伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

イギリス型〈豊かさ〉の真実

2009-03-12 23:00:31 | 人文・社会科学系
 イギリスの福祉政策、特に医療制度と税負担の問題を、昨今の日本と比較しながら論じた本。
 消費税率17.5%が課されるがそれを財源に医療費は無料としたイギリスの国家医療保険制度(NHS)が、戦後の混乱を乗り切るための統制経済の下で、戦後初めての総選挙で勝利した労働党政権の下で創設され、国民の強い支持と、上流階層出身者の多い保守党にはノブレス・オブリージュ(富める者は貧しい者に手を差しのべる義務がある)の立場から福祉削減の主張もあまりなく政権交代を経ても維持され続け、新自由主義の権化サッチャーでさえ抜本改革はなし得なかった歴史と定着が説明されています。
 もちろん、財政難や制度発足時には高度医療が想定されていなかったことなどから、無料で提供できる医療の水準が問題となるなどの制度疲労はあるものの、貧しくても一定水準までの医療を受けられることだけは確保され続け、国民の老後の構想に安心感を与えていることが重要なポイントとされています。
 かたや、ヨーロッパと異なり食品にまで一律に消費税をかけ、ヨーロッパの基準で評価すればすでに消費税率は実質的に20%を超えているという試算もあり、税収中の消費税の割合がイギリスやスウェーデン以上という高消費税負担国家となっている日本(190~191頁)では、保険医療も無償ではなく(毎月多額の保険料を払っても3割もの自己負担)、年金生活者からも保険料を徴収し、保険料を払えなければ保険を剥奪するという、一番保険が必要なときにそれを奪う政策が平然と進められています。個人主義の強いイギリス人が無料医療制度のおかげで「働けなくなったり、病気になったりしても、最後は国がなんとかしてくれる」と信頼し(193頁)、お上意識の強い日本人が福祉が信頼できない社会で「自己責任」で放置されるために老後のことで国を信じられない皮肉。
 「こんな国で年をとりたくない、と思わされる国家など、そもそも価値があるのだろうか。」(187頁)という著者の嘆きが印象的です。


林信吾 講談社現代新書 2009年1月20日発行
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サラエボのチェリスト

2009-03-10 00:46:27 | 小説
 セルビア軍に包囲され砲撃と狙撃を受けているサラエボで暮らす4人、砲撃でパンを買うために並んでいた22人の市民が一気に殺された現場で22日間「アルビニーノのアダージョ」を演奏し続けるチェリスト、丘の上の狙撃者に反撃するカウンタースナイパーのアロー、妻子を疎開させ1人残されて妹のうちに世話になりながらパン工場に通う老人ドラガン、家族とアパートの1階の住人のために水くみに通うケナンを追いながら、極限的状況の中で生きる人々の思いと人間の生き様を描いた小説。
 チェリストについての実際のエピソードから構想されたそうです。
 登場人物の中で、アローだけが市民を狙撃するセルビア軍に対する積極的な反撃者として行動し、ケナンやドラガンは狙撃を避けながら街を歩き続け、後半でもドラガンは目の前で知人の女性が狙撃されて倒れても助けに向かうこともせず立ちつくし、ケナンは水くみに行ったビール工場が砲撃されてまわりで多数のけが人が出ても救助もせずに水を汲んで帰ります。チェリストの行動は、無意味で無謀なものですが、人々の心をいやし、チェリストを守ろうとスナイパーを警戒し続けるアローはその音楽に憎悪のなかった過去を思い反撃をやめアローが命令に反抗してセルビア人の市民を狙撃しなかったことに腹を立てたサラエボ守備軍の襲撃に命を落とすことになります。他方、ドラガンとケナンは、怪我人を救わなかった自分に嫌悪し、思い直して狙撃された死体を運び、隣人の分の水を取りに戻ります。
 アローの前半の格好良さと終盤の哀しさ・切なさ、ドラガンとケナンの格好悪さと終盤の着実さといった4人の生き様の交錯と、セルビア軍のみならずサラエボで戦争により権力を増した軍や物資を高く売りつけて稼ぐ者たちの悪辣さをも描くことで、極限的な状況の下での人間性、生き様を考えさせられる作品となっています。


