6年の陸軍特別大演習の時の姿だといわれています。西郷は吉之助、号は南洲(なんしゅう)と名乗っていました。本名は隆永(たかなが)でした。隆盛という名は、明治天皇が西郷を表彰する際に、吉井友実に公式の場で使う諱を訊ねた時、彼の父の名「隆盛」が西郷の名であると勘違いし、これが誤って広まってしまったそうです。
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軍服をきた西郷は明治6年の陸軍特別大演習の時の姿だといわれています。西郷は吉之助、号は南洲(なんしゅう)と名乗っていました。本名は隆永(たかなが)でした。隆盛という名は、明治天皇が西郷を表彰する際に、吉井友実に公式の場で使う諱を訊ねた時、彼の父の名「隆盛」が西郷の名であると勘違いし、これが誤って広まってしまったそうです。
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