少し前に届いた、H氏のネット情報に“経済栄えて文化滅ぶ”というタイトルの記事がありました。
作家の浅田次郎さんが、著作隣接権と電子出版権に関して、世の動向があまりに文化・創造の基本から
遠ざかっていることに警鐘を発しています。
ここで、著作隣接権とは、どういうことかといえば、“著作物の創作者そのものではないが、著作物の
伝達に重要な役割を果たしている実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者に認められた権利” で、
出版社には認められていないのですね。
以下に記事を転載します。
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新潮45 2013年09月号 p72-77
「経済栄えて文化滅ぶ」 浅田 次郎(作家)
【要旨】日本は、書籍だけでも年間8万点近くの新刊書が発行されている「出版大国」といえる。
しかしながら、出版業界では「出版不況」と呼ばれる状況が続くとともに、電子書籍の登場・普及と、
それに伴ういわゆる「自炊」の問題、図書館をめぐる問題など、さまざまな課題が噴出しているのも
事実である。 とくにクローズアップされているのが「著作隣接権」をめぐる問題。
著作隣接権とは、音楽の世界で、作詞作曲を行わない歌手などに付されているもので、出版業界においては、
著者は著作権を有するが、出版社には著作隣接権は認められていなかった。
そこで出版社から、出版物の著作隣接権をめぐる法整備をすべきとの声が上がっているのである。
本記事は、『鉄道員』で知られる直木賞作家・浅田次郎氏が、インタビューに答えるかたちで、上記のような
諸問題に言及。経済中心の考え方や、長年培われた出版社による「創造のサイクル」が失われつつあることなど、
出版に支えられる日本の「文化」の危機について警鐘を鳴らしている。
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この間、私は少し勉強をさせてもらって、出版社の宿願であった「著作隣接権」というものが、日本の出版文化に
根ざした最も穏当なものではないかと思っていたんです。ところが文化庁はそれを否定し、今年2月に発表された
経団連の案(「新潮45」編集部註:日本の電子書籍ビジネスはアメリカに大きく遅れている。
それを是正するため新たに「電子出版権」を創設する、とする提言)に近いものを考えているとおっしゃる。
そもそもなんで経団連が「出版者の権利」に介入するのか、それがまず分かりませんね。
私は世界の中で日本は明らかに突出的な出版大国だと思いますよ。 出版の点数からいっても、街中で
本を読んでいる人の数から考えてもそう感じる。それがなぜアメリカンスタンダードを目指せと言うんですかね。
確かにいろいろな分野で、アメリカンスタンダードを真似るというのは仕方がない面もあります。
しかし中にはアメリカの方が決定的に劣っている分野はあるわけで、それについても、これはアメリカの常識で
あるから日本の常識にしよう、というのは間違っていますよ。 「著作隣接権はアメリカにないからダメ」というのは
おかしい。日本では、著者と出版社さらには書店との関係の中で、長いこと豊かな活字文化を育んで来たんです。
日本がどこを真似るということではなく、ジャパニーズスタンダードというものを世界に提示することのほうが
ずっと大事でしょう。
出版産業というのは経済全体から見ると非常に小さな企業の集まりだと思うんです。だから、経済界は
その産業を保護するという意志を欠いているんじゃないですかね。そこには出版業が国家の固有の文化の
要であるという考え方が欠落している。
やっぱり文化というのは、国家の最大の礎であって、その上に産業も何も成り立っている。
だからその基盤を支えている小さな産業というのは、一番大切にしなければならない国家の屋台骨です。
それがつぶれるような仕組みを考えるのは、やっぱり大間違いですよ。
日本語は二千年からの長い歴史を持ち、その間に熟成されていった言語です。
グローバリズムの旗手だと多くの日本人が錯誤しているアメリカという国は、アメリカ大陸が発見されたのが
15世紀末。 私たちはそのずっと以前に豊かな文学を持っていました。一部の教養人が支えるアメリカという国と、
識字率も高く、多くの知識を持った国民の集合体である日本とは大きな違いがあるわけですよ。
日本はそういう意味での出版大国であり、言語大国であるんです。
私たちは、かつてエコノミックアニマルと呼ばれて蔑まれました。その路線を行ったがゆえに、結局経済が崩壊した。
これは文化という基盤を無視して経済を優先した結果なんです。
