フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月5日(火) 曇り一時雨

2008-08-06 12:00:08 | Weblog
  9時、睡眠時間3時間ほどで起床。本当は昼近くまで寝ていられるのだが、目が覚めてしまったので起きる。シャワーを浴びる前に一汗かいておこうと、書斎の窓際に積まれた本を一階の書庫に移動する。本を抱えて階段を何度か上り下りする。いい運動だ。机周りをスッキリ整頓することは夏休みに移行するための儀式のようなものである。
  家を出る頃になって雨が降り出す。ベランダの洗濯物をあわてて取り込む(よかった、出る前で)。雨はだんだん激しくなっていく。雨脚が弱くなるのを待っている時間はないので、意を決して家を出る。正真正銘の土砂降りだ。道行く人達が思わず顔を見合わせて、(すごい雨ですね)と無言で会話を交わす。駅に着き、蒲田始発の電車のシートに腰を下ろして、はたしてちゃんと動くのだろうかと案じていたら、電車は時刻どおりに動き始めたのでホッとする。
  途中で丸の内の丸善に寄ってモールスキンの大判のスケジュール帳(2007年7月から2008年12月までのもの)を購入。早稲田に着く頃には雨足はだいぶ弱くなっていた。「ごんべえ」で昼食(忍者うどん)をとり、事務所で用件を済ませてから、教員ロビーで安藤先生、御子柴先生、岡部先生と来年度の現代人間論系の総合講座についての相談。話は2時間近くに及び、話題もたんに特定の科目の範囲を超えて、論系や学部の今後のあり方にまで及んだ。月に一度の論系の会議では、目先の議題を処理するので手一杯なので、こうした長期的な展望に立った意見交換の機会は貴重だ。話題になったことの一つに「2年生問題」がある。文化構想学部は2年生から論系に所属するのだが、ゼミは3年生からなので、2年生は論系に所属してはいても所属している実感はいまひとつであろう。各論系が提供している半期の専門演習が一応コアになる科目であるが、必修の専門演習というものはなく、たくさんのメニューの中から学生ひとりひとりが選択(希望者が多い場合は抽選)する形式なので、2年生のカリキュラムは個人化している。同じ論系に所属する学生として共有すべき何かがあったほうがよいのではないかと思うが、それを具体的に構想することは簡単ではない。ただ、現代人間論系総合講座は他の論系にはないものなので、やり方を工夫して、拡散と局所化(ゼミ)の傾向にある論系のカリキュラムに一定の統合機能を持たせることは可能ではないかと思う。この他にも、論系全体のオリエンテーション合宿とか、論系主催の研究会や講演会とか、論系の教員と学生、学生同士が気軽にコミュニケーションできる機会とか、学生の側からもそうしたものを求める声が出ているので、検討してゆきたい。
  会合を終え、シャノアールで一息入れる。クリームソーダとミステリー小説(貫井徳郎『追憶のかけら』)。帰りがけに階下のあゆみブックスでゲーリー・クーパー主演の『真昼の決闘』(1952年)と『西部の男』(1940年)が入ったDVDを購入。2枚組みで500円。著作権が消えた作品はかくも廉価になるのである。私はとくに西部劇のファンというわけではないが、これもまた夏休みへの移行のアイテムの一つである。蒲田に着いて、栄松堂で以下の本を購入。

  ジグムント・バウマン『新しい貧困』(青土社)
  NHKスペシャル「ワーキングプア」取材班編『ワーキングプア 解決への道』(ポプラ社)
  荻上チキ『ネットいじめ』(PHP新書)

  夕食後、さっそく『真昼の決闘』を観る。歳をとった保安官(50歳のクーパーが演じている)が新任の保安官と交代するという最後の日に、昔、彼が捕まえて刑務所送りにした男が釈放されて復讐のために正午の汽車で町に帰って来る。3人の仲間が彼の乗った汽車を待っている。保安官は自衛団を募って迎え撃とうとするが、結局、町民は誰も協力しない。私生活中心主義の小市民たち。それはおそらく戦後アメリカの大衆社会の縮図なのであろう。教会での町民たちの討論のシーンは、あの名作『十二人の怒れる男たち』を彷彿とさせるものだったが、出た結論は、保管官に町からの退去(奴らが来る前に逃げ出せ)を促すものであった。孤独な失意の保安官を最後に救った者、それは・・・。私は住民たちが最後は自治の精神に目覚めて立ち上がるのだろうと予想していたが、そうではなかった。そうか、そういう終わり方なのか。大衆社会への痛烈な批判だ。第25回アカデミー賞で4部門(主演男優賞・音楽賞・主題歌賞・編集賞)を受賞した作品。