★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

尾道を行く9──艮神社篇

2011-03-06 02:30:37 | 神社仏閣

艮神社にふらふらと誘われる。さっきこの神社の上をロープウェイで偉そうに通過したことはなかったことにしよう。

樹齢八〇〇年以上らしい。これだけこれだけ長生きできるのはなにか理由があるに違いない。たぶん何も考えていないのでストレスがないのだろう。

石橋を叩いて渡るにはしゃがむ必要が……


巨石をみあげるわたくし


左手に入ってみる
 


板の間からのぞき見



ちょっと不気味な感じがしてきたので帰る。


人間の香り……ほっとする。

尾道を行く8──決死の降下篇

2011-03-06 02:19:38 | 旅行や帰省

ロープウェイで降ります。

わたくし専用列車(あとで、おばさんおじさんたちがきたけど)

もしかしたら、わたくし、高所恐怖症か……となりのおばさん曰く「高いところで育った人は高所恐怖症にならないんだって~」。私は標高700メートルぐらいで育ちましたけど……、あ、おばさんの言うのは高いビルとかのことか。



うわーーっ。揺れるっゆれるっ。


下を見るなっ(←映画の常套句)でしばらくして上を見る


でも下を見る





上を見る


尾道を行く7──「文学のこみち」篇5

2011-03-06 00:40:59 | 文学

吉井勇。「千光寺の御堂へのぼる石段はわが旅よりも長かりしかな」(昭和11年)石段がつらけりゃロープウェイをつかえばいいじゃない。(←渡邊アントワネット史郎)


ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
貫禄の万葉歌。


小杉放庵。「岩のまに」というところに気持ちがこもっておる。


尾道場所記念……がんばれお相撲さん。


陣幕久五郎の手形!


頼山陽。「相傳う残杯未だ傾け去らず 首を回らして苦に諸少年に嘱す 記取せよ先生曽て酔いし処と」飲み過ぎはよくない。左手に不気味な松の根が……




岩割松。この勢いでは、遠からず頼山陽の碑を破砕する。


すごいです。


鷹羽狩行。だから風速を……

(つづく)

尾道を行く6──千光寺篇2

2011-03-06 00:02:13 | 文学


昔、異人がこの岩に埋まっていた宝石を奪ったという伝説がある玉の岩。とにかく今も昔も我々は光る物が大好きです。


護摩堂から客殿を望む。

 
本堂へ行く途中。




水滴ぽっちゃん


鼓石。右側の傷は、大阪城の築城のときに切り出そうとした時のものらしい。太平洋戦争の時もこの寺の鐘が供出されたとか。非常時に信仰にすがるのではなく、逆に信仰はどうでもよくなる我々。

尾道を行く5──千光寺篇1

2011-03-05 23:31:38 | 文学

ここが火事になったら、文学者の碑だけが残ってそれはそれで悲惨な感じだ。


山口玄洞……地元の名士ですね。文学者ではない


ここらあたりの松はどういう根性をしているのだろう……


怒られた気分です。


丁寧な作りです。


山口誓子。千光寺の鐘を聞いての句。厳しい。


柳原白蓮。千光寺の鐘に父母の声を聞く。


鏡石。上の松並の根性で岩の中に入り込んでしまった鏡。人間業ではない(←本当に人間業ではないが……)たしか、この山は古代文明のピラミッドであるという説があった。



近世・近代文学の世界から突然こういう世界に移ると本当にSFのようである。真ん中の物体なぞ、映画の「エイ×アン」にでてくるある物に似ている。私は人間だけの世界の方がいいです……


足早に通り抜ける

(つづく)

尾道を行く4──「文学のこみち」篇4

2011-03-05 17:55:47 | 文学

急に道が険しくなってきました。立ちはだかる障碍。嬉しいいやな予感です。近代文学の予感である。


はい、「暗夜行路」きました。長すぎて何が書いてあるのか分かりません。右下方を見ると……


志賀のプチブルっぷりとは対照的な転落人生の専門家林芙美子登場。

近づいてみたが足場が悪い。後ろに転落しそうになりつつ斜にシャッターを切る。さすが林芙美子にとって最高最悪の思い出がつまった尾道。上に志賀、下に林という格差、滑り落ちそうな足場──意図的な「文学のこみち」のつくり、まことにお疲れ様です。

