一年の締めくくりに今年のワタシ的温泉十傑を取り上げたいところですが、年の瀬の寒さに負けて体調が優れず、どうしても温泉を語る気分になれませんので、温泉ネタは明日にまわすとして、その前に唐突ながらたまには趣向を変えて、今年日本で公開された映画のうち、私が劇場で観て面白かった8本を、順不同で寸評と一緒に列挙させていただきます。本当は十傑にしたかったのですが、そこまで頭が働かなかったので、今回は8本で許してください。
●『グランド・ブダペスト・ホテル』
独特のカットといい、甘いお菓子のような色使いといい、一応ミステリーながらもコントのようなコミカルな話の展開といい、お菓子の城のような可愛らしい世界観で繰り広げられる全てが最高に私の好み。しかし、最後の「(本作品は)シュテファン・ツヴァイクにインスパイアされた」というの意味がわからず、自分で調べてから再度劇場へ足を運んでしまった。なるほど、作家ツヴァイクが実現させたかった世界や訴えたかった主張を、監督はこの作品で表現しているんだなぁ。劇中には登場するナチスをモデルにした軍隊や、登場人物達が関係する民族問題などは、そのまんま欧州の近現代史であるし、架空の世界を舞台としているにもかかわらず、ホテルがブダペストと実在する地名を名乗っているのは、おそらく多民族社会で百花斉放だったオーストラリア・ハンガリー二重帝国時代を象徴しているのだろう。栄華を誇ったひとつのホテルの単なる栄枯盛衰譚ではなく、ヨーロッパの暗い過去と現代につながる問題を描いているようであった。
「グランド・ブダペスト・ホテル」予告編
●『アクト・オブ・キリング』
デヴィ夫人と間接的に関わりのあるお話。かつてインドネシアでスハルトが政権を奪取した際、右派による左派および中華系狩りが行われたことは、私も何かの本を読んで朧気ながら知っていた。いまだにインドネシアでは社会的な不満が鬱積すると、ストレスのはけ口として中華系住民に民衆の刃が向かいやすい。しかしながら、当時は数十万単位で大量虐殺が行われていたことを、この映画で初めて知って愕然とした。しかも、まさか国内の一部地域では、いまだに当時の行いが正義であったこととして捉えられているとは…。当時の実行部隊だったおじさんとそのチンピラ達が、いかにして反対勢力を狩って処刑したか、つまり彼らとしての「正義」を如何に守っていったかを、自分たちで演技演出して映画にするというのが本作の概要だが、その様子が実に滑稽。たとえば、デブの兄ちゃんなんて、途中から女装に凝りだして、マツコ・デラックスにしか見えなくなる。対象としている歴史的事実の重さと、描かれる様子のバカバカしさや滑稽さという、あまりに強烈なギャップに、観ているこちらの頭が混乱しそうになった。エンドロールにAnonymousがズラズラっと並ぶところも、この映画が描く不気味さの象徴のひとつ。つまり映画協力者と知れると、身の安全が脅かされちゃうわけだ。20世紀ならともかく、現代でもそんな状況なのだから、暗澹とした心境にならざるを得ない。尤も日本だって似通ったメンタリティはあるんだから、他人事じゃないんだけどさ。おじさんがむせび泣くラストシーンに、誰にでも他者の苦しみを理解できる人間性があるのだという一縷の望みが見いだせたことは、ちょっとした幸い。
映画『アクト・オブ・キリング』予告編
●『ブルージャスミン』
あらすじとしては名作「欲望という名の電車」に似ており、落ちぶれた都市生活者のセレブ姉が、品のない男と暮らす妹のところへ身を寄せるという話の流れもそっくりそのまま。でもウディ・アレンによる解釈により、話がより深みを持ち、且つユニークに展開されている。
主人公の姉は、ニューヨークから追い出されて財産を失い、裸一貫から生活を立て直さなきゃいけないのに、いつまでもセレブを気取って、現実と向きあおうとしない。下品な男と暮らす妹やその環境を馬鹿にするが、そんな妹に頼らないと姉は生活していけない。この姉の矛盾に満ちた言動が実にユニークで、作品鑑賞中の私はひたすら主人公の現実逃避っぷりを嗤っていたのだが、当のご本人は必死に過去の栄光にしがみつこうとしているわけで、おばさんならずとも人間たるものは誰だってそうであり、それほどヴァニティは本能的なものでもある。それゆえ、主人公を嘲笑した自分を後悔したくなるほど、ラストシーンの虚しさや残酷さったらありゃしない。背筋がゾッと寒くなった。
