淀殿は戦国武将浅井長政と市を父母とする長女(茶々)で、広く良く知られてい
ますから何を今さら‥の感は否めませんが、旧暦の今日、5月8日は彼女の命日と
あり、戦国の世とはいえ数奇な運命をたどった人を改めて思い起こしてみました。
織田信長が天下統一を目指して活躍している頃、浅井長政へ実の妹市を嫁がせ
政略を果たしますが、長政と市は仲睦まじく、長女茶々、次女初、三女江の3人の
娘を設けます。しかしほどなく、信長は小谷城を攻め落とし、長政は自害し、母
(市)と娘3人は織田家に引き取られるのです。茶々はまだ4~5歳のころなんですね。
それからしばらくすると、信長が本能寺の変で果てると、市は柴田勝家と再婚し、
娘たちも越前北ノ庄に入るのです。 このとき茶々は、13~4才でしょうか。しかし、
1年ほどで今度は、勝家は秀吉と対立し、あの賤ケ岳戦いに敗れると、勝家、市は
ともに自害するのです。
伝淀殿画像(奈良県立美術館蔵)
(ウイキペディアより)
三人の娘は、秀吉に保護され、安土城で過ごしていましたが、茶々は二十歳前に
秀吉の側室となります。その時秀吉は、50歳を超えていましたが、翌年茶々は子
(捨)を産み、それまで子に恵まれなかった秀吉は大喜びで、山城淀城を賜ったこ
とから以降、淀の方と呼ばれることになるのですね。しかし第1子は3歳で死亡する
のですが、第2子(拾)が生まれ、のちの秀頼となるのです。
この頃が、淀殿にとっては並みいる側室に抜きんだ高位にあり、正室おねに次ぐ
地位を占め、父母ら血縁の菩提を弔う院を建立もしているのです。 秀吉の姉の子、
秀次との確執や年齢の違いなど、気遣うことも多かったと思われますが、わずかな
年月の平穏も、1600年の関ヶ原の戦いに突入するのです。
淀殿は、事態を鎮静化するため、家康に書状を送るなど中をとりなす立場をとっ
ているとあります。 実態は石田三成と家康の対立となり、果たして西軍、東軍に
大きく2分した形の戦いとなりました。
東軍の勝利となっても、淀殿、秀頼は家康の庇護下に置かれ、むしろ家康をして
秀頼の親代わりであると宣言したとあります。 このあたりの淀殿の読みと巧みな
行動が推測されます。
豊臣家は支配地を減らすことになりますが、淀殿は秀頼の後見人として、家康ら
五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握るのです 。淀殿30歳そこそこなんで
すね。
そうこうしているうち、江戸に武家政権を構築し始めた家康と対立してくるので
す。そして、大坂の陣に突入に、1615年大坂夏の陣で大坂城は落城、淀殿は秀頼ら
と共に自害し果てるのです。淀殿46歳だったのですね。
淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかった
そうです。
淀殿、秀頼自害の地の碑(大阪城公園)
(ウイキペディアより)
小谷城、北庄城の没落・落城や両親の死を経験し、敵方であった秀吉の側室とし
て豊臣、徳川の天下の覇権争いに深く関与するなど戦国の女性として波乱に満ちた
生涯だったのですね。
淀君という呼称は、明治時代に坪内逍遥の戯曲「桐一葉」以降定着したとあり、
現在一般的には淀殿が用いられるとありました。私などは、淀君の方がピンとくる
感じなのですが・・。
日本三大悪女その3 悲劇の姫君と悪女の二面性 淀殿