なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災6 津波災害

2011年03月20日 23時26分16秒 | 東日本大震災

今回の災害がこれまでと違う点がいくつかある。
第1に、被災範囲があまりにも広いということ。東日本太平洋沿岸の湾という湾、入り江という入り江がことごとく壊滅状態になったと言っていい。
報道で目にする被災地が最悪の状態なのではなく、全ての地区が同じく最悪な状態であること。報道されない、地名のあがってこない地域や集落も同じく最悪であること。
2点目は、今回の災害は、震災というよりも津波災害であるということ。マグニチュード9.0という巨大な震度ではあったけど、津波に襲われなかった被災地の住宅は意外なほど倒壊していない。それだけに、津波に呑まれた地区と免れた地区の境界線が世界を異にする無情の一線に見えてくる。
津波災害の恐ろしさは、全てを奪い尽くしてしまうということ。震災だけであるならば、その後火災が発生すれば別だが、家屋が倒壊しても、その場に家そのものは残っている。衣類や大切のものを取り出すこともできるだろう。しかし津波災害は、家そのものが破壊されて流され、何一つ持ち出すことはできない。着の身着のままで逃げた人のみが助かったのであり、命と引き替えに物を全て失った災害となった。
また、津波による死者は、遺体そのものが失われてしまうことも多く、発見されたとしても、損傷が大きいため本人確認は難しいとのこと。死者数を確定することすら困難な災害、それが津波災害と言える。
3点目は、沿岸部に点在する石油コンビナートや原発が被災したために、被災地のエネルギー源が絶たれてしまったこと。そのためにライフラインの復旧、特に電気の復旧がきわめて遅いということ。さらにはそれが原因で、電話通信の復旧も遅れている。
被災地の中での連絡がほとんどできず、状況把握、安否確認に非常に苦労しているという。自治体の施設や職員も回覧板よろしく紙を使って連絡しているという状況。
これらの原因もあって、避難所間の支援の偏りが多く見られる。
加えて、ガソリンの供給が悪く、支援物資の運搬に困難をきたしている。
青森から茨城、千葉までの非常に縦長の被災地への支援は、ガソリン不足と相まって、北へ行くほど手薄になっている。

以上のような状況から考えると、今回の災害に対する支援は、南から北へという動きではなく、西から東へという動きを作ることが効率的と思われる。つまり、新潟、山形、秋田、青森がそれぞれの位置から東へ移動するような支援の仕方だ。
あまりにも広範囲であるために、世間の支援と関心が薄れていくとき、取り残されてしまう地域の孤立感、孤独感を感じる被災者が数多く発生すると考えられる。
一つの団体が全てをカバーするという支援の形は物理的に難しく、それよりも、一つの地域が一つの地域をピンポイントで長期的にサポートしていくような支援の形が望ましいと思われる。

