今年も、もう1/4が過ぎ、早や4月に入りました。 新学年、新社会人として、
イキイキとした若者に、さくら、新緑が歓迎しているようです。
新しい元号「令和」が発表されました。思えば、昭和、平成で90年以上を
過ごしたのでした。
突然、「札幌市」ですが、かって若い頃(20代)に住んでいた懐かしさもありましたが、
先ごろ手元に届いた会報別冊に「札幌市の地方創生」(札幌市長 秋元克広氏)と題して、
昨年10月に講演された記録が掲載されていましたので、改めて当時の思いも交えながら、
講演録から俯瞰してみたいと思いました。
明治2年(1869年)に開拓使が設置され「北海道」と命名されて150年になりますが、
1876年(明治9年)に 札幌農学校が開校され、その10年後に北海道庁が設定され、1922年
には札幌市制が施行され、以降 着々と発展してきたのです。
とくに、昭和30~40年代、石炭産業の衰退で炭鉱閉鎖が相次ぎ、全道から札幌市へ人口
流入し、併せて市町村合併もあり市域が拡大して、昭和45年(1970年)には札幌市の人口
は 100万人を超えたとあります。
ライラックまつり(5月頃)
(ネット画像より)
私が、札幌に転勤しましたのは、昭和41年~3年で、この当時の人口は80~90万人でした
から、人口急増時期だったのですね。 蓼科農園の仲間、Kさんも、この時期に札幌に勤務
されていたそうですので、札幌は道内からの流入だけでなく、“内地”からの転入者も多
かったのかもしれません。
先のブログ、「さっぽろ雪まつり」(2019.2.3)にも、述べましたが、当時の借り上げ
社宅があった幅広の道路(南郷通り)は未舗装でしたし、暖房は石炭でした。 札幌の
2年目の冬に、同じ職場の年配者にスキーの指導員資格を持つ先輩がおられ、勧められて、
初めてスキー用具一式を購入し、以降、近くの荒井山スキー場で指導を受け、手稲オリン
ピアやニセコひらふスキー場などで楽しめるまでになりましたが、なだらかなゲレンデで
不用意に脚をねじって、右ひざ靭帯損傷で1か月の入院生活も経験しました。
札幌を離れても、入社後最初の現場勤務でしたし、先輩、同僚の皆さんとの想いも印象
深く残り、第2の故郷みたいな感覚でいたのかもしれません。
1972年(昭和47年)には、冬季オリンピックが開催されましたし、4月には政令指定都市
に移行し、地下鉄が開通するなど 発展の一途をたどり、今では、札幌市の人口は、196.5万
人(平成31.3.1)で、私の勤務していた頃の2倍以上になっているのです。
北海道全道の人口は、当時 517~8万人で、現在540万人程ですから、全道の人口増加30万
人弱に対して、札幌市のそれは、100万人以上ですから、かなりの集中度であることが分か
ります。
最近の札幌駅(当時の面影を偲ぶ術はありません)
(ネット画像より)
講演録から、『 札幌市の市内総生産は、6.5兆円で、全道に対するシェアは35%超であり、
一方、面積的には北海道の1%ながら、人口と名目総生産では3分の1以上です。』 しかし、
今後、『生産年齢人口が減り、老年人口が増えるので、超高齢社会に対応したまちづくりが
必要です。』と述べられ、地域ブランド力を生かした第3次産業(観光)にも力を入れて行
きたいとされています。
『平成29年の外国人宿泊者数は、北海道全体で270万人超で、うち250万人は札幌市です。』
『外国人観光客 8人の消費額と、定住者1人の消費額が同じとみなされるので、外国人観光
客が80万人来れば、人口が10万人増えたのと同じです。』 など、面白い側面から捉えら
れています。
市長は、2つの札幌を目指しているとし、1つは、『世界都市としての魅力と活力を創造
し続ける街』として、観光事業を活性化し、税収と雇用を確保し福祉を充実させるとし、
もう一つの目標は、『誰もが安心して暮らし、生涯現役として輝き続ける街』と述べられ
ていました。
北海道新幹線が、2030年には札幌まで延びると、ニセコとは30分、函館とは1時間で結ば
れ、観光客も含め 人の流れが大きく変わると予想され、駅周辺の再開発もさらに計画され、
新しい街として新技術も導入しながら、文化・スポーツを通じてクリエイティブな若者が
産官学の枠を超えて集い 和える街として創り上げて行きたいと抱負が述べられていました。
また、『小樽市、岩見沢市など周辺11町村と「連携中核都市圏」を形成する構想から、
観光や食や農業などの分野で連携し、都市圏の魅力を向上させ 経済効果を波及させたい.』
と締めくくられています。
2018中心市街地探訪132前編・・北海道札幌市(札幌駅周辺〜官庁街〜時計台)