8時、起床。ハッシュドビーフとパンと牛乳の朝食。晴天である。雨や曇り日だったら、一日、書斎と書庫の整理にあてるつもりでいたのだが、晴れているとなると話は別である。
午後、散歩に出る。「緑のコーヒー豆」でホットドッグとアイスカフェラテ。昼食の時間だが、それほどお腹が空いていなかったので、軽めのランチにした。しかし、胃にものが入ったら、胃が活動を始めたらしく、かえって食欲が出てきた。ホットドッグをもう一本、追加で注文してもよかったのだが、散歩の途中でまた別の店に入ったときのお楽しみにすることして店を出た。
財布の中に全国のTOHOシネマズで使える映画チケットが入っているので(JCBカードの貯まったポイントでゲットしたのである)、川崎に映画を観に行くことにする。時間などは調べていないが、シネコンだからいろいろな作品をやっているし、ある程度の待ち時間は喫茶店で本が読めるからかえって好都合だ。
蒲田駅のホームにて電車を待ちながら
川崎駅の階段
川崎はいつ来ても人が多い。蒲田は大田区では一番の繁華街だが、川崎とは比べものにならない。蒲田の街を歩いている人は地元の人が多いと思うが、川崎の街を歩いている人は、私がそうであるように、電車に乗って川崎にやって来る人が多いのだろう。
TOHOシネマズ川崎はダイスの7Fにある。下の階に東急ハンズや大規模書店(おかだ書店)が入っている、私にとっては楽しいビルだ。映画館のチケット売り場で上映中の作品と放映時間を見る。3時25分から『八日目の蝉』がある。待ち時間は50分ほど。ちょうどいい。これにしよう。係の女性に、「八日目の・・・」といって、一呼吸入れる。タイトルを忘れてしまったわけではない。「蝉」以外の虫の名前、たとえば「蟻」とか言ってみたい誘惑にかられたからだ。「八日目の蟻」と言ったら、その女性はどんな反応をするであろう。ぷっと吹き出してくれたら作戦成功だが、「蝉」と「蟻」は字が似ているから、このおじさん「蝉」を「蟻」と読み間違えてるわ、でも、ここで間違いを指摘したら恥をかかせてしまうわ、かわいそうだからここは合わせておきましょうと、「はい、八日目の蟻でございますね」と応じられたら、私の立つ瀬がないので、「蟻」はやめておこう、「コオロギ」はどうだろう、「八日目のコオロギ」、うん、それがいい、これなら冗談だとわかってもらえる、と頭の中で考えていたら、「八日目の蝉ですね」と言われてしまった。「は、はい。そうです」と私。たんにもの忘れのおじさんになってしまった。人気の作品のようで、最前列の席しか空いていなかった。はい、そこでお願いしますといって、座席券を受け取る。
おかだ書店で杉田峰康『人生ドラマの自己分析 交流分析の実際』(創元社)と『NHK将棋講座』5月号を購入して、映画館と同じフロアーにある中華レストラン「石庫門」で食事をとることにする。冷やし坦坦麺を注文。「映画のチケットをお持ちですか」と聞かれたので「はい」と答えると、ドリンクがサービスになるという。へぇ、そんなサービスがあるのか。ドリンクリストの中からオレンジジュースを注文する。冷やし坦坦麺はとても美味しかった。辛さはかなりのものだが、オレンジジュースがちょうど合う。
『八日目の蝉』は2時間半ほどの作品だが、まったく長さを感じさせなかった。まだ5月だが、今年の最優秀作品の有力候補となることは間違いないだろう。秀作である。