以上、1回目の現地調査から見えてきた報告とする。


大震災4 現地報告1

2011年03月19日 21時45分57秒 | 東日本大震災

今日山形に戻りました。被災地はほとんど電話が通じないので、これまでのレポートをまとめてUPします。その第1弾です。

東北関東大震災現場報告 1

3月15日
09:30 松林寺出発 同行小野貴之
47号線、池月から一泊、築館方面へ
水ー20リッターポリタンク4本、2リッターペットボトル42本
食料ー少々
卓上コンロ、ボンベ4本
気仙沼方面へ、
本吉町手前まではスムーズに行けた。
手前で津波の現場に到着
本吉、峰仙寺訪問、寺も山内も無事
 拠点についても受け入れ可能
本吉、清涼院訪問
 国道45号線を通れば、峰仙寺から清涼院までわずかな距離だが、途中津波で破壊されて通れない。
 清涼院、建物山内は無事、30名ほど寺に避難している、ほかに130名ほどに炊き出しをしていた
 水と少しの食料を置いて移動
本吉から県道65号本吉気仙沼線で気仙沼市内へ
 市街地は車と泥、瓦礫が散乱し、市民はその片づけを始めていた
 ここが本当に日本なのか、難民キャンプを訪れたときのような既視感を感じた。
発災直後から火災が発生した対岸は、いまだに消防関係車両が入って、一般車両の通行はできない様子だった。
気仙沼から陸前高田へ移動
45号線は問題なく通行できる
高田の惨状は言葉にできない
津波に襲われなかった地区は、建物の倒壊もほとんど見られず、被災地とは思われないほど、しかし、ある一線で、津波に襲われた地区は建物そのものが廃材の山と化して、この一線のあまりに大きな境界に息を呑む思いだった。
高田市街地は、わずかに数棟の建物を残し言葉通りの壊滅状態。それが行けども行けども原野のごとく続く光景は、本当にここが日本という国なのかと目を疑うばかりだ。
高田市街地から細い山道を迂回して寒風光照寺へ。
通常の道は遮断されているため、老人ホームの裏の松林をぬってようやく到着。
寺と山内は無事、家族を失った数人が身を寄せていた
水を40リッター置く
高田の港のすぐ側にあった野球場の照明塔の上を津波が越えてきたということで、照明塔の高さが15メートルだから、津波の高さは海岸で15メートルあったという話を聞いた。
それが一気に市街地に押し寄せたのだから、逃げる間もなく、家ごと飲み込まれたということなのだろう。
高田の場合は海岸沿いだけでなく、津波は川をさかのぼり、海岸から8キロまで達していた。線路のレールまで流され、水の威力の恐ろしさを感じた。
自衛隊員が瓦礫でふさがった道路を通行できるように片付けていた。
また、消防関係者が遺体の捜索を行っていた。
被災者が、自分の家があったあたりを遺留品を探して歩いていた。
物資を運ぶにも、救急車が移動するのにも道路の確保が最優先であることが分かる。
15日は、被災地の概観と数箇所の寺院を回っただけだが、それぞれがそれぞれの場所で何とか生きるのが精一杯で、他地区の情報は全くといっていいほど入手できていなかった。
電気の復旧とかかわっているのだが、家族や知人との安否確認、情報交換ができればある程度の不安は解消され、頑張ろうと意欲も湧いてくるのではないか。
昨晩は、夜中何回か余震があり、何度も目を覚ました。畳の上で寝袋の中で寝ても体は休まれない。体育館で毛布一枚で寒い中で寝ている避難者は、もう既に限界を超えているに違いない。
被災地があまりも広範囲であるために、手が回らないのだが、道路の整備、救命、遺体捜索が一段落すれば、各地からの援助物資も被災地入りできるようになるだろう。もう間もなくのことと思われるので、何とか凌いでいただきたいと祈るばかりだ。
16日は、気仙沼の避難所を中心に回ってみるつもりだ。
被災地の中に入れば通信手段がほとんど途絶えるため、明日も連絡ができるか約束はできない。

3月16日
高建寺さんから本吉経由で気仙沼へ。
気仙沼市大谷海岸も壊滅状態。同じく最知駅付近も壊滅状態。
昨日は通れなかった本吉から気仙沼への45号線が、緊急救援車両に限り通行可能になっていた。
車を失った人、あってもガソリンがない人だと思われる人々が、自転車または徒歩で物資を求め道路わきを移動していた。
鹿折小学校へ、近所の人たちが1階部分の泥片付けをしていた。今後ここも避難所になる可能性もあるとのこと。
避難所の情報を聞いて東陵高校へ。
東陵高校
現在200名が避難、その3分の1は高齢者。高校の寮生が寮に入っているが、間もなく燃料がなくなればここに収容される可能性がある、今後300名規模になるだろうとのこと。
水、食料は2日前から入ってきている。
欲しいのは、プロパンガスボンベ、灯油、仮説トイレ、お湯を沸かして体を拭くための桶や沸かすためのズンドウなどがあればありがたい。
足湯などもあればいいのではないか。

Kウェーブ(総合体育館)
1600名
水タンク、仮設トイレ、仮設電話が完備され、気仙沼市最大の避難所。
医務室では医師が診察も行っていた。
施設の責任者にボランティア受け入れの話を伺うと、まだ立ち上がっていないが、それは社会福祉協議会が担当することになるだろうとのこと。

気仙沼市社会福祉協議会(臨時事務局、福寿荘)
菊池さん、鈴木さんと協議
ここがボランティアの受け入れ担当になるのだと思うが、経験もないし、コーディネートできるか不安だ、アドバイスしてもらうと助かる。
まだ、電話も通じないが、今後の協働を期待する。

気仙沼市街地に入り、救急車両専用のスタンドで10リッター給油、2000円。
10リッターだけの給油では不安だが、一般車が全く給油できないことを考えるとありがたいことと思う。