映画『ブルージャスミン』予告編
●『あなたを抱きしめる日まで』
今年の6月に「子ども800人の遺骨か、修道会関連施設で発見 アイルランド」(CNN.co.jp)というニュースが報じられた。カトリックの戒律が厳しいアイルランドでは、未婚の母(つまり婚前のセックス)をはじめ、男に色気を使ったりキスをしたりと、女性が性的にちょっとでも不貞と思われることをやらかすと(あるいはそのように誤解されただけでも)、修道院へ強制収容されて、「心の洗濯と同義なのよ!」と言わんばかりに何年もの間、ひたすらクリーニング労働に従事させられた。そしてその間に生まれた子供は、海外に売り飛ばされるか、あの世に葬りさられてしまったのというのだから恐ろしい。800人の子供の遺骨はまさにそのことを指している。しかも比較的最近まで続けられていたというのだから驚きだ。詳しくは『マグダレンの祈り』という映画で描かれており、私もその作品をDVDで借りて予習をしてから、本作を観に劇場へ赴いた。
そんな修道院にまつわる話なので、てっきり重いトーンなのかと思いきや、意外にもコメディタッチで描かれ、ドタバタ劇も織り込まれており、おかげでスムーズに話に入りこむことができた。簡単なあらすじを述べれば、修道院に収容されていた頃、自分の幼い子供を失った主人公のフィロミーナおばさんが、職を失って不貞腐れているジャーナリストとともに、子供の行方を探すといったもの。調査の過程で、子供はアメリカに売られていたことがわかり、ジャーナリストとおばさんはアメリカへ渡り、そこでドタバタ劇となるわけだが、果たして子供に会えるのか…。フィロミーナおばさんは、最後の最後まで教会に悉く裏切られてしまうにもかかわらず、そんな教会や修道院を許すというのだから、おばさんこそ寛恕と慈愛に満ちた神の如き存在なのであった(と無宗教の私は薄っぺらな感想を抱いた)。
『あなたを抱きしめる日まで』予告編
●『6才のボクが、大人になるまで』
一般的に、ひとつの映画作品で何年もの長期を描く場合、登場人物一人に対して各時代設定にあった役者を使う。子供時代だったら子役を、学生時代だったらティーンの役者を、老人だったら年寄りか特殊メークした役者を、という具合に。しかしこの作品は12年間、同じ役者を変えること無く映し続けているので、主人公の男の子をはじめ、各登場人物がどのように成長あるいは老化していったかを、2時間半の間で物語とともに「観察」することになる。ドラマ「北の国から」は、長年にわたる放送の間で、歯茎女子の蛍とドン臭そうな純の成長を追うことも、視聴者としての楽しみのひとつであったわけだから、この映画はアメリカ版「北の国から」と言えるのかもしれない。とはいえ、草太兄ちゃんが事故死したり、トロ子が孕んで五郎さんが誠意の謝罪をするような、特段大きなイベントが劇中で起きるわけでもない。たしかにママは2度も離婚し、2度目はアル中の暴力亭主から逃げ出すという波乱もあるが、せいぜいその程度。でも、主人公の男の子が学校に入る、ゲーム機に夢中になる、少しずつ大人の事情を知る、エロいことに興味を持つ、声変りをする、童貞のくせに「もうヤってるぜ」と虚勢を張る、飲めもしない酒を無理して飲んでみる、髭を生やしてむさ苦しい風貌になる、恋をするものの女心がちっとも摑めない…などなど、自分の子供時代や思春期の頃を思い出さずにはいられない数々のエピソードが、あたかもドキュメンタリーのように展開されてゆくところは、なんだかんだで面白い。12年間同じ演者で撮り続けてきたからこその不思議な魔力であり、スタティックな魅力は小津安二郎に通じるものがあるのかもしれない。
尤も、この作品がアメリカでヒットしたのは、物語の進展と並んで、懐かしいグッズや光景、流行がリアルに映し出されていることも大きかったのではないか。つまり最近の日本で言う「あまちゃん」ブーム(80年代を思い出させる懐かしさが人気に拍車をかけたこと)に似ているような気がする。それゆえアメリカではみんなの共感(郷愁)を誘ったが、それ以外の国では盛り上がりに欠け、あまり話題にならなかったのかも。でも、ゲームボーイからDSへといったゲーム機の変遷や、いまやレームダックと化したオバマがまだ時代の寵児であった頃の大統領戦など、日本人でも楽しめる時代描写(描写というかリアルにその当時のものだけど)が散見されたので、そうした点を手掛かりにするのも良いかも。