不倫相手の男の子供を身ごもった女が、男に言われて子供を堕ろし、それが元で子供を生めない身体になる。一方、男の妻は妊娠し、女に夫と別れるように執拗に言ってくる。女は男と別れる決心をするが、その前に、一目、不倫相手の男の赤ん坊を見てみたいと思う。それは生まれてくるはずだった自分の赤ん坊の生まれ変わりのように思えたのだ。赤ん坊の両親が留守の間に家に上がりこんだ女は、赤ん坊を抱き抱えて、逃亡する。赤ん坊には恵理菜という名前が付けられていたが、女は赤ん坊を薫と呼ぶ。それは生まれてくるはずだった自分の赤ん坊のために(男女どちらでもいいように)女が考えていた名前だった。こうして女と赤ん坊の逃亡生活が始まる。彼女が逮捕されたのは4年後のことだった。女の子は両親の元に戻ってきたが、彼女にとって両親は自分のことを恵理菜と呼ぶ知らないおじさんとおばさんだった。
それから20年後、恵理菜は両親の元を離れてアルバイトをしながら大学に通っていた。以前のアルバイト先の妻子のいる男性と不倫関係にあり、やがて彼の子供を身ごもる。彼女の(心理学的な)母親と同じである。違うのは、面倒なことからは逃げようとする彼と別れ、一人で子供を産んで育てる決心をするところだ。自分は母親と同じ道は歩まない、そう決心するわけだが、気持ちは不安定だ。自分のことを取材にきたルポライターの女に誘われて、かつて母親が自分を連れて逃亡したコースを辿る旅に彼女は出る。人生の最初の4年間、記憶にほとんど残っていない失われた時間、薫として生きた時間を追い求める旅だ。旅の最後で、薫と恵理菜は出会うことになる。引き裂かれた彼女の自己が重なり合う瞬間が訪れる。手短に言えば、そういうストーリーだ。
乳幼児期は子供が一番子供らしい時期である。子供らしいとは「イノセント」であるということだ。「イノセント」とは「責任がない」ということだ。どのような親の元に生まれるか、どちらの性別で生まれるか、どのような健康状態で生まれるか、これらのことについて子供には「責任がない」。成長するにつれて、自分で決めて選択する機会が増えていく。自分で選択したことについては「責任がある」。大人になるとは「イノセント」ではなくなるということだ。ところが、両親の元に戻された恵理菜は母親にしばしば「ごめんなさい」と言う子供になる。ふつうの母と子、ふつうの家族になれないことにいらだつ(生物学的な)母親が、錯乱状態に陥る度に、その責任が自分にあるのだと察知して、恵理菜は泣きながら「ごめんなさい」「ごめんさい」と謝るのだ。親から「イノセント」であることを認められ、無条件に愛されなければ、子供は自分が生まれた世界の中に入っていくことができない。「ごめんなさい」「ごめんなさい」と泣きながら謝る恵理菜は、世界の入口で立ち尽くしたまま一歩も先に進めずにいるのだ。「イノセント」であることを剥奪されてしまった恵理菜が、その後の20年間をどう生きてきたのか、映画では描かれていないが(たぶん小説でも描かれていないのではないだろうか)、それは世界と自己とが乖離した状態、どこにも「居場所のない」20年間であったはずである。世界と自己との融合が可能だとすれば、それは無条件に愛された人生最初の4年間の記憶を復元できるかどうかにかかっているわけだが、ここで復元のための重要な補助的装置となったのが家族写真である。実は、薫と母親の逃亡生活に終止符を打つきっかとなったのも、一枚の写真である。その意味では、この映画における写真は悪玉と善玉の一人二役といってよい。家族写真にサポートされて、愛された記憶を取り戻した恵理菜が、次にすべき経験は、「愛する経験」だが、それがすでに始まっていることを明示して、映画は終る。
売店で 『八日目の蝉』のパンフレットを購入。表紙の母親と女の子のシルエットが、私には『砂の器』の父親と息子のシルエットにだぶって見えた。
本日の散歩にかかった費用。
飲食費 「緑のコーヒー豆」 ホットドッグ 260円、アイスカフェラテ 300円
「石庫門」 冷やし坦坦麺 950円
書籍代 杉田峰康『人生ドラマの自己分析』(創元社) 1800円
『NHK将棋講座』5月号 500円
『八日目の蝉』パンフレット 700円
電車賃(蒲田⇔川崎往復) 300円
合計 4810円