結局、金儲けの好きなお寺のようなもので、観光客さえ来て賽銭さえ集まれば、どんなにおもしろい話をでっち上げても
いいとか、どんなに珍しいものをつくっても、色を塗りかえてもいいというような考えと同じですね。
それはおかしな話です。
私たち作家というものは、今ある出版社に仕事を依存しているわけだけれども、「電子出版権」が出来れば
それ以外の道がひらけてしまう。出版社を経由しないで、IT企業と仕事をするようなケースというのも出てくるかもしれない。
私たち作家は、作品を書くうえで出版社の編集や校閲の人たちの助力を得ています。特に校閲の重要性は
あまり一般には理解されていないですね。一人前の校閲者になるには入社から20年はかかるという。
本当に職人というかプロの世界なんです。
私がいつも講演などでも力説するのは、デジタルとアナログの違いというのは実は校閲なんだ、ということです。
パソコンに出てくるネットの情報は、いい加減なものが多い。これはどうしてかというと、ようするに校閲機能がないからです。
パソコン上のほとんどの情報というのは、何の権威の裏付けもない、言ってみれば知ったかぶりか、
ある市井の物知り博士の言っていることが多くて、何の校閲も受けていない。
それが私が全くネットの情報を信用しないという一番大きな理由です。ところが、多くの国民は、
今、パソコンやスマホに入ってきている情報というのが真実であるかのごとく信じ込まされている。
一方、書籍をつくる経緯というのは、もう完成されているんです。校閲以前に作者と編集者の間でやりとりがあり、
作者から編集者へ、編集者から校閲へ、校閲からまた作者へという、こういう段階を何回も踏んで正確なテキストになって行く。
しかもそれがいい書物だったら、単行本から数年後に文庫本におろされる。その時にまた同じことをやる。
私はずっとそれを繰り返して、文庫のゲラの時でも、決して手を抜きません。別の校閲者の眼が入ったんだ、
ということを自覚して、もし疑問点を指摘されればもう一度考え直します。
実はそれだけの手を経て書籍というのは出来てくるので、ものすごく情報としての信頼度が高いんです。
もしも小説家が、ダイレクトにパソコン向けの電子本を目指してやった時に、その編集者、校閲者というのは
何者なのか、ということになる。一体どんなレベルの人がやるのかというのは、少なくとも今の段階では全く
信用できませんね。変化は段階を追って進まなければならない。段階を踏まないで一から十に行ったら、
文化は必ず破壊されます。
私が思うに図書館というのは、もともと住民に知識を供与するところであって、娯楽のために存在する場所では
ないんですよ。私の若い時分の図書館には学術書がたくさん置いてあって、貴重な書物を網羅してあった。
だから、それを読みに通っていたわけでね。決してそこで時間をつぶそうとか、遊び半分で行ったわけではない。
住民に対して、図書館が娯楽を供与するサービスであるという考え方は、根本的に間違っている。
娯楽の供与だったら、ほかにいくらでもやり方があります。
私はね、今のような状態だったら、図書館からは知識人は一人も生まれないと思いますよ。
若くして死んだが芥川龍之介という人は、作品のどこのどの一行をみても、知識の塊ですよ。大正時代というのは、
きっとそういう時代だったんでしょう。
どういうことかというと、その時代は誰も知識を与えてくれなかったんですよ。誰も与えてくれずに、
学生たちがみんなその知識を図書館に取りにいった。これが今の時代では、全く望めません。
パソコンの情報が入り乱れ、図書館がサービス過剰になった。昨日も温泉に行ったら、風呂の中でスマホを
やっている(笑)。よっぽど言ってやろうかと思いましたよ。おまえは、一日中それをやっているばかりで、
物を考えているときが一秒でもないのかとね。
コメント: インターネットによってたやすく大量の情報が手に入る現代では、「情報の価値」が意識されづらく
なっているのではないか。情報の送り手の権威も信用されなくなり、記者、編集者、校閲者などのフィルターの
入った情報は「偏向」「誘導」「捏造」などの言葉で警戒されることも多くなっている。
信用されるのは「大勢が正しい(あるいは間違っている)と言っている」情報。
極端に言えば、たとえその根拠が示されていなくても、論理が破綻していたとしても、多くの人が 「Yes」と
発言していれば 「Yes」、「No」と言っていれば「No」となるのが、昨今の「ネット世論」といえる。
それでは、浅田氏が言うように「文化が滅びる」ことはとうてい防ぐことはできないだろう。
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