『6才のボクが、大人になるまで』予告編
●『少女は自転車に乗って』
学生時代から私は年に何回か、古本を漁るついでに神保町の岩波ホールへ足を運んでいる(神保町自体はしょっちゅう行ってます)。今年岩波ホールで上映された作品で最も感心したのが『少女は自転車に乗って』であった。タイトルの通り、サウジアラビアに住む一人のオテンバな女の子が、どうしても自転車に乗りたいがために、悪戦苦闘しながらお金を貯めて購入に挑むという、ただそれだけの話なのであるが、なぜ自転車に乗るためだけに悪戦苦闘しなきゃいけないのか。それはサウジアラビアが圧倒的な男尊女卑社会であり、女は自転車に乗ることが禁止されていたからだ。この映画公開後にその規制は解除されたらしいが、いまでも自動車の運転はNGである。驚くべきは、この映画がそんなサウジアラビアで撮影され、しかも監督がサウジアラビア人の女性であるという点。よくぞ撮影できたものだと、感心しきり。作品を観ていると、ところどころで状況理解が追いつかずにモヤモヤっと引っ掛かる場面があるのだが、敢えてそこを説明しないからこそ、当地独特のクローズドな社会が浮き彫りにされるのかもしれない。
しかしながらである。この映画を通じて「やっぱりイスラムはダメじゃん」という認識は大いなる誤りだ。イスラム圏でも女性の社会進出が進んでいる国はあり、世界経済フォーラムのランキング(Global Gender Gap Index 2014)によれば我が日本はイスラム教国のインドネシアにも劣っていると示されちゃう始末であるから、宗教云々が問題ではない。本作品の舞台においては、不平等を維持することによって既得権益を堅持しようとする国家体制に問題があるのであり、同時に、アメリカなど西側の国家は、しばしば人権に関して余所の国にちょっかい出すくせに、石油産出国に対して何も言えないという悲しく情けない現実が、この作品から透けて見えるのである。余談だが、日本と韓国はしばしば儒教が男女不平等の原因だと指摘されるが、儒教というよりその派生である朱子学の影響がデカいと思う。余談ついでに、スンニ派と犬猿の仲であるシーア派の国家イランでも、ジャファール・パナヒという監督が、軟禁されて映画制作を禁じられていた最中に『これは映画ではない』というメッセージ性の強い作品を、2012年に発表して話題になった。抑圧からの解放を願う芸術家のパワーはすさまじい。
映画『少女は自転車にのって』予告編
●『アデル、ブルーは熱い色』
一人のティーンの女の子がレズビアンに目覚め、恋をして燃え上がるが、やがてすれ違って喧嘩をし、修復できなくなって別れてゆくという、同性愛ラブストーリーなのだが、心理描写が非常に細かく、人を愛する情熱、苦しみ、次第に気づいてゆく自分と相手との能力や境遇の決定的な差などが、画面を通じて追体験できるので、私のような女好きの助平男でも心にグッと来る。また演者の表情をアップで捉える場面がひたすら続くので、ある意味で顔芸の映画でもある。
主人公はいわゆる平凡な家庭で生まれ、あんまり育ちがよろしくなく、両親も食に無頓着で、諸々の発想も人並みを越えない。一方主人公が好きになった相手は、センスが良いブルジョアな両親のもとで育ち、自身も繊細で才能に優れている。好きになった当初はそうした相手の属性も魅力なのだが、やがてそれが齟齬を生み、看過できない価値観の違いとなって、別れへと向かってゆく。対照的な性格と、はっきりと階級が異なる二人が恋に落ちたらどうなるのか、というのもこの映画のテーマ。つまりレズものでありながら、テーマはかなり普遍的なのである。
しかし、同性愛に目覚めてから初めてレズHをするまで1時間もかけて描いており、しかも途中でフランス文学やサルトル云々といった哲学の話が挿入される上、全編で3時間も要しているため、あまりにゆっくりとした展開に退屈しちゃう人はかなりいるだろう。好き嫌いが分かれることは必至。ぶっちゃけ、私は観賞中におしりが痛くなり、終了までの時間が気になってしまった。でもその分描写が細かいので、一度入りこめれば、そこからどんどん2人の心理と一体化できてゆく。