南三陸町志津川へ、山道を縫って進む。
山間を抜けて谷あいに入ったとたん、津波に打ち寄せたられた家屋の廃材が目に入ってきた。海はまだはるか遠く、地図を見なければ、この先に海があることさえ想像できないような山間部、こんなところまで津波が及ぶとは、誰も予想できることではなかったと断言できる。
さらに進むと、テレビで見慣れてしまった南三陸町役場庁舎が見えてきた。全てが押し流された荒野にぽつんと庁舎のみが建っている。近づいてみると、その3階の窓まで廃材が突き刺さって、津波の高さが知れる。
その先、海の方向に目を移すと胸がつぶれるような光景が広がっていた。
気仙沼でも、陸前高田でも全てをさらわれた光景は眼にしてきたのだが、ここの場合は横幅が狭く奥行きが長いせいか、その悲惨さが一点集中に胸に刺さるように感じられた。
前面に開けた海から背後の谷あいまで、高さ10メートルを越す津波が一気に押し寄せてきたことを想像してみる。その幅の中にいた人々はどのような恐怖で次の瞬間を迎えたのだろうか。
想像を絶する光景にしばらく言葉を発することもできなかった。
この度の震災は、地震の揺れによる被害はそれほど大きくなかったように思う、大津波が来なかったら激甚災害にもならなかったかも知れない。
これまでの阪神などの震災と明らかに光景が違うのは、津波のあるなしのただ一点によるものだ。
ひとつの戦争でもこれほど破壊しつくすことはないのではないか、水という武器はどれほど大きな威力を持っているのか、思い知らされる災害となった。
無言まま高建寺さんへ戻り、宗務庁の関係者とSVAのスタッフを待つことにする。

17日
昨晩遅く、24:30曹洞宗神野部長と息子さん、SVA市川、白鳥、ユースプログラム岩崎と合流。
朝、今後の動きについて協議。
10:30 高建寺出発。
東北管区教化センター高橋統監、一関市塩釜老師に挨拶、情報交換。
高橋さんから、地区の酪農家からの牛乳60リッターをいただく。
気仙沼へ。市街地でガソリン10リッターをつめる。
神野部長と別れ、市社協へ。
牛乳と物資を東陵高校へ。婦人方が夕食の準備をしていたので物資を渡す。昨日はなかった仮設トイレが設置されていた。
鹿折中学校へ。避難者600名。
グランドで焚き火で暖を取っていた人に聞くと、炊き出しは来ているとのこと。
気仙沼市への物資搬送は一括して青果市場へ集結するとの情報で青果市場へ、さらに市対策本部へ、物資搬送についての打ち合わせ。
少林寺さんへ。
ボランティアの宿泊場所として協力をお願いしたところ、快く引き受けていただいた。
市社協との協議で、ボランティア受け入れ態勢サポートをSVAが担うことで合意。
桃生町香積寺さんで神野さんと合流し拝宿。

18日
岩手が支援手薄という情報で、調査に入ることに。
大東町岩手曹青会長新沼さんを訪ね、情報交換。
遠野柳玄寺さんで情報収集。
大槌町へ。避難所栗林小学校に立ち寄り情報収集。
栗林小、300名
代表千葉敬さん、毛布等物資は着ている、下着類は欲しい。
近所の人たちが炊き出しをしてくれているが、これまで1週間おにぎり1個ずつのみ。温かいものは、カップラーメンが一回のみ。それでもありがたいと、千葉代表はあくまでも謙虚。支援の偏りが明らかに。このような避難所は他にもたくさんあると思われ、細かな調査が不可欠。
大槌町、吉里吉里地区へ。
吉祥寺さん。100から150名が避難。
この地区は、線路を境に下地区が壊滅。避難した人が吉祥寺さんと上地区の民家に身を寄せている。合計すると1200名。
水は沢水で十分足りる。プロパンガスも昨日補填された。衣類も今日配給があった。
足りないのは下着類、食材もこれまで上地区の人たちが調達してくれて間に合ってきたがそろそろ枯渇状態。
留守の家を狙う盗難の被害が出始めた。地区の人々は日中捜索などで疲れてしまうので夜警をしたくてもできない。
1週間も風呂に入っていないので体が不衛生になっている。バスで風呂の送迎などをしてくれたらありがたい。
吉祥寺住職が避難所の対策本部長となって被災者支援のとりまとめをしていた。
住職の話「こんな遠くまで来てくれただけで心強いです。本当に本当にうれしいです」
地区住民と一体となって孤軍奮闘で頑張っている住職に心から敬意を感じた。お寺がお寺の機能を全力で果たしている姿に大きな希望を見出したような思いだ。
釜石の石応寺さんに伺うつもりだったが、途中の道が通行止めになっていたため今回は断念した。
高建寺さんから荷物をピックアップして気仙沼少林寺さんへ。神野さん、SVAと合流し今日の情報交換、明日の予定の調整。22:30分就寝。