原題:THE CELLIST OF SARAJEVO
スティーヴン・ギャロウェイ 訳:佐々木信雄
ランダムハウス講談社 2009年1月21日発行 (原書は2008年)
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女の庭

2009-03-06 00:11:25 | 小説
 子どものいない専業主婦が、隣に住む外国人女性への好奇心、優越感/劣等感、同情心、共感に揺れながら、想像/妄想をふくらませていく表題作と、花嫁学校に通う女性が、妹、恋人、母親、講師との間でやりとりしながら妄想/想像をふくらませる「嫁入り前」の2編からなる単行本。
 いずれも積極的に自己主張しない女性が、日常生活の中で、特段の事件も起こらない大きく展開しない流れの中で、観念的に、しかし登場する観念はどこか具象的日常的な、思索を行く先をずらせながら進め、明確な解答も出ないまま、日常のような、少し超日常のような、少し不思議な感覚を残してそっと終わっていきます。
 表題作の方では、主人公は、自由にさせてくれる、何をしても受け止めてくれる夫に不満を持ち、他方「嫁入り前」では主人公は、妹や恋人などから何をいわれても納得してしまいます。主人公はどちらも自信なさげでコンプレックスを持ち、観念的な思索を進めながらその行く先は定まらずどこかずれて行くことも合わせて、女性の自由や高い思考力や自己主張を好まぬ人たち向けの作品なのかなと感じてしまいました。
 第140回(2008年度下半期)芥川賞候補作。これが?


鹿島田真希 河出書房新社 2009年1月30日発行
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殺人鬼フジコの衝動

2009-03-05 00:36:03 | 小説
 浪費家で見栄っ張りな両親の下で虐待され続け、学校でも性的な虐待を受け続けていた少女藤子が、両親と妹を殺されて叔母の元に引き取られるが、成長の過程でばれなければと悪事に手を染め、結局は母親と同様、整形と浪費を繰り返しそのために多数の殺人を繰り返し自らの子どもも虐待するというストーリーの小説。
 小説そのものは、整形を繰り返して容姿でのし上がり、周囲の空気を読んで行動するだけで確固とした自分を持たない藤子を人形のようだとする比喩を繰り返しつつ、ラストで藤子が本当に人形に過ぎず他の人物の掌で踊らされていたことを暗示してどんでん返しを図っています。
 しかし、裏でどのような意図が働いていたとしても、藤子自身の行動は、藤子の見栄と妬み、地道な努力を嫌う性格によるものと明確に位置づけられまたそのようにイメージされるように記述され、その歪んだ人格の形成は子ども時代の虐待と母親の性格と行動によるものとされています。
 冒頭でも「貧乏は、環境や社会や制度が作り出すものじゃない」「要するに、貧乏は、その人の性格が作り出すんだ。」(11頁)と述べているように、作者は貧乏も犯罪も個人の自己責任、あるいはせいぜい親の責任だという確信を持っているようです。確かに劣悪な環境で育っても立派に生きている人もいます。その意味で環境が悪くても自分の意思と関係なく犯罪者となるわけではなく、選択の余地はあります。しかし、劣悪な環境の下で立派に生きることは、そうでない環境の下でよりも多大な努力を要し、強靱な意志か幸運がなければ犯罪や貧困が待ち受けているわけです。それはやはり環境や社会や制度が貧困や犯罪を生んでいる、少なくともその人の人生に大きなリスクなりハンデを与えているのだと思います。
 この作品が描き出す犯罪者像は、ラストでもう一つの犯罪者像を示しているとはいえ、あまりにわがままで見栄っ張りな性格に重きを置きすぎている感じがします。
 そして、藤子にしても美波にしても早季子にしても、子どもが受ける虐待ぶりは吐き気がするほど酷い。それにもかかわらず、あまりに可哀想で同情していた藤子がその後あまりにも小狡く非道に身勝手に立ち回るためその同情もすぐに薄れてしまい、虐待への怒りもまたどこかゆきどころがなくなってしまうように思えます。そういうあたりがどうにも居心地の悪い作品でした。