私としては、主人公が相手と別れた後も平然と出勤できているものの、仕事が終わってふと何もない時間が訪れた時に、いきなり失恋の悲しみに襲われるという場面で、思わず感極まってウワワワッと声を上げそうになってしまった。急激な状態の変化は、えてして現実に対する体感を喪失させる。失恋や死別など、激しい悲しみの感情は、その場でいきなり来るものではなく、後々にふと自分一人になった時、時間差で海嘯のように襲ってくるものだ。また、ラストで別れが決定的になった後、主人公がデートで坐った想い出のベンチに行って、一人でそこに腰かけるシーンなども、実に切なくて胸が痛くなる。
なお私は無修正の海外版を観たが、海外で「近年記憶される中でも、最も爆発的な写実的セックスシーン」と評価されるのは、なるほど御尤もと半分同意。でも日本の変態AVを見慣れた私には、初めてのレズHなのに、あんなにスムーズに相手とできるもんかね、と変なところで首を傾げざるを得なかった。芸術的に綺麗に描きすぎじゃねえのかな。公開後の女優に対するインタビューによれば、女性器に関してはフェイクのものを使ったそうだが、男性の方は言及がない。私が見た限り、勃起したオチン●ンは本物っぽかったんだけど、実際のところはどうなのかな…。ま、どうでもいいや。
画面に必ず青い色が何かしらの物が映り込むところは、とっても素敵。
『アデル、ブルーは熱い色』予告編
●『ゴーン・ガール』
年末にドデカイ秀作が公開され、おったまげた。とにかくロザムンド・パイクという女優の演技力がすごい。映画通ならこの女優をご存知なのかもしれないが、横文字の固有名詞を悉く覚えられない私は、おそらく今回初めてお目にかかったはず。こんな女優がいたのか! 恐れ入りました…。もちろん、ダメ夫ぶりを演じるベン・アフレックも立派。妻失踪の犯人として夫に疑念がかけられるが、その疑いに対する夫の抗弁があまり語られないことに加え、夫のだらしない体型や適当でいい加減な人柄によって、劇中における世間やマスコミの魔女狩り(というか夫の吊るし上げ)に観客のこちらまで加担したくなってしまう。あの夫と「アルゴ」の監督が同一人物だとは信じられない(もちろん劇中と実際の人物とは違うけどさ)。
やっぱりデヴィッド・フィンチャーの緻密な作り込みは素晴らしい。上映時間の2時間半はちっとも退屈しない。はじめの1時間は妻の失踪に関して嫌疑がかけられた夫や、夫を追いこんでゆく世間一般を描くミステリーだが、次の1時間は妻による復讐の様子が明らかになる痛快劇に一変し、残り30分で作品が観客に訴えるメタファーをたたみかけてゆく。だらしない男の一員である私としては、夫の立場に共感したくなるため、観終わった後は、慄然として口をあんぐり開けてしまい、つくづく異性や人間が怖くなった。そして、レイトショーで観た私は、真っ暗な道を一人で帰宅しなければいけないことに激しく後悔した。
最終的に語られる作品のメタファーは「夫婦と言う近くて遠い他人同士」についてであるが、安直に魔女狩りするくせにコロッと手のひらを返す世間や、それを助長し煽動するマスコミなど、社会に対する批判もしっかり(巧みに)盛り込まれており、それゆえに夫婦と言う枠を超え、人間の弱さや醜さなど万人共通の普遍的テーマについても考えさせられる。話に沿ってタイトルをつけるならば、「ガール」ではなく「ワイフ」にしなくちゃいけないが、なぜガールなのかという点も意味深だ。妻の両親が幼いころから「かくあるべき」というイメージを子供に押し付けて育ててきたことと、彼女がサイコパス気質となったこと、抑圧から解放されようと願って奇特な行動に出たことは無縁ではない。
ついでに言えば、夫の不倫相手の美巨乳には目が釘づけになった。そんなことを言っていると、俺も将来的には女に復讐されるのかな。
映画『ゴーン・ガール』第2弾予告編
あぁ、素人が偉そうにツラツラと屁理屈を語るもんだから、落語「酢豆腐」みたいな、半可通でトンチンカンなレビューになっちまいやがった…。やっぱり私は素直に温泉について語るだけにとどめておいた方が良さそうです。
