差塩と趣味の世界

故郷 福島差塩の想い出と徒然なる盆栽奮闘記

多摩湖水面を渡る涼風

2023年08月21日 | うんちく・小ネタ

 早暁4時になっても気温が下がらず暑苦しい日々が続いている。いつまで続くこの酷暑、、と愚痴の一つも言いたいところである。そんな想いで今日も早朝散歩に出かける。凪の日でも多摩湖に近づくと心地よい涼風が迎えてくれるのが有り難い。

 堰堤を歩くのは、皆今日の健康を確かめるかのように爺と同じく高齢者が多い。挨拶を交わしながら行き交う中で、声を掛けても無言で過ぎ去る方もいる。いつものことながらちょっと気になる。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

農地改革 農地改革は、長い歴史の中で続いた地主制度を戦後GHQの命令で改め、小作人として働いていた人々を自作農として独立させる制度である。農村の民主化に大いに役立った制度であった。

 =だが、我が家ではこんなエピソードがあった。=

 叔父が「せな!!〇〇窪の田んぼ取られたよ」と血相を変えて父に話しているのを子供心に強く印象に残っている。注 田舎では長兄のことを弟たちは「せな」と言っていた。父は何れ叔父を分家に出す計画であったので、当分の間、耕地を持たないKさんにその田を貸していたのである。これが農地改革による我が家の出来事であった。命令とはいえ父などは残念がっていた。大きな正流の中でも小さな矛盾もあったのであると今でも思う。


爺の消夏法

2023年08月20日 | うんちく・小ネタ

 4時起床、冷水一杯飲んで早朝散歩に出かける。4,551歩 帰宅後 藤の老木がまたまた道路へと自由奔放に延びたので剪定(今年三度目)と後片付けをする。 たっぷり汗をかいて火照った身体、冷水シャワーでクールダウン、、、極楽・極楽の気分となる。これもまた爺の消夏法のひとつである。

 4月の終わり頃であろうか、取っていたカマキリの卵から一斉に孵化し、四方八方に散っていった子達、その1匹であろう今ではすっかり成長し青葉と見間違えるように擬態姿(枠内の画像)となっていたので撮ってみた。蔓の片付けで袋に入れられることなく難を逃れたかまきりである。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

切符の発売制限 蚕は旺盛な食欲がなくなりやがて繭作りを始めるのであるが、その食欲盛んな時は、養蚕農家はまるで戦場のような忙しさとなるのである。当然子ども達も桑刈りに動員させらる。 あれは4年生の時だったろうか。働いたご褒美に海水浴に連れて行くとの父の約束があった。いざその当日、子達は喜び勇んで川前駅と向かう。切符を求めにいった父は、あろうことか下り線で郡山に行くという。平方面の上り線は、切符の発売制限で買えなかったというのである。がっかりするやら、、でも子ども達である。汽車に乗れる慶びでいっぱいだったことを記憶している。郡山駅では紅毛碧眼の人や真っ黒い人の占領軍の兵士を見てびっくり仰天し、アイスキャンデーを食べたことぐらいしか覚えてない。

 ところで、この切符発売制限であるが、当時は今のように車社会ではなく移動手段は鉄道オンリーだった。戦後の混乱期は満員列車が当たり前という状況だったように思う。切符の発売も制限されるようなこと度々であった。切符の手配でこんなこともあった。駅近くの官舎に住む助役さんをお米を持って訪ね特別切符を手にしたこともあった。あれは賄賂と言うことだったのか。

 注 地方の小さな駅では、助役が最高責任者すべてを差配していた。駅長はいくつかの駅をまとめて一人であった。いまでもそうなのかな、、、?