……「貴女お一人ですか・・・」事務員の人たちは、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視ていた。「え、そうです。知人が酒屋をしていまして、新聞を見せてくれたんです。是非、乗せて頂きたいのですが・・・国では皆心配してますから。」「大阪からどちらです」「尾道です」・・・・・・ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなってきたものだ。何年ぶりに尾道へ行くことだろう。あああの海、尾の家、尾の人、お父さんやお母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんなことがあっても尾道へは行かぬように、といっていたけれど、・・・・(「放浪記」)

ここらへんをちゃんと彫った方がいいと思うよ。

すると、上をロープウェイが通り過ぎていった。

ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであるということを、私たちは生活にかまけて忘れておりました。白い前垂れをかけたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸気船のような工場の音がした。おお尾道の海。私は海近いような錯覚を起こして子供のように丘を駆け下りていった。・・・・・・・(「放浪記」)

危ないので駆け下りるのは止めた。


緒方洪庵……尾道の道が狭いと言っている。


更に転落人生だ……


巖谷小波「大屋根はみな寺にして風薫かおる」……だから風速を書けというとるのに。


昇り調子は信用できない。


あれ?今来た道を、もう一回行くの?騙されんぞ。

わたくしのひねくれた心

(つづく)

尾道を行く3──「文学のこみち」篇3

2011-03-05 17:25:31 | 文学

いきなり徳富蘇峰(笑)「海色山光信に美なるかな……維新の偉業を振起して来たる」……これで済んでいた時代はよかった……


前田曙山……たしか硯友社の人だったか……こんなところに居たとは。


尾道を通りかかった子規の句「のどかさに小山つづきに塔ふたつ」……はいはい写生写生


物外和尚。「あれは伊予こちらは備後春の風」……風速を書け。


この松の生き様には文学を感じる


十返舎一九「日のかげは青海原を照らしつゝ 光る孔雀くじゃくの尾の道の沖」
これはよい歌だと思う


金田一京助「かげともの……(以下略)」最初の句だけ好き。


また硯友社、江見水陰「覚えきれぬ島々の名や夏がすみ」……まず覚えようとする君がすごい

(つづく)

尾道を行く2──「文学のこみち」篇2

2011-03-05 17:13:13 | 文学

はじめに一覧を見せるのは現代の病だな……

文学のこみちと千光寺の関係やいかに……文学と宗教……大問題だっ



恋人を「犬」と認識している場合は困るだろう……


もうわかったよ


いきなり下り坂……文学が様々な意味で「下降」であることをよく分かってらっしゃる。

(つづく)

尾道を行く1──「文学のこみち」篇1

2011-03-05 16:48:08 | 文学
福山から電車に乗って尾道に行く。目的は断じて文学踏査(遊び)である。


駅に着いたのである。「文学のこみち」への道順は知っていたが、観光案内で丁寧に教えていただき、「ふんふん」と頷く。こういう行為は旅では一種の安心を得るので有効であるっ。案内もいただく。


千光寺山をめざす。

(女賀信太郎「千光寺の山」)

ロープウェイで山の頂上まで行く。このチケットはちょっと現実とは色が違う。



二手に分かれた「文学のこみち」を歩くつもりなのである。が、山の展望台に妙な三人が……



……?目的地を間違えたか?


