芥川龍之介「点鬼簿」で魂が抜けたわたくし
父の描いた福寿草。たしか、永遠の幸福とか、思い出が花言葉だ。学生はこういう意味を知るのが大好き。しかし、例えば、不幸の底にいる人間にとって、福寿草は、そのような意味を持つであろうか。
いま国語研究室の三年生は北海道に研修旅行に行って
買ったままになっていた大島渚監督の『飼育』を観る。大江健三郎の原作とはだいぶ違うが、これはこれで明確な作品だと思った。私の思いこみなんだろうが、大島監督の作品は、画面の中に視線を抜くというか、視線を休ませる空間がない。だからすごく疲れる。視線を抜く空間というのは、こちら側とつながっている。だから映画の中を生きても生きなくても、どちらでもいいか、と安心できる。しかし大島監督の場合は、それを許さない。私はこういう姿勢を嫌いではない。こうでもしないと我々はものを考え始めないのではないかと思うから。
右側は、アメリカで出版当時から話題になったらしいアレックス・ロスの著作。日本でも翻訳されて新聞などに書評が載っていた。私も20世紀の音楽の本と聞くとむずむずとしてそそくさと買いにいってしまったわい。で、研究者おとくいの斜め読み攻撃で、ざっとよんでみた。私はこの本の長所については、意外にも本のカバーに印刷されていた、リチャード・タラスキンとかビョーク(!)の感想が当たっていると思った。ビョーク曰く「誰でも音楽への情熱に、また火がつくことだろう」と。ショスタコーヴィチの交響曲や「ヴォツェック」についての歴史的な説明よりも、音楽そのものの描写の巧さがこの本の巧さではなかろうか。政治的な、人間的な状況のなかにおける──つまり作曲家もただの人間ということである──作曲行為が描かれるときも、この本を読む者の脳裏には音楽が鳴りはじめるのだ。(……といっても、私の場合は、研究者の性なのか、「こいつ、俺の知らない曲を知ってやがる」と思った時には、鳴ってないかも……。)当たり前だが、このアレックスという人物、相当音楽がすきなのだ(笑)
まあ、このように思うのは、このような俯瞰的・文化史的な「叙述」(というより精神的な姿勢)に我々があまり違和感を持たないほど慣れてしまっているためもあろう。著者は68年生まれで、国は違えど私もほとんど同世代だ(笑)。こういう俯瞰(私は「収集」だとおもうけども)というか、作品に淫せずに一種の「芸術物語」を語ってしまうのは、我々にはあんまり抵抗がない姿勢だ。いや、むしろ「普通で楽」なのではないだろうか。例によって偉そうに私は決意するのだが、こういう「普通で楽」を突破する必要があるのだ。もう文化史的叙述がはやり出した当初からすでにこの課題ははっきりしていると思う。しかし……、讀賣新聞に書かれていたK山氏の書評では、案の定、「革新や正統性なんて観念を括弧に入れる。すべては相対化される。」とか、「芸術史家に要求されるのも哲学者の偏屈さでなくジャーナリストの臨機応変だ。複眼的史眼でありのままを紡ぐ。われわれはようやくまっとうな音楽史を手にした。」とか言われていたが、政治家じゃあるまいし大げさなんだよ。「正統性」を否定しておきながら「まっとうな音楽史」とかいってしまうセンスが、気持ちは理解できても全く了解不能であるが、まあいいや。偏屈さや革新・正統さなどを適当にからかってみるのが、この国のよくある偏屈なアカデミシャンの姿ではないか。だいたい一般的にジャーナリズムが臨機応変な訳ないだろう。複眼て、私たちは昆虫じゃないぜ。こんな夢想をこの本の著者がしているとは思えないんだけどなあ……。単純に音楽学の積み重ねの凄さをこの本からは感じるぞ……。アレックス・ロスが音楽史の研究の末たどりついたことを、音楽の相対化だと感じてしまう我々の文化が問題だ。