次回は本年最後の記事、2014年の温泉十傑です。
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●『グランド・ブダペスト・ホテル』
独特のカットといい、甘いお菓子のような色使いといい、一応ミステリーながらもコントのようなコミカルな話の展開といい、お菓子の城のような可愛らしい世界観で繰り広げられる全てが最高に私の好み。しかし、最後の「(本作品は)シュテファン・ツヴァイクにインスパイアされた」というの意味がわからず、自分で調べてから再度劇場へ足を運んでしまった。なるほど、作家ツヴァイクが実現させたかった世界や訴えたかった主張を、監督はこの作品で表現しているんだなぁ。劇中には登場するナチスをモデルにした軍隊や、登場人物達が関係する民族問題などは、そのまんま欧州の近現代史であるし、架空の世界を舞台としているにもかかわらず、ホテルがブダペストと実在する地名を名乗っているのは、おそらく多民族社会で百花斉放だったオーストラリア・ハンガリー二重帝国時代を象徴しているのだろう。栄華を誇ったひとつのホテルの単なる栄枯盛衰譚ではなく、ヨーロッパの暗い過去と現代につながる問題を描いているようであった。
「グランド・ブダペスト・ホテル」予告編
●『アクト・オブ・キリング』
デヴィ夫人と間接的に関わりのあるお話。かつてインドネシアでスハルトが政権を奪取した際、右派による左派および中華系狩りが行われたことは、私も何かの本を読んで朧気ながら知っていた。いまだにインドネシアでは社会的な不満が鬱積すると、ストレスのはけ口として中華系住民に民衆の刃が向かいやすい。しかしながら、当時は数十万単位で大量虐殺が行われていたことを、この映画で初めて知って愕然とした。しかも、まさか国内の一部地域では、いまだに当時の行いが正義であったこととして捉えられているとは…。当時の実行部隊だったおじさんとそのチンピラ達が、いかにして反対勢力を狩って処刑したか、つまり彼らとしての「正義」を如何に守っていったかを、自分たちで演技演出して映画にするというのが本作の概要だが、その様子が実に滑稽。たとえば、デブの兄ちゃんなんて、途中から女装に凝りだして、マツコ・デラックスにしか見えなくなる。対象としている歴史的事実の重さと、描かれる様子のバカバカしさや滑稽さという、あまりに強烈なギャップに、観ているこちらの頭が混乱しそうになった。エンドロールにAnonymousがズラズラっと並ぶところも、この映画が描く不気味さの象徴のひとつ。つまり映画協力者と知れると、身の安全が脅かされちゃうわけだ。20世紀ならともかく、現代でもそんな状況なのだから、暗澹とした心境にならざるを得ない。尤も日本だって似通ったメンタリティはあるんだから、他人事じゃないんだけどさ。おじさんがむせび泣くラストシーンに、誰にでも他者の苦しみを理解できる人間性があるのだという一縷の望みが見いだせたことは、ちょっとした幸い。
映画『アクト・オブ・キリング』予告編
●『ブルージャスミン』
あらすじとしては名作「欲望という名の電車」に似ており、落ちぶれた都市生活者のセレブ姉が、品のない男と暮らす妹のところへ身を寄せるという話の流れもそっくりそのまま。でもウディ・アレンによる解釈により、話がより深みを持ち、且つユニークに展開されている。
主人公の姉は、ニューヨークから追い出されて財産を失い、裸一貫から生活を立て直さなきゃいけないのに、いつまでもセレブを気取って、現実と向きあおうとしない。下品な男と暮らす妹やその環境を馬鹿にするが、そんな妹に頼らないと姉は生活していけない。この姉の矛盾に満ちた言動が実にユニークで、作品鑑賞中の私はひたすら主人公の現実逃避っぷりを嗤っていたのだが、当のご本人は必死に過去の栄光にしがみつこうとしているわけで、おばさんならずとも人間たるものは誰だってそうであり、それほどヴァニティは本能的なものでもある。それゆえ、主人公を嘲笑した自分を後悔したくなるほど、ラストシーンの虚しさや残酷さったらありゃしない。背筋がゾッと寒くなった。
映画『ブルージャスミン』予告編
●『あなたを抱きしめる日まで』