合ってた。


ベンチに座ってから歩くか……左端に気になる文字が……


……横文字にすなっ

展望台に上がると「恋人たちの聖地」の気分を味わえるかも知れない。


下を向くと


ハートをつくるな、ハートを


神さま……


展望台は激しくつまらなくなったので降りるっ


風強し

岡山を行く

2011-03-05 09:26:42 | 文学
昨日は、岡山で仕事だったが、すぐ終わったので、尾道に向かうことにする。その前に岡山を少しまわってみた。



岡山駅をはじめて正面から見た。石像には背を向けられたっ。


吉備文学館に到着。

岡山は文学者の生産地として有名である。木山捷平が岡山出身だとは知らんかった。

「杉山の松」

杉山をとほりて
杉山の中に
一本松を見出でたり。

あたりの杉に交つて
あたりの杉のやうに
まつすぐに立つてゐるその姿

その姿がどうもをかしかりけり。

……『ショスタコーヴィチの証言』にこんなことが書いてあった。ゴーゴリの「鼻」をみんなおもしろおかしいと言うけども、実際に鼻がとれた人の身になって考えてみればよい、おかしくも何ともない、と。私もそう思う。上の木山の詩にユーモアを感じるというのも私は完全に感覚がおかしいと思う。そういう人は杉の側に立っているのではなかろうか。ちなみにこの詩は確か『メクラとチンバ』に所収されていたのではなかったか。

てくてく歩いて岡山駅に戻り、時間が余ったので、デジタルミュージアムに寄り、「黄金の都 シカン」展をみる。

シカン文化の時期は日本の平安時代ぐらいであろうか。

福山に到着。



駅の形というのはどこも同じだねえ……

救済としての「にごりえ」

2011-03-04 00:04:59 | 文学


今井正の「にごりえ」はあんまり好きではないが、子ども時代のお力がよいのでときどき観る。大学院の演習で挑戦したものの、あまり納得いかなかった「にごりえ」論であるが、死ぬまでに書きたいと思っている。大正期から昭和初期の、日本でのドイツ観念論関係の文献を全く分からないまま読み続けた結果、23歳にしてほとんど呆けかけていた私に、初志を想い出させてくれたのが、独歩の「窮死」や一葉の「にごりえ」なので、ほんとうに感謝しているのである。高峰秀子は「五重塔」を読んで生き返った心地がしたとどこかで書いていたが、私の方は、……「九段坂の最寄にけちなめし屋がある。春の末の夕暮れに一人の男が大儀そうに敷居をまたげた。」とか「おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯なら歸りに屹度よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり……」といった言葉で何度も精神的に蘇生した記憶がある。たぶん半分嘘だけど……。とまれ、学生に言いたいのは、宗教でなくとも、我々を救うものはあるということです。思うに私が好きな作品、「春さきの風」、「犬」、「にごりえ」、「窮死」、「楕円幻想」(←ちょっと違うかw)などが悲惨な結末を持つものであるように、またイエスの物語が磔や最後の審判で終わるように(←違うかw)、正義や自己防衛では救いは訪れないものだ。たぶん先進国ではもうそうなのだと思う。

右にあるのは、以前、日本舞踊をやっている妹が勧めてくれたCD。栄芝と近藤等則のコラボ(笑)。これで救われる人もいるのであろうか。

死ぬまでがんばる理由

2011-03-03 04:35:06 | 思想


吉本隆明の「マチウ書試論」を読み直したのだが、途中で苦しくなって「愛妻物語」を観た。「マチウ書試論」はもう何回も読んでるはずなのに、その都度考えさせられる。が、何を考えさせられているのかはよく分からない。とにかく過去に自分が書いた文章などに対して「ああ駄目だった~」と反省を迫られるのである。機会主義をからかうせりふとして有名な、ハイデガーの発言のパロディ「俺は決心したぞ、何をかはわからんが」をもじって言えば、「俺は反省したぞ、何をかはわからんが」といったところだ。高校3年生の時にはじめてこの文章に触れたとき、グスタフ・アラン・ペッタションの交響曲並みに鬱にさせられたのは確かである。大学に入って田川健三の吉本批判などを読んで、その鬱が解消されたかと言えば、全くそうではなく、ますます自分のお気楽さ加減を反省させられた。一時期の吉本人気の理由についてはいろいろ理屈をつけられるだろうが、一度吉本からある問題に入ったりすると、それを論理や資料的な瑕疵を見出して議論を発展していっても却って最初の吉本が不気味に思えて来るというところに、何か原因があるような気がする。要するに、死ぬまで考えなければ、という、インテリの卵にはある種快楽をもたらす感情を、確実に植え付けるものが吉本にはあったのではなかろうか。それは吉本を否定するときのよくあるせりふ──彼のルサンチマンやらコンプレックスの強烈さ──の問題ではない。才能の型として問題にすべきである。