かるみょなーらとヴェニス・バロック・オーケストラでヴィヴァルディを聴く。ちょっと前に話題になったCDである。私は文学を研究のために読んでいることもあってか、文学作品に天才を感じることはほとんどなくなってしまったが……、音楽にはしょっちゅう天才を感じる。このCDの演奏とか、実演で聴いたら、演奏が終わっても忘我のあまり、楽屋に飛び込んでかるみょなーら氏に求婚するとか、錯乱してパイなんかを投げつけてしまいそうである。(……というのは冗談である。)一方、演奏者の方はどうかといえば──私はプロになれなかったからどうも推測しかできないんだけれども──演奏が上手くいったときの、冷ややかでかつわき上がる法悦感は半端ではない。まさに全身が天を駆けるのである。これは中学生の吹奏楽部員でも経験できることだ。違うとはいわさんぜ、楽器をやったことのある人間で「俺は天才だ!世界は俺のものっ!」と思ったことのない人間は、あまりいないはずである。そして、一部の例外を除いて、あとで自分の演奏の録音テープを聴いて絶望し「誰かウジ虫の俺を殺して下さい」と思うのである。(あ、これは私が基本的に性善説を持っているが故の見解ね)
「天才」といえば、前に記事に書いた自称天才・島田清次郎がどうも気になるので、杉森久英の『天才と狂人の間』という島田伝を読んでみた。直木賞受賞のこの本はとてもすらすら読めるようにできていたので、すぐ読み終えた。題名にどうも迷いが見られるようだ。この本の内容が言っているのは、島田は天才でも狂人でもなかっただろう……よくわからんが、という事態だからである。「間」ではない。前の記事でも述べたように、私は、島田のような自称「天才」がでてくるのは、ニーチェやスティルナー、ドストエフスキーが読まれ、白樺派や奇蹟派、宗教文学や堺利彦などがごちゃっと存在している状況からは不可避的なのだと思う。「天才」は一種の思想だったのだから。故に私は、「地上」五部作を、作品の出来はともかく文学思潮史上かなり重要な作品だと考えているが、それはいつかなにかの論文で触れてみたい……。この作品が、第一部がまあ読めなくもない作品なのに、第二部以降うまくいかなくなった理由も、彼が発狂したからだとは必ずしも言えない。第一部は「さあこれからやってやるぞ」という物語なのだが、詳しくは言わないが、要するに、それ以降──「さて、どうやろう?」においてうまくいかなくなるのは、島田に限ったことじゃないからだ。いわば「地上」は、大正期の「佳人之奇遇」なのだが、その困難は大変なものである。昭和期の左翼やその同調者たちが経験したこともでもあろうし、「旅愁」のような作品にもそれはある。が、その困難に安住することで生じる情緒もある種の日本近代文学を支えてきたわけだ。文壇の人々は、この困難や面倒くささがまがりなりにも踏み越えられる姿を、プロレタリア出身のエネルギーだけはありそうな島田に不気味にみてとったのかもしれない。『文藝春秋』をはじめとする、島田に対する当時のネガティブキャンペーンはそんな危機感の現れかも知れない。
ともあれ、杉森氏の評伝を信じる限り、島田はやはりろくでもないやつだったらしい。どうもね、我々の社会においては、凡庸さに対して刃向かう人が、──確かに少し核心をついたことを行うにしても──、凡庸な人よりも実際子供じみた幼稚さ「しか」持ち合わせていない場合が多すぎるのではなかろうか。
まだ少数精鋭だけ辛うじてがんばっている四年生の花束
宮台真司と山本直樹の対談「性表現と都条例を考える」(http://www.ohtabooks.com/eroticsf/blog/f68miyadai_yamamoto.pdf)を読みながら、「ブルガリアン・ポリフォニーⅠ」を聴く。ときどき聴くけど、すばらしい音楽であるっ。まさに法悦の境地に連れ去られる。
対談の方は、例の、東京都青少年健全育成条例改正案に対するものである。