咲きそろった百日紅

2023年08月19日 | うんちく・小ネタ

 今日も35,6度になるという。いつまで続くのであろうかこの暑さ、暦では立秋もとうに過ぎたというのに酷暑の日々が延々と続くという。早朝よりエアコンのお世話になりながら故郷の涼しげな高原の野山を恋しく想い出している。

 我が家の百日紅、咲きそろって来たので再びアップしてみた。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

お米の供出 戦中から始まった食管法で農家ではお米の供出がなされた。國で強制的に買い上げる制度である。今はどうか知らないが子供の頃は、一反歩当たり5~6俵収穫していたように思う。闇米にまわせば高く売れたものを、律儀な父は自家用米を残しあとはすべて供出していた、多い年は50数俵供出に回したこともあった。当時は藁で編んだ米俵である。土間にそれをうずたかく壮観な光景が今でも目に浮かぶ。

 厳しい統制経済であっても闇米が國の流通網から漏れていたと言うことは皆知っていたのである。子ども達でも目の当たりにしていたのであるし、、、、。

 子供の頃、大人が一年間に米食べる量は1石(こく)と言われていた。自家用米として保管する基準となっていた。  

  注 1石は10斗(米俵2俵半)、、、、 150㎏となる 

    1合×10=1升  1升×10=1斗  1斗×10=1石


タカサゴユリ咲き始める

2023年08月18日 | うんちく・小ネタ

 今年も庭のあちこちでタカサゴユリが咲き出し微かな香りを放っているのでアップしてみた。

 ヤマユリも鹿の子ユリもオニユリもとうに散ってしまたが、このユリはその仲間では遅咲きであろうか。このユリ繁殖力が強い。種が散らばる中で発芽し殖えるのであるが、開花するまで6.7年はかかるヤマユリなどと比べてどうも早く花をつけるようである。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

闇米と一斉摘発 米を農家からこっそり購入し街に売りに行く闇商売を生業とする人達が戦後増えた。そうした人達は徒党を組んでするのである。汽車で運ぶ途中、米を南京袋に詰めそれを客車の椅子の足にくくりつけ警察による一斉摘発を少しで遅らせるためであるが、手こずっている間に仲間は逃げてしまう。そうした場面を汽車の中で度々目撃したものである。

 だが、厳しく取り締まっても食糧事情が逼迫し、米の配給も遅配や十分でないと人々はそうした闇屋に街の人々は頼らざるを得なかったのである。闇米を一切拒否し、法を遵守し配給制度で生きようとして命を落とした山口裁判官の有名な話、子供心に可哀想にと思ったものである。

 街の人が我が村にもやってきて着物とお米との物々交換(懐かしい言葉)したことあった。母もしたのか定かでない、、、、、。

 生き延びるために皆法を犯したと言うことか、、、、。


カトレア咲く

2023年08月17日 | うんちく・小ネタ

 石斛蘭5種、デンドロヒューム2種、オンシジューム、コチョウラン、カトレアなど和洋ともどもの蘭を試みとして木株に着生させ愉しんでいる。その木株で、今コチョウランは花茎2本伸ばし間もなく咲きそうである。一足先にカトレアの一株で2輪書いたくれたのでアップしてみた。

 ここでカトレアと記したが、購入した時の名を忘れてしまったので違うかも知れない。同じような花で名が様々つけられているので爺には覚えきれない。名札をしっかり取っておこう。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

蚤シラミ あらゆる面で物資不足となった戦後である。衛生環境も極端に悪化していた。その典型が蚤シラミによる被害である。(街では南京虫も、、、、)母はその対策として衣類に熱湯を掛けてくれたものである。だが、友との遊びなどで移されるのであまり効果が無かった。そのうちにDDTなるものが入ってきて救われたことを想い出す。人が集まるような所でや学校でも一斉散布されるようなこともあった。毛ジラミ対策で女の子などは白髪になったように撒かれたことを想い出す。実家では蚕を飼っていたので、その時期はDDTの散布は厳禁だったことを想い出す。

 あれほど効果のあったDDT、今では発癌物質が含まれると言うことで使われなくなったが、浴びるほど散布されたときはそれを知らなかったのである。

 芭蕉の詠んだ句 「蚤虱(ノミシラミ)馬の尿する枕もと」 を体感した子供時代であった。


池の漏水

2023年08月16日 | うんちく・小ネタ

 ミニ池の一つ、このところ水位が下がるので漏水かと水を抜いてみた。手作りの池、耐用年数が来たのかところどころにそれらしきところが数カ所見つかった。

 補修材を買わなくてはと思っていたところ、定期的にご機嫌伺いで手土産を持って訪ねて来る息子が来たのでコメリに連れて行って貰う。防水モルタルを購入したので折を見て補修しよう。