「愛妻物語」──戦前の売れない脚本家とその妻の話。両親の反対を振り切って結婚してくれた妻は、ひたすら夫の成功を祈ってあれこれ立ち働くが貧乏のために結核になる。夫は締め切りが迫ったシナリオと妻の看病をこなすのだが、妻は「ずっとシナリオを書くのよ」と言い残してあっけなく死んでいく。それで夫は一生シナリオを書いていくことを決心する……たぶん。いまどきこんな献身的な妻や夫がいるかっ、と言っても仕方がない。この妻が夫の元を離れないのは、映画産業をバカにする両親への徹底抗戦なのであり、献身を言うならどっちかというと映画への献身なのではなかろうか。その証拠に、夫には、死んだはずの妻の声が鮮明に聞こえてくるのだ。「しっかりがんばってね。苦しいときには笑うといいわ」と。もう彼はシナリオをいやでも止められないだろう。苦しくても笑ってなんとかせい、と言っているのだから(笑)これが新藤兼人の自伝的な物語であり、妻役を後に結婚することになる乙羽信子が演じているのも有名な話だ。が、映画で過去を描ききったつもりだったかもしれない新藤が、またもや妻に先立たれ、そのあともやはりシナリオを書き続けているのも……、なんだかここまで来るとコワイ。同様に、吉本隆明もまだ書き続けている。死ねない理由があるのは分かったとして、やはり能力が続くのがすごいです。

自称天才の地上

2011-03-02 03:02:46 | 文学


この前、川口浩や香川京子がでていた映画もみたが……。主人公は没落地主?の末裔で、貧乏のなかなんとか中学に通っている。そのためか、労働運動や、妾になる女の子に対して一定のシンパシーを持っているようだが、一方、お金持ちの女の子と相思相愛、友人の妹や、妾になる女の子からも一方的に好かれている。しかし彼は、そういう地上の具体的な出来事にあんまり興味はなく、なにかよくわからん大きいものに闘いを挑もうとしている印象である。映画をみていても、途中から「ハテ?」という感じになってくる。

原作の島田清次郎「地上」は、大学院の時にだいたい読んだままほとんど内容を忘れていた。島田は自称天才で、「地上」で大ベストセラーを飛ばしたあとも、よけいに自称天才だったのでみんなに嫌われて統合失調症ということにされ、30そこそこで死んでしまった自称天才wであった。私がはじめに「地上」を読んだときの印象は……この作品は確か大正8年出版が最初だから、「或る女」とか「友情」とかと一緒である、ということで、ああ、この意味不明な糞生意気なかんじは有島や武者小路とある種一緒じゃないか、という感じであった。島田は天才すなわち特殊だったからベストセラーを飛ばしたのではない。おそらく、凡庸であることを強さで塗りつぶす能力が長けていたからだ。すなわち、自称天才はだいたい世の中の空気を読みすぎるのがあとになってみりゃ問題だ。体力的にそんな勢いは続かなくなるからだ。本の序文は、作者が精神病院に送られた後、大正13年に、菊池寛が書いたものである。島田の傲岸さあまっての没落そして精神病院行きはまあ当然だろうけれども、我々もこれを教訓にして気をつけにゃならんぜ、と言っている。例によって具体的なことを言わない菊池であるが、大正13年、確かに気をつける必要があったのだ。菊池は島田とは対照的に──凡庸であることを弱さで塗りつぶす態度でもって生きていこうとしたのではなかろうか。しかし、これも空気を読もうとしていることに変わりはない。

今度ちゃんと読み返して考えようと思うが、世の中が変化するときには、こういう猪突猛進の自称天才が現れるように思う。で、あとの世の中、だいたいろくなことにならないのだ。芥川龍之介の死なんてもういろいろ変化したあとじゃん、と思うね……。