北海道函館市大町にある箱舘丸です。
現在の箱舘丸は昭和63年(1988)に 復元されたものです。
幕府は安政元年(1856)、日米和親条約を締結しました。そのことによって下田と箱舘の2港が開港されました。
箱舘奉行所では幕府に対し蝦夷地の警備や開港にともなう外国船舶との交渉上、奉行所所属の船舶が必要となりました。安政4年(1857)11月に箱舘丸が誕生しました。
箱舘丸は日本で最初に作られた帆船でした。黒船を見た函館の船匠の続豊次が自分の手で西洋型帆船を作りたいと考え、箱館港に出入する外国船を見ては、研究を重ね完成したスクネール型西洋船なのです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
現在の箱舘丸は昭和63年(1988)に 復元されたものです。
幕府は安政元年(1856)、日米和親条約を締結しました。そのことによって下田と箱舘の2港が開港されました。
箱舘奉行所では幕府に対し蝦夷地の警備や開港にともなう外国船舶との交渉上、奉行所所属の船舶が必要となりました。安政4年(1857)11月に箱舘丸が誕生しました。
箱舘丸は日本で最初に作られた帆船でした。黒船を見た函館の船匠の続豊次が自分の手で西洋型帆船を作りたいと考え、箱館港に出入する外国船を見ては、研究を重ね完成したスクネール型西洋船なのです。
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北海道函館市船見町にある外国人墓地の案内です。
外国人墓地は高龍寺近くの高台にあります。ここからは函館湾の入口を見下ろことができます。嘉永7年(1854)、ペリー艦隊来航のとき死んだ2人の水兵の埋葬場所になったのが最初です。
明治3年(1870)、在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人墓地として定められました。道をはさんで山側がロシア人墓地になっています。海側のプロテスタント墓地にはイギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア人などの墓地があります。
ロシア人墓地の斜め向かい、レンガ塀の中の祀堂は中国人墓地となっています。眺めの良いところで遊歩道もあります。海を眺めながら散策できるようになっています。
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外国人墓地は高龍寺近くの高台にあります。ここからは函館湾の入口を見下ろことができます。嘉永7年(1854)、ペリー艦隊来航のとき死んだ2人の水兵の埋葬場所になったのが最初です。
明治3年(1870)、在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人墓地として定められました。道をはさんで山側がロシア人墓地になっています。海側のプロテスタント墓地にはイギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア人などの墓地があります。
ロシア人墓地の斜め向かい、レンガ塀の中の祀堂は中国人墓地となっています。眺めの良いところで遊歩道もあります。海を眺めながら散策できるようになっています。
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北海道函館市船見町にある称名寺です。
称名寺は函館市内で高龍寺に次いで古い浄土宗のお寺です。正保元年 (1644)伊勢の円竜上人が亀田(現八幡宮付近)に阿弥陀庵を建てたのを始めとします。元禄3年(1690)護念山称名寺と改名しました。
箱館開港時にはイギリス、フランスの領事館が置かれたこともある由緒あるお寺です。明治12年(1879)の大火で本堂を焼失し、明治14年(1881)ここに移転したそうです。
境内には初代箱館館主河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、高田屋一族の墓、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑といわれる「貞治の碑」が保存されています。
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称名寺は函館市内で高龍寺に次いで古い浄土宗のお寺です。正保元年 (1644)伊勢の円竜上人が亀田(現八幡宮付近)に阿弥陀庵を建てたのを始めとします。元禄3年(1690)護念山称名寺と改名しました。
箱館開港時にはイギリス、フランスの領事館が置かれたこともある由緒あるお寺です。明治12年(1879)の大火で本堂を焼失し、明治14年(1881)ここに移転したそうです。
境内には初代箱館館主河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、高田屋一族の墓、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑といわれる「貞治の碑」が保存されています。
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北海道函館市船見町にある高龍寺の案内です。
高龍寺は寛永10年(1633)松前町の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(市内万代町近辺)に建てられました。宝永3年(1706)弁天町に移転しましたが、大火のため建物を焼失、明治12年(1879)ここに移転してきました。
明治43年(1910)に完成した山門は総ケヤキ造りで、東北以北最大の山門といわれています。彫刻が見事です。欄間は裏と表が違います。
明治2年(1869)の箱館戦争のとき、野戦病院となりました。その時に、この寺で斬殺された会津藩士を供養する「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」があります。
墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治などの墓があります。山岡鉄舟の桂掛(本堂)、五百羅漢像(開山堂)、松前藩の家老、蠣崎波響の「釈迦湟はん図」を所有しています。