 台風一過、中国・近畿地方は被災されたようだが、この地では雨台風ですんだ。今日も暑くなるか。

【語り部】78年前に敗戦し、戦後の大きな変化とあの苦難に充ちた生活などの日々を爺史の記録として思い起こし、しばらくは記してみよう。

教科書の墨塗り 占領軍(進駐軍と軟らかい表現で言っていた)は、矢継ぎ早にいろいろな面で命令を出した。占領軍にとって不都合なことや糺すべきことは直ちに改めさせられた。

 その一つが教育改革である。例として教科書の墨塗りがある。学校が始まると教科書の数行を墨でぬり、先生が書いた黒板の文を原稿用紙に写して黒く塗った所に貼り付けたりしたのである。今思うと戦争に協力するようなことを教えた先生が、どんな想いでそうさせたのであろうかと、、、ホットしたか、それとも苦渋に満ちた想いだったか、、。これは、先生方だけではない。あらゆる層が、マッカーサーの命令には背くことが出来なかった時代であったから。

 「泣く子も黙るマッカーサー」こんな言葉を大人達はよく言っていた。

  注 マッカーサーはGHQの総司令官である。


レインリリー一輪

2023年08月15日 | うんちく・小ネタ

 玄関へに通じる狭い所にレインリリーを植えている。和名タマスダレとかサフランモドキとも言われているその花が、また一輪咲いてくれたのでアップしてみた。どうしたことか揃って咲くことはないのが不思議である。

 風雨の弱いこの花のためにも台風7号静かに去って欲しいが、近畿地方では直撃されているという。被害が無いことを花と共に願う。

【語り部】78年前に敗戦した記念日が今年もまたやってきた。しばらくは、爺史の記録としてあの苦難の日々を想い出し記してみよう。

出征兵士壮行会 赤紙が来ると隣近所の人々が、出征することを祝福しに訪ねてくる。そうした方に手伝って貰って門(かど)には杉の枝葉を重ね高さ2Mほどの二つの塔を建てる。そこに日章旗を掲げる。その日章旗には武運長久を初め、武勲を立てること期待した言葉の数々を記帳する。それをたすきに掛け家族揃って記念写真を撮る。出征当日は家族揃って万歳三唱で送り出す。

 やがて鎮守の杜で戦勝祈願と出征の挨拶、子ども達も参列させられた。兵士の勇ましい言葉が今でも心に残る。やがて村はずれの2㎞ほどの道のりを手作りの日の丸を振って軍歌を次から次へと絶えることなく歌いながら同行する。上級生は、4㎞ほど離れた川前駅まで同行した。、、、、これは昨年旅立った兄の出征時の記憶である。

 また、敗戦間際のころ、川前駅では出征する友人を祝ってか、哀しみにくれてか知らないが輪になって狂ったように蛮声をあげ踊っていたことを目撃したこともある。あれは今生の別れを予感しても仕草であったのだろうか。

 あの忌まわしい戦争は数百万の出征兵士の尊い命を奪わってしまった。傷痍軍人は数え切れないであろう。今日は敗戦記念日である。あの現実を知る人は年々少なくなっている。なんとしても伝承しなければと急き立てられる思いである。特に昨今の風潮を観ると、、、。


百日紅の花

2023年08月14日 | うんちく・小ネタ

 お盆にはかならず墓参のために帰省していたことは、今や何時の日にかとの想いである。今年も小さな仏壇に手を合わせ先祖や旅立った兄弟達を供養し、今の健康に感謝しながら報告する。

 庭に出てみると、お隣の百日紅の開花に続いて我が家の花も満開となりつつあるのでアップしてみた。台風の余波であろう雲の流れが速い。不安定な天気と今日もなりそうである。