今年の6月に「子ども800人の遺骨か、修道会関連施設で発見 アイルランド」(CNN.co.jp)というニュースが報じられた。カトリックの戒律が厳しいアイルランドでは、未婚の母(つまり婚前のセックス)をはじめ、男に色気を使ったりキスをしたりと、女性が性的にちょっとでも不貞と思われることをやらかすと(あるいはそのように誤解されただけでも)、修道院へ強制収容されて、「心の洗濯と同義なのよ!」と言わんばかりに何年もの間、ひたすらクリーニング労働に従事させられた。そしてその間に生まれた子供は、海外に売り飛ばされるか、あの世に葬りさられてしまったのというのだから恐ろしい。800人の子供の遺骨はまさにそのことを指している。しかも比較的最近まで続けられていたというのだから驚きだ。詳しくは『マグダレンの祈り』という映画で描かれており、私もその作品をDVDで借りて予習をしてから、本作を観に劇場へ赴いた。
そんな修道院にまつわる話なので、てっきり重いトーンなのかと思いきや、意外にもコメディタッチで描かれ、ドタバタ劇も織り込まれており、おかげでスムーズに話に入りこむことができた。簡単なあらすじを述べれば、修道院に収容されていた頃、自分の幼い子供を失った主人公のフィロミーナおばさんが、職を失って不貞腐れているジャーナリストとともに、子供の行方を探すといったもの。調査の過程で、子供はアメリカに売られていたことがわかり、ジャーナリストとおばさんはアメリカへ渡り、そこでドタバタ劇となるわけだが、果たして子供に会えるのか…。フィロミーナおばさんは、最後の最後まで教会に悉く裏切られてしまうにもかかわらず、そんな教会や修道院を許すというのだから、おばさんこそ寛恕と慈愛に満ちた神の如き存在なのであった(と無宗教の私は薄っぺらな感想を抱いた)。
『あなたを抱きしめる日まで』予告編
●『6才のボクが、大人になるまで』
一般的に、ひとつの映画作品で何年もの長期を描く場合、登場人物一人に対して各時代設定にあった役者を使う。子供時代だったら子役を、学生時代だったらティーンの役者を、老人だったら年寄りか特殊メークした役者を、という具合に。しかしこの作品は12年間、同じ役者を変えること無く映し続けているので、主人公の男の子をはじめ、各登場人物がどのように成長あるいは老化していったかを、2時間半の間で物語とともに「観察」することになる。ドラマ「北の国から」は、長年にわたる放送の間で、歯茎女子の蛍とドン臭そうな純の成長を追うことも、視聴者としての楽しみのひとつであったわけだから、この映画はアメリカ版「北の国から」と言えるのかもしれない。とはいえ、草太兄ちゃんが事故死したり、トロ子が孕んで五郎さんが誠意の謝罪をするような、特段大きなイベントが劇中で起きるわけでもない。たしかにママは2度も離婚し、2度目はアル中の暴力亭主から逃げ出すという波乱もあるが、せいぜいその程度。でも、主人公の男の子が学校に入る、ゲーム機に夢中になる、少しずつ大人の事情を知る、エロいことに興味を持つ、声変りをする、童貞のくせに「もうヤってるぜ」と虚勢を張る、飲めもしない酒を無理して飲んでみる、髭を生やしてむさ苦しい風貌になる、恋をするものの女心がちっとも摑めない…などなど、自分の子供時代や思春期の頃を思い出さずにはいられない数々のエピソードが、あたかもドキュメンタリーのように展開されてゆくところは、なんだかんだで面白い。12年間同じ演者で撮り続けてきたからこその不思議な魔力であり、スタティックな魅力は小津安二郎に通じるものがあるのかもしれない。
尤も、この作品がアメリカでヒットしたのは、物語の進展と並んで、懐かしいグッズや光景、流行がリアルに映し出されていることも大きかったのではないか。つまり最近の日本で言う「あまちゃん」ブーム(80年代を思い出させる懐かしさが人気に拍車をかけたこと)に似ているような気がする。それゆえアメリカではみんなの共感(郷愁)を誘ったが、それ以外の国では盛り上がりに欠け、あまり話題にならなかったのかも。でも、ゲームボーイからDSへといったゲーム機の変遷や、いまやレームダックと化したオバマがまだ時代の寵児であった頃の大統領戦など、日本人でも楽しめる時代描写(描写というかリアルにその当時のものだけど)が散見されたので、そうした点を手掛かりにするのも良いかも。