真梨幸子 徳間書店 2008年12月31日発行
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トワイライト4~6

2009-03-03 00:59:06 | 物語・ファンタジー・SF
 2009年2月25日の記事で紹介したトワイライト1~3の続編。
 1巻で相思相愛、それもさして取り柄もない少女ベラが超美形男(ただし吸血鬼)エドワードに君なしでは生きていけないとまで思われているというところまで進めてしまった恋愛小説を、どうやって間をもたせながら続けていくのかという作者の苦しみが見える第2巻です。
 原作第2巻の“New Moon”が日本語版ではやはり3冊に分けられて「4.牙は甘くささやく」「5.狼の月」「6.嘆きの堕天使」になっています。で、日本語版1~3の時と同様、4巻のはじめのプロローグが6巻の半ばにつながっているという相変わらずの読者に不親切な不自然な構成です。
 ストーリーは、原作1巻でハッピーエンドを迎え相思相愛が確認されたベラとエドワードですが、ベラの18歳の誕生日のパーティーでベラが紙で指を切って血のにおいがしたのを吸血鬼一家の末弟ジャスパーが耐えきれず、ベラを守ろうとしたエドワードと衝突、その後吸血鬼一家はフォークスを去り、抜け殻のようになったベラが嘆き続け、危険が発生するとエドワードの声が頭の中で聞こえることに気付き危険を発生させるために原作第1巻でエドワードの情報を聞き出すために誘惑したキラユーテ族の青年ジェイコブにバイクの修理を頼んでバイクの乗り方を教わるうちにジェイコブに惹かれるが、ジェイコブがその気になると踏み切れずという態度をとり続け、ジェイコブが連絡しなくなると気になり、そのうちにジェイコブは狼男になり吸血鬼一族と対立し、ベラはまたエドワードの声を聞こうと崖から海にジャンプし、ジェイコブに救われながら、そのジャンプを自殺と勘違いした吸血鬼一族が潜伏中のエドワードにベラが自殺したと伝えて希望を失ったエドワードがイタリアで自殺を図ろうとしていると聞くやジェイコブを振り捨ててエドワードの元へ・・・という展開。
 エドワードは前半中盤不在で読者に飢餓感を与えた上で、終盤にまた登場することで存在感をアピール。それでエドワードが、やっぱりベラなしでは生きていけないとベタ惚れに愛を告白して結局1巻の終わりの状態に戻るというしくみ。冒険物ファンタジーなら英雄が不在が続き復活というパターン(「指輪物語」のガンダルフとか)もありですが、恋愛物でもそういうのありだったか、というアイディアとはいえますが。
 でも、ここまで来ても、ほとんど取り柄のないベラがなぜ超美形の吸血鬼エドワードにぞっこん惚れ込まれるのか何の説明もなく、さらに原作2巻では狼男青年となったジェイコブにも好かれて奪い合いの展開。ベラにはエドワードの他人の考えを読む超能力だけでなく、より強力な吸血鬼の超能力も通じないということになりましたが、それも説明なし。ベラが危険になると頭の中でエドワードの声がしたことも説明なし(エドワードが伝えていたとすると、ベラが自殺したと誤解したことを説明できなくなるからでしょうけど)。原作3巻か4巻で説明されるのかも知れませんが、原作2巻まで読む限りでは、「ファンタジーなんだからいいじゃないの」みたいな作りの甘さと感じてしまいます。
 ベラの身勝手さと、それでも訳もなく超美形男に愛を告白されてすべてが許されるという展開も、ベラに感情移入して読める人にはいいのでしょうけど、あんまり納得できない感じがしました。


原題:NEW MOON
ステファニー・メイヤー 訳:小原亜美
ヴィレッジブックス
4.牙は甘くささやく:2006年11月30日発行
5.狼の月:2006年12月10日発行
6.嘆きの堕天使:2006年12月20日発行
(原書も2006年)
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