【語り部】78年前に敗戦した記念日が今年もまた近づいてきた。しばらくは、爺史の記録としてあの苦難の日々を想い出し記してみよう。

武運長久 こどもの頃の神棚には、今は見られなくなったこの「武運長久」のお札がたくさん掲げられていた。我が家では、二人の兄が赤紙で召集されていたのでその無事帰還を祈ってのことでもあろう。

 長兄は、兵役を果し帰ってきたが再び召集され、戦後はシベリヤに抑留され不当な労役を強いられ事故にもあって障害者となって舞鶴港に帰還した。昨年旅立った兄は、終戦の年に召集され横須賀海軍基地でろくな兵器もなく、専ら「たこつぼ」堀りをさせられたと言っていた。二人とも復員したが、二度と故郷に還ることもなく戦死した方々も村には多かった。父母たちはそうした家庭を気遣って兄達複員の慶びを抑えていたとよく言っていた。

 因みに今の神棚には、家内安全、交通安全の札が掲げられている。


不気味な雲の流れ

2023年08月13日 | うんちく・小ネタ

 白内障の手術後は、良く空を眺めるようになっている。昨日の午後、高く高く盛り上げっていく積乱雲を少年の頃良く眺めたそれを想い出しながら見つめていた。

 するとアップしたように瞬く間に低いところを黒い雲が駆け足で覆ってきたのである。白く輝くような積乱雲と今にも降り出しそうな暗い雨雲の二層となって流れていく、、遠く離れた洋上の台風の影響であろう。穏やかな雨台風となってくれればいいのだが、、、、。

【語り部】78年前に敗戦した記念日が今年もまた近づいてきた。しばらくは、爺史の記録としてあの苦難の日々を想い出し記してみよう。

米穀通帳(正しくは米穀配給通帳) 戦争が激しくなるとあらゆる面で物不足となってきた。そのため配給制度の開始である。タバコの配給、衣料切符の配給それがないと手ぬぐいも買えないなど厳しくなって来た。食料も例外ではない。お米も配給制度となる。

 実家が配給所になったこともあっていろいろな場面を想い出す。米穀通帳を持って配給をうけるのであるが、お米ばかりではない。後に代用食などと言ってサツマイモや干した杏、スケソウダラ、、、etc.となる。戦後は米軍からの払い下げであろう一斗缶に入った真赤なケチャップなども配られたことを強烈な印残っている残っている。それはどのよう配分したのだろう今では思い出せないか。因みにケチャップなるものを初めて知ることとなる。

 とうに時効になったことであろうが、杏の入った袋からこっそり取って兄と隠れて食べたことを想い出す。 


ブドウ棚の下で、、、

2023年08月12日 | うんちく・小ネタ

 今は、お盆休みで帰省家族の動向が話題となる。そうしたニュースを見る度、親が健在の頃は欠かさず帰省していた楽しい想い出が懐かしく蘇る。昨日、娘家族が泊まりに来た。大きくなって逞しくなった末孫とのお付き合いも大変となり、体力の衰えを実感させられた。

 アップしたのは、ブドウ棚の下で婿殿が準備してくれたバーベキューを愉しんでいるところである。心配させられた台風7号もあゆみが遅く今のところ被害はないが、今後の進路次第では帰省客の復路が気になる。

【語り部】78年前に敗戦した記念日が今年もまた近づいてきた。しばらくは、爺史の記録としてあの苦難の日々を想い出し記してみよう。

松根油 戦争末期になるとその遂行に欠かせない石油などはABCDラインの包囲網が敷かれる。その対策として松の根を掘り起こし、油を抽出しようとした。我が故郷でも大きな松の木を切り倒し根を掘ることを動員させられた大人達がやっていた。松の根は、炭窯のようなところに入れて蒸し油を抽出するのである。そうした窯が、あちこちで見られたものである。大変な労力を使って造られた松根油、あれはどうしたのだろう。

 タクシーやトラックなどはガソリンがないので木炭車と言って、木や木炭を不完全燃焼させて、そのガスで走っていた。実家の発動機も、タンクのような所に木炭を入れてガスを発生させ、それを使っていたのを記憶している。