『6才のボクが、大人になるまで』予告編
●『少女は自転車に乗って』
学生時代から私は年に何回か、古本を漁るついでに神保町の岩波ホールへ足を運んでいる(神保町自体はしょっちゅう行ってます)。今年岩波ホールで上映された作品で最も感心したのが『少女は自転車に乗って』であった。タイトルの通り、サウジアラビアに住む一人のオテンバな女の子が、どうしても自転車に乗りたいがために、悪戦苦闘しながらお金を貯めて購入に挑むという、ただそれだけの話なのであるが、なぜ自転車に乗るためだけに悪戦苦闘しなきゃいけないのか。それはサウジアラビアが圧倒的な男尊女卑社会であり、女は自転車に乗ることが禁止されていたからだ。この映画公開後にその規制は解除されたらしいが、いまでも自動車の運転はNGである。驚くべきは、この映画がそんなサウジアラビアで撮影され、しかも監督がサウジアラビア人の女性であるという点。よくぞ撮影できたものだと、感心しきり。作品を観ていると、ところどころで状況理解が追いつかずにモヤモヤっと引っ掛かる場面があるのだが、敢えてそこを説明しないからこそ、当地独特のクローズドな社会が浮き彫りにされるのかもしれない。
しかしながらである。この映画を通じて「やっぱりイスラムはダメじゃん」という認識は大いなる誤りだ。イスラム圏でも女性の社会進出が進んでいる国はあり、世界経済フォーラムのランキング(Global Gender Gap Index 2014)によれば我が日本はイスラム教国のインドネシアにも劣っていると示されちゃう始末であるから、宗教云々が問題ではない。本作品の舞台においては、不平等を維持することによって既得権益を堅持しようとする国家体制に問題があるのであり、同時に、アメリカなど西側の国家は、しばしば人権に関して余所の国にちょっかい出すくせに、石油産出国に対して何も言えないという悲しく情けない現実が、この作品から透けて見えるのである。余談だが、日本と韓国はしばしば儒教が男女不平等の原因だと指摘されるが、儒教というよりその派生である朱子学の影響がデカいと思う。余談ついでに、スンニ派と犬猿の仲であるシーア派の国家イランでも、ジャファール・パナヒという監督が、軟禁されて映画制作を禁じられていた最中に『これは映画ではない』というメッセージ性の強い作品を、2012年に発表して話題になった。抑圧からの解放を願う芸術家のパワーはすさまじい。
映画『少女は自転車にのって』予告編
●『アデル、ブルーは熱い色』
一人のティーンの女の子がレズビアンに目覚め、恋をして燃え上がるが、やがてすれ違って喧嘩をし、修復できなくなって別れてゆくという、同性愛ラブストーリーなのだが、心理描写が非常に細かく、人を愛する情熱、苦しみ、次第に気づいてゆく自分と相手との能力や境遇の決定的な差などが、画面を通じて追体験できるので、私のような女好きの助平男でも心にグッと来る。また演者の表情をアップで捉える場面がひたすら続くので、ある意味で顔芸の映画でもある。
主人公はいわゆる平凡な家庭で生まれ、あんまり育ちがよろしくなく、両親も食に無頓着で、諸々の発想も人並みを越えない。一方主人公が好きになった相手は、センスが良いブルジョアな両親のもとで育ち、自身も繊細で才能に優れている。好きになった当初はそうした相手の属性も魅力なのだが、やがてそれが齟齬を生み、看過できない価値観の違いとなって、別れへと向かってゆく。対照的な性格と、はっきりと階級が異なる二人が恋に落ちたらどうなるのか、というのもこの映画のテーマ。つまりレズものでありながら、テーマはかなり普遍的なのである。
しかし、同性愛に目覚めてから初めてレズHをするまで1時間もかけて描いており、しかも途中でフランス文学やサルトル云々といった哲学の話が挿入される上、全編で3時間も要しているため、あまりにゆっくりとした展開に退屈しちゃう人はかなりいるだろう。好き嫌いが分かれることは必至。ぶっちゃけ、私は観賞中におしりが痛くなり、終了までの時間が気になってしまった。でもその分描写が細かいので、一度入りこめれば、そこからどんどん2人の心理と一体化できてゆく。