宮台氏の相変わらずの瞬発力はすごいなあと思う。宮台氏が言うように、性表現をきちんと規制すりゃ健全な(笑)青少年が育つという発想自体が、あまりにも、頭の悪い学級委員長的な幼稚さであって、……「お前がまずは思春期からやり直せよ(笑)」ですますべきレベルである。私も宮台氏の言うように、本気で性表現を規制すりゃ世の中よくなると考えているのはたぶんごく一部であると思う。大学でもどこでもそうだが、一部の声のでかい×タレは逆恨みすると何するか分からないので、「はいはい」という感じでその場は従っておき、自然的生長的事態の推移によって本質が現れてくるのをまつというのが、我々のよくある身の処し方である。これはある種の弁証法みたいなもん(笑)である。宮台氏はギリシャ的インテリだから、とりあえずその悠長な弁証法ではなく、言説の対置によって流れを速めたい、というクチであろう。それはよくわかる。ただ、こういう時の宮台氏は嬉々としすぎてて、こういう低レベルな条例の存在がないところでは、もしかしたら氏は退屈で死んでしまうのではないか、と思う。私は、かかる事情も日本のインテリではよくある自然的な何かではないかと思っている。
山本直樹の作品は、「レッド」しか読んだことないのでよく知らない。性表現の問題は昨年書いた中勘助の論文で自分なりに考えてみた。そのとき思ったのは、例えば、谷崎や永井荷風をすごいと思うのはいいとして、戦後の大江健三郎「性的人間」や宮谷一彦「性触記」などの作品をきちんと分析しておかないと、日本人は性表現に淫するとろくなことにならないぜ、という上の条例にある固定観念にきちんと反論できないのではないかということである。確かに雑な「子どもを守れ」スローガンに対して、成長には葛藤が必要なので「子どもを揉め」(←宮台氏w)と言うだけでは……。ボケに対するツッコミに過ぎないような気がするのである。
本気で暮れてきたので駅に戻る。
そごうの七階でご飯を食べる。夜景撮るのって難しいですね。
満腹満腹。食堂(←食べ物を出してくるところはこの単語でいいと思うっ)を出るときれいなオブジェがいっぱい。
駅にこんなポスターが
↓
「世界最大最強の戦艦大和」(←残念な戦艦の代表でもあるわな
高校生たち(
大日本帝国に大輪の花が咲きましたっ
日が暮れてます……まさかね↓
大和ミュージアム閉館時刻でございます。(←!)
昔から人間は光る物とかでかい物が大好き
大和ミュージアムの前になぜポセイドンが……確かにいい男だが。
私は理解した。陸奥の主砲の先にはポセイドン。いいのですか……西洋人を敵に回しちゃって……
大きい……まさか、ここに千光寺の寺の鐘が使われたのではあるまいか。
ミュージアムの裏側に回り込む。雲が映っている。
海辺で育ってないから、このようなものはみたことなかったね。人生がうまくいかなくなると泣きたくなるだろう、この風景は。木曽の三時日没とかもある意味泣きたくなるけどな……。
↑
この彫刻の意味は、何?……私の脳裏に浮かぶのは↓
駅まで歩くことにしよう。
被せてる
横道にそれてみる
戻る
電車がわたくしを追い越す
デザイン的に左の勝ちだとわたくしは思う。
尾道駅に着く。あ、志賀直哉の旧宅を観るのを忘れた。まあいいか……
知らないうちに福山に着いた。
時間もあるし、高松に帰りたくないので、呉に行くことにした。
この文章は、九州をややバカにしていると思う。
胴上げ……わっしょい
右見て左見て
わたくしは、こういうものが好きである。
……
よくみると人間の文化というのは面白いですね(棒読み)
乗ろう
新幹線はやいっ
……いつの間にか広島に着く。
被せてる
横道にそれてみる
戻る
電車がわたくしを追い越す
デザイン的に左の勝ちだとわたくしは思う。
尾道駅に着く。あ、志賀直哉の旧宅を観るのを忘れた。まあいいか……
知らないうちに福山に着いた。
時間もあるし、
この文章は、九州をややバカにしていると思う。
胴上げ……わっしょい
右見て左見て
わたくしは、こういうものが好きである。
……
よくみると人間の文化というのは面白いですね(棒読み)
乗ろう
新幹線はやいっ
……いつの間にか広島に着く。