ツイッターやフェイスブック等のSNSでは、個人が自由に記事投稿でき、これま
でになかった新しい楽しみや文化?が享受できている反面、これが社会を混乱に落
とし込んだり、個人を誹謗中傷したりする凶器ともなりうる側面があります。
かねてから、気にはなっていましたが、昨日の1面(読売新聞5/3)にこのこと
が取り上げられていましたので、これに刺激されて自己の思いを述べてみました。
先ずは、楽しいことから・・
私個人の極めて卑近な例で恐縮です。これまでブログに勝手気ままな拙文を記事
投稿していますが、ありがたいことに多くの方々に見ていただいています。
黙っていれば人様に知られずに済むことを敢えて記事投稿することで「お里が知
れる」恥ずかしい思いをすることもありますが、自身のその時々に考えていたこと
や季節の感じ方、社会とのかかわりなど、大げさにいえば、移り行く人生のホンの
一端を刻んだ日記のようでもあり 過ぎ去った昔(ちょっと前?)を懐かしんだり
しています。
そのうち何人かのまだ見ぬ「ブログ友達」の記事から自身にはない種々の事柄に
感動したり、それらから刺激を受けたり、いつしかその人の記事をフォローするよ
うになり、時にはコメントを投稿して、まるで親しい友人のような感情を得たりし
てとても楽しい思いを抱いています。
(ネット画像より)
このような楽しい行動の波をもたらしたSNSも、一方では、あらぬ噂を広めて社会
を混乱に巻き込んだり、個人攻撃の武器に使われたり、そしてそれらに便乗組が加
わって瞬く間に広く拡散されて収拾がつかなくなる危険性をはらんでいるのです。
何とかこれを防がないといけない。このような悪い使用は厳として取り締まらな
くてはいけない。
ですが、ここに難しい問題があるのですね。どのようにして不適切な記事を発見
するか? どのようにして取り締まるのか? 規制すべき基準はどのようにして決
定すればよいか? 言論の自由との境は? まさしく両刃の剣ですね。そして誰が
それらを実行するか?
新聞には、ツイッターの投稿だけでも、世界で毎秒6000件、1日5億件に上るそうで、
この中から有害情報をどの様に選別するか。 恐らくAIによって選別され最終的な
判断が行われているのではないか とあり、今年1月に前トランプ大統領のツイッタ
ーアカウントが凍結された例が示されていました。記事内容が暴力をあおるような
投稿が繰り返し行われたためとし、超大国のトップでさえ1企業に殺生与奪の権限が
握られている としています。つまり、現状では、巨大IT企業に言論が左右されて
いるとの指摘です。
3月下旬に、フェイスブック、ツイッター、グーグルの各CEOがオンライン形式の
米下院公聴会に出席して、ネット上の言論監視のあり方について長時間の議論があ
ったと伝えられています。 情報基盤提供(メディア)企業が、虚偽情報の拡散を
許した責任、その反対の言論を検閲・制限することの是非について議論は平行線で
終わったそうです。
昔から新聞、出版でも、映画でも情報提供基盤(メディア)提供企業にはついて
回る案件で、それぞれに倫理委員会的な組織でこれを吟味され、時として大きな問
題に発展したこともありますがおおむね日常、問題なく過ぎている現状でしょう。
ネットでは、記事投稿が誰でも可能であること、拡散スピードが格段に速いなど
これまでとは違ったより複雑な面があるように思えます。 虚偽情報、悪意情報は
規制してほしい、一方で情報をいちいち検閲し統制されるのは好ましくない。しか
も、1企業がそれを実行してよいか、ルール(基準)も明らかにされていない。
もちろん強権国家でない限り、国の関与は好ましくないですが、さりとて1企業
がその判断基準も明確にされないまま情報の検閲・統制を行うのは大きな問題でし
ょう。 やはり第3者機関を構築して、さらに判断基準を明確にして対応すること
が急務であるでしょう。しかし、広範囲にわたるしかも微妙な内容に対する判断基
準をどの様に設定すればよいのか実際にはかなり困難であるように思えます。
本文と関係はありませんが、懐かしい歌がありましたので・・
五月の歌(春へのあこがれ)モーツァルト作曲