私としては、主人公が相手と別れた後も平然と出勤できているものの、仕事が終わってふと何もない時間が訪れた時に、いきなり失恋の悲しみに襲われるという場面で、思わず感極まってウワワワッと声を上げそうになってしまった。急激な状態の変化は、えてして現実に対する体感を喪失させる。失恋や死別など、激しい悲しみの感情は、その場でいきなり来るものではなく、後々にふと自分一人になった時、時間差で海嘯のように襲ってくるものだ。また、ラストで別れが決定的になった後、主人公がデートで坐った想い出のベンチに行って、一人でそこに腰かけるシーンなども、実に切なくて胸が痛くなる。
なお私は無修正の海外版を観たが、海外で「近年記憶される中でも、最も爆発的な写実的セックスシーン」と評価されるのは、なるほど御尤もと半分同意。でも日本の変態AVを見慣れた私には、初めてのレズHなのに、あんなにスムーズに相手とできるもんかね、と変なところで首を傾げざるを得なかった。芸術的に綺麗に描きすぎじゃねえのかな。公開後の女優に対するインタビューによれば、女性器に関してはフェイクのものを使ったそうだが、男性の方は言及がない。私が見た限り、勃起したオチン●ンは本物っぽかったんだけど、実際のところはどうなのかな…。ま、どうでもいいや。
画面に必ず青い色が何かしらの物が映り込むところは、とっても素敵。
『アデル、ブルーは熱い色』予告編
●『ゴーン・ガール』
年末にドデカイ秀作が公開され、おったまげた。とにかくロザムンド・パイクという女優の演技力がすごい。映画通ならこの女優をご存知なのかもしれないが、横文字の固有名詞を悉く覚えられない私は、おそらく今回初めてお目にかかったはず。こんな女優がいたのか! 恐れ入りました…。もちろん、ダメ夫ぶりを演じるベン・アフレックも立派。妻失踪の犯人として夫に疑念がかけられるが、その疑いに対する夫の抗弁があまり語られないことに加え、夫のだらしない体型や適当でいい加減な人柄によって、劇中における世間やマスコミの魔女狩り(というか夫の吊るし上げ)に観客のこちらまで加担したくなってしまう。あの夫と「アルゴ」の監督が同一人物だとは信じられない(もちろん劇中と実際の人物とは違うけどさ)。
やっぱりデヴィッド・フィンチャーの緻密な作り込みは素晴らしい。上映時間の2時間半はちっとも退屈しない。はじめの1時間は妻の失踪に関して嫌疑がかけられた夫や、夫を追いこんでゆく世間一般を描くミステリーだが、次の1時間は妻による復讐の様子が明らかになる痛快劇に一変し、残り30分で作品が観客に訴えるメタファーをたたみかけてゆく。だらしない男の一員である私としては、夫の立場に共感したくなるため、観終わった後は、慄然として口をあんぐり開けてしまい、つくづく異性や人間が怖くなった。そして、レイトショーで観た私は、真っ暗な道を一人で帰宅しなければいけないことに激しく後悔した。
最終的に語られる作品のメタファーは「夫婦と言う近くて遠い他人同士」についてであるが、安直に魔女狩りするくせにコロッと手のひらを返す世間や、それを助長し煽動するマスコミなど、社会に対する批判もしっかり(巧みに)盛り込まれており、それゆえに夫婦と言う枠を超え、人間の弱さや醜さなど万人共通の普遍的テーマについても考えさせられる。話に沿ってタイトルをつけるならば、「ガール」ではなく「ワイフ」にしなくちゃいけないが、なぜガールなのかという点も意味深だ。妻の両親が幼いころから「かくあるべき」というイメージを子供に押し付けて育ててきたことと、彼女がサイコパス気質となったこと、抑圧から解放されようと願って奇特な行動に出たことは無縁ではない。
ついでに言えば、夫の不倫相手の美巨乳には目が釘づけになった。そんなことを言っていると、俺も将来的には女に復讐されるのかな。
映画『ゴーン・ガール』第2弾予告編
あぁ、素人が偉そうにツラツラと屁理屈を語るもんだから、落語「酢豆腐」みたいな、半可通でトンチンカンなレビューになっちまいやがった…。やっぱり私は素直に温泉について語るだけにとどめておいた方が良さそうです。
次回は本年最後の記事、2014年の温泉十傑です。
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