浪費家で見栄っ張りな両親の下で虐待され続け、学校でも性的な虐待を受け続けていた少女藤子が、両親と妹を殺されて叔母の元に引き取られるが、成長の過程でばれなければと悪事に手を染め、結局は母親と同様、整形と浪費を繰り返しそのために多数の殺人を繰り返し自らの子どもも虐待するというストーリーの小説。
小説そのものは、整形を繰り返して容姿でのし上がり、周囲の空気を読んで行動するだけで確固とした自分を持たない藤子を人形のようだとする比喩を繰り返しつつ、ラストで藤子が本当に人形に過ぎず他の人物の掌で踊らされていたことを暗示してどんでん返しを図っています。
しかし、裏でどのような意図が働いていたとしても、藤子自身の行動は、藤子の見栄と妬み、地道な努力を嫌う性格によるものと明確に位置づけられまたそのようにイメージされるように記述され、その歪んだ人格の形成は子ども時代の虐待と母親の性格と行動によるものとされています。
冒頭でも「貧乏は、環境や社会や制度が作り出すものじゃない」「要するに、貧乏は、その人の性格が作り出すんだ。」(11頁)と述べているように、作者は貧乏も犯罪も個人の自己責任、あるいはせいぜい親の責任だという確信を持っているようです。確かに劣悪な環境で育っても立派に生きている人もいます。その意味で環境が悪くても自分の意思と関係なく犯罪者となるわけではなく、選択の余地はあります。しかし、劣悪な環境の下で立派に生きることは、そうでない環境の下でよりも多大な努力を要し、強靱な意志か幸運がなければ犯罪や貧困が待ち受けているわけです。それはやはり環境や社会や制度が貧困や犯罪を生んでいる、少なくともその人の人生に大きなリスクなりハンデを与えているのだと思います。
この作品が描き出す犯罪者像は、ラストでもう一つの犯罪者像を示しているとはいえ、あまりにわがままで見栄っ張りな性格に重きを置きすぎている感じがします。
そして、藤子にしても美波にしても早季子にしても、子どもが受ける虐待ぶりは吐き気がするほど酷い。それにもかかわらず、あまりに可哀想で同情していた藤子がその後あまりにも小狡く非道に身勝手に立ち回るためその同情もすぐに薄れてしまい、虐待への怒りもまたどこかゆきどころがなくなってしまうように思えます。そういうあたりがどうにも居心地の悪い作品でした。
真梨幸子 徳間書店 2008年12月31日発行
小説そのものは、整形を繰り返して容姿でのし上がり、周囲の空気を読んで行動するだけで確固とした自分を持たない藤子を人形のようだとする比喩を繰り返しつつ、ラストで藤子が本当に人形に過ぎず他の人物の掌で踊らされていたことを暗示してどんでん返しを図っています。
しかし、裏でどのような意図が働いていたとしても、藤子自身の行動は、藤子の見栄と妬み、地道な努力を嫌う性格によるものと明確に位置づけられまたそのようにイメージされるように記述され、その歪んだ人格の形成は子ども時代の虐待と母親の性格と行動によるものとされています。
冒頭でも「貧乏は、環境や社会や制度が作り出すものじゃない」「要するに、貧乏は、その人の性格が作り出すんだ。」(11頁)と述べているように、作者は貧乏も犯罪も個人の自己責任、あるいはせいぜい親の責任だという確信を持っているようです。確かに劣悪な環境で育っても立派に生きている人もいます。その意味で環境が悪くても自分の意思と関係なく犯罪者となるわけではなく、選択の余地はあります。しかし、劣悪な環境の下で立派に生きることは、そうでない環境の下でよりも多大な努力を要し、強靱な意志か幸運がなければ犯罪や貧困が待ち受けているわけです。それはやはり環境や社会や制度が貧困や犯罪を生んでいる、少なくともその人の人生に大きなリスクなりハンデを与えているのだと思います。
この作品が描き出す犯罪者像は、ラストでもう一つの犯罪者像を示しているとはいえ、あまりにわがままで見栄っ張りな性格に重きを置きすぎている感じがします。
そして、藤子にしても美波にしても早季子にしても、子どもが受ける虐待ぶりは吐き気がするほど酷い。それにもかかわらず、あまりに可哀想で同情していた藤子がその後あまりにも小狡く非道に身勝手に立ち回るためその同情もすぐに薄れてしまい、虐待への怒りもまたどこかゆきどころがなくなってしまうように思えます。そういうあたりがどうにも居心地の悪い作品でした。
真梨幸子 徳間書店 2008年12月31日発行