宮城県に比べて岩手県への支援が遅れていることを肌で感じた。ガソリン不足のために、移動が難しく、関東方面からの支援物資が近いところから配られているという理由もあると思う。我々もそれが分かっていながら、今回は宮古、久慈方面への調査に向かうことができなかった。北へ行けば行くほど支援の手薄があると思われ、非常に気にかかる。


大震災3 被災地へ入ります

2011年03月15日 06時53分55秒 | 東日本大震災

今日から被災地に向かいます。
入れるかどうかも分かりませんが、気仙沼を目指し、入れたら陸前高田に向かいたいと思います。
そちらが無理な場合は南下して南三陸町を考えています。
SVAの視察と合流する予定でしたが、東京から入るための許可がまだ下りないらしく、一足先に入ることにしました。
救命、ライフラインの救援車両が優先されているようなので、仕方ありません。止められるかもしれません。

車に積めるだけの水を積んで、小野貴之君と二人で行ってきます。
随時報告をしたいのですが、被災地はほとんど携帯も通じないようなので、可能になればします。
皆様のご支援が必要なときはよろしくお願いいたします。


大震災2 上田先生のメール

2011年03月14日 15時20分36秒 | 東日本大震災

東北関東大震災に関して上田紀行先生からメールがありました。

上田紀行です。
未曾有の災害、皆さまも言葉を失い、心を痛めておられることと思います。
私自身も精神的にも非常に苦しい時間を送っております。
被災地に駆けつけることももちろんできず、いったい何ができるのか。
その中で、やはり言論人としてはきっちりと発言せねばと思い、
昨日からツイッターでいくつかの発言を行いました。
今はその想いを共有することが第一と思い、メールにてお送りいたします。
よろしくお願いいたします。

3月12日
テレビは地震&津波の悲惨な画像を流し続けている。もうそれは十分だ。今何がいちば
ん問題なのか。そして我々に今、そして明日以降にできることは何なのか。そのこと
を予見し提案するのがメディアではないのか。

原発の職員の方々も、もう被爆は覚悟の上の犠牲的行為なのだろうか。被災地でこの
寒い朝を迎えている全ての方々に、心からの祈りを。

3月13日
私たちが税金を納めているのは、自分ひとりでは出会えない、社会の中で困窮してい
る人たちへのケアを、政府に仮託する行為である。今こそ、その税金を生かすときだ。

社会的正義とはその社会の中での分配の問題でもある。自分の取り分を減らしてでも、
その分を困窮している人たちへ振り向けてほしいと意思表示することは、大きな社会
的正義を実現する行為だ。

募金も重要だ。それと同時に、既に私たちが納めた税金という巨大な募金が、徹底的
に弱者に向けて使われるように意思表示することが、重要だ。あなたが儲かりますよ
との利益誘導の政治から、徹底的な弱者救済の政治への転換への意志を持つこと。そ
れが大きな募金になる。

今日も一日、現場で尊い仕事をなさった方々、寒空の下悲しみに絶えながらがんばっ
て来られた方々に、心よりの敬意と、そして祈りを捧げます。被害のなかった私たち
も、皆さんの存在を第一に考えながら生きていくという決意が必要です。これは地域
災害ではなく、国家全体の災害です。

この未曾有の災害は、国家像自体の変更を要求することになるだろう。第二次世界大
戦によって国家像の大きな変更が行われたように。「痛み」と「苦しみ」を忘れた国
家像からの脱却をこれまで私は主張してきたが、死力を尽くしてそのことを発信する
つもりだ。

災害被害者の方々、救援活動に携わっている方々に放射能が降り注ぐ事態だけは避け
なければならない。現場で自らの命を危険にさらしながら献身的な努力を続けている
方々に、全身全霊からのエネルギーを送りたい。私たちは祈ることしかできない。し
かし心から祈ることはできる。


大震災1 巨大地震

2011年03月13日 21時45分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

この度の超巨大地震、山形の被害は軽微なものでした。

太平洋側の被害には目を覆いたくなるばかりです。

何万何十万という人々の不安と悲しみと絶望に胸がつぶれる思いです。

SVAシャンティ国際ボランティア会は、救援活動の視察を行うことになりました。

私も同行して15日に現地へ向かう予定です。

今回の救援活動は、かなり長期に亘るものになるでしょう。

じっくり腰を据えて活動できる拠点を探してきたいと思います。

活動拠点、活動内容が見えてきましたら、多くの皆様のご協力をお願いしたいと思います。


身売りの歴史の上で

2011年03月10日 20時40分19秒 | 松林寺

以前このブログで、松林寺の過去帳から、宝暦の大凶作のことを書きました。250年前にこんなことがあったのだという驚きで書いたのですが、この度縁あって「昭和東北大凶作ー娘身売りと