蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

英語  (bon)

2019-04-16 | 日々雑感、散策、旅行

      パリのノートルダム大聖堂の燃え盛る映像が流れました。今から800ほど前に
       建てられた、世界文化遺産でもあるあの有名な寺院が燃えている。 鎌倉時代の
       初め頃に建てられた文化遺産が無くなってしまいました。
       Notre-Dame(私たちの貴婦人)は、聖母マリアのことを指しているのですね。


 来年(2020年)から、小学5~6年生で英語が“教科”として導入され、成績が付くよう
になるとかで、中学での英語授業は“オール英語”つまり日本語なしとなるそうです。
 これを受けて、すでに、小学校5~6年を対象に、体験型英語教育が実施されているとこ
ろもあるとか。 結構なことですが、先生やその他の環境づくりは大丈夫なんでしょうか?

 

 私らの時は、中学からで、教科書は“Jack and Betty”でした。
今更、私の過去がどうのって、全く意味がありませんし、書くことも憚られますが、長年
チャレンジしてきた割には、英語というか外国語にいつも振り落されて来たことが想い出
されてきました。

      こんな教科書だったかな~?
       (ネット画像より)

 高校1年の最初の試験(中間試験)だったと思いますが、風邪を引いて何もしないまま
テストを受けましたので、この時の英語のテストの結果が、確か、36点だったとかで、
父兄参観の時、おふくろに、当時の担任O先生から、注意されたのでした。

 早速、英語の家庭教師が週2日、来るようになって、教科書には触れず、もっぱら英作文
中心でしたね。 それも、2年生になって家庭教師は来なくなりました。代わって、毎日、
夜の11時からのラジオ英語講座(三省堂提供、朝日放送だった?)を、2年、3年と続け、
講師の先生がたが妙に親しく感じられた思いがあります。 そんなこんなで、いわゆる
受験英語は、苦手ではなくなっていました。

 大学では、ドイツ語を選択し、教科書、副読本など授業をこなす程度で、何事もなく
終わりましたが、ドイツ語が殆ど身に付いた感じはありませんでしたね。  それより、
せめて英語! などと思っていたのでしょう、街の、英会話教室には、何度かチャレンジ
しては 挫折を繰り返していたようです。
 友達と誘い合わせて購入した、100回受講できる割引回数券も、半分もこなさないうちに
頓挫している有様でした。 その国に行けば、小さな子供だって普通にしゃべっているの
に・・。

 入社直後は、いわゆる残業などの意識は全くなく、学生気質がまだ残っていたようです。
終業後、御茶ノ水にある「アテネ・フランセ」に週3回通いましたね。今度はフランス語
にしました。教室では、日本語なしの授業で、講師の中でニットウエアの“マダム・コル
テス”(コルテス婦人)の授業が一番気に入っていましたが、“Venez ici, s’il vous
plait !”とよく呼び出されていました。その内仕事の方もわかって来て、フランス語の
方は半年くらいで止めてしまいました。

      アテネ・フランセ
       (HPより)

 

 何年かが過ぎて、会社では、開発の仕事の責任者として、かなり入れ込んでいて、語学
などとはすっかり縁が無くなっていた頃、会社から、“日米会話学院”に行かないか・・
と指名され、週5日(毎日)夕方6時から3時間の英会話学校に入りました(費用は会社)。

 費用負担なしで、ナントありがたいことか・・と見えますが、本人にしてみれば、今頃、
忘れていた頃に、そして、仕事面で、英語どころではない大事な局面でしたから、困った
状態のまゝ、四谷会話い に通うことになりました。 会社では、夕方6時は、席を空ける
にも憚れる時間帯ですし、おまけに毎日ですから・・結局は、会話の方も欠席がちになるし、
仕事メンバーにも迷惑がかかるし、どっちつかずのまゝ・・それでも半年が過ぎました。

      日米会話学院
       (HPより)

 

 会話教室は30人ほどのクラスでしたが、私は、年齢がかなり上でしたので、“クラス委
員”に指名されたりして、それなりに、頑張っていたようでした。 会話の勉強のほうは、
いまいちでしたが、学校が終ると、数人で、四谷界隈のお店に行ったり、ある時は、横浜
にある会社の宿泊施設で、1泊学外 英語教室を企画して、先生初め10数人で出かけたこと
があったり、楽しんでいたのかもしれません。

 欠席がちのまゝ、半年で、ここも止めることになりましたが、直前に会社から、2週間の
“アメリカに技術調査に行け”との命が下りました。
 会話学校のネイティブ先生に、この話をした時の回答を今でもはっきりと覚えています。
『仕事以外で、人とトラブルにあった場合、20ドル紙幣をたたきつけて、さっさと逃げる
ことだ!』

 1ドル300円位の時でした。始めての外国でしたが、日米会話学校でのネイティブ先生など
との経験が、言葉以上に勇気と(くそ)度胸となって役だったように思います。
 その後、3~4年経って、また別の先端技術の開発を担当している頃に、今度はヨーロッパ
の技術調査やドイツとの技術交流などに何度か出かけたり、その内、担当する技術の国際
標準規約制定にジュネーブでの会議にも何度か行くことになりました。

 国際会議では、討論や検討は会議室でしますが、資料交換箱(pigeon-box)に入る膨大な
量の資料を検討して、すぐさま意見表明をペーパーにして投函する・・こんな作業に追われ
どうしで疲れますが、これらは、読んだり書いたりですから良いのですが、やはり発言と
なるとかなり見劣りしますし、迫力もないと思います。 で、いわゆるロビー活動?よろ
しく、同じ意見の英語圏の出席者と十分議論して、その時の助っ人になってもらうべく、
対応したりしました。

 会議で、発言のために手を挙げて、意見を述べます。たどたどしながら、趣旨を説明して
いると、しかるべき助っ人が、“彼が言いたいのは、これこれしかじか・・”と、雄弁に
まくし立ててくれたりして大いに助かったのでした。

 仕事面では、技術用語など、英語がそのものであることが多く、討論の中身も大体想像
できるので何とかなってきた(と思っている)のですが、ある時、調査で企業訪問した時、
ディナーに招待されて、先方は夫人同伴でこられ、隣席の夫人との会話に並行したことが
ありました。
 恐らく先方ご婦人も、閉口されたのではと思いますが、会話の中身が、まるで、弾まな
い・・というか、日常の生活や文化、歴史など、皆目会話にならなかったのです。
 目の前の、魚や野菜、果物の類も、うまく言えないし、日本のことを聞かれても、満足
に応えられなかたのでした。 まるきり、小学生みたいだったのでしょうね。

 

  

 高校3年の音楽で私が選んで、先生のピアノ伴奏で歌った曲

Pretend Nat King Cole

 

 

 

コメント
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