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高龍寺は寛永10年(1633)松前町の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(市内万代町近辺)に建てられました。宝永3年(1706)弁天町に移転しましたが、大火のため建物を焼失、明治12年(1879)ここに移転してきました。
明治43年(1910)に完成した山門は総ケヤキ造りで、東北以北最大の山門といわれています。彫刻が見事です。欄間は裏と表が違います。
明治2年(1869)の箱館戦争のとき、野戦病院となりました。その時に、この寺で斬殺された会津藩士を供養する「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」があります。
墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治などの墓があります。山岡鉄舟の桂掛(本堂)、五百羅漢像(開山堂)、松前藩の家老、蠣崎波響の「釈迦湟はん図」を所有しています。
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北海道函館市青柳町にある函館護国神社です。
明治2年(1869)大森浜で官軍戦死者の官軍戦死者の慰霊祭の後、ここに招魂場が造られました。その後、招魂社と改称され明治9年(1876)社殿が建てられました。昭和14年(1920)護国神社と改められました。
5月11日は官軍勝利の日として祭日になっています。花見を兼ねた参拝客がここ護国神社に大勢訪れます。境内からは市街や大森浜が眺められます。
現在は箱館戦争の戦死者の他に日清、日露、第一次、第二次大戦の戦死者を合祀しています。
箱館戦争で戦死した薩長官軍の兵士をまつった墓が50基程立ち並び、旧幕府軍の碧血碑と対照的に手厚く葬られたことがうかがえます。
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明治2年(1869)大森浜で官軍戦死者の官軍戦死者の慰霊祭の後、ここに招魂場が造られました。その後、招魂社と改称され明治9年(1876)社殿が建てられました。昭和14年(1920)護国神社と改められました。
5月11日は官軍勝利の日として祭日になっています。花見を兼ねた参拝客がここ護国神社に大勢訪れます。境内からは市街や大森浜が眺められます。
現在は箱館戦争の戦死者の他に日清、日露、第一次、第二次大戦の戦死者を合祀しています。
箱館戦争で戦死した薩長官軍の兵士をまつった墓が50基程立ち並び、旧幕府軍の碧血碑と対照的に手厚く葬られたことがうかがえます。
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北海道函館市谷地頭町にある柳川熊吉翁の碑です。
柳川熊吉は、安政3年(1856)江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献しました。箱館戦争後、賊軍の慰霊を禁止した命令で、戦死した旧幕府軍将兵の遺骸は野晒しで放置されたままでした。
熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集めて同寺に葬りました。そして投獄されましたが新政府軍の田島圭蔵の計らいで、断罪を免れました。明治4年(1871)、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、碧血碑を建てました。大正2年(1913)熊吉の米寿に際し、有志らはここに寿碑を建てました。
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熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集めて同寺に葬りました。そして投獄されましたが新政府軍の田島圭蔵の計らいで、断罪を免れました。明治4年(1871)、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、碧血碑を建てました。大正2年(1913)熊吉の米寿に際し、有志らはここに寿碑を建てました。
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北海道函館市谷地頭町にある碧血碑(へっけつひ)の案内です。
碧血碑には明治元年(1868)から明治2年(1869)の箱館戦争で戦死した土方歳三、中島三郎助父子をはじめ旧幕府軍将兵役800名を葬ってあります。
碑は7回忌にあたる明治8年(1875)、箱館戦争当時陸軍奉行だった大鳥圭介や榎本武揚らの手で函館山の中腹のこの地に立てられました。
台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑です。石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運ばれたようです。碧血とは、義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色みどりいろになるとの、中国故事によるものです。
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碧血碑には明治元年(1868)から明治2年(1869)の箱館戦争で戦死した土方歳三、中島三郎助父子をはじめ旧幕府軍将兵役800名を葬ってあります。
碑は7回忌にあたる明治8年(1875)、箱館戦争当時陸軍奉行だった大鳥圭介や榎本武揚らの手で函館山の中腹のこの地に立てられました。
台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑です。石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運ばれたようです。碧血とは、義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色みどりいろになるとの、中国故事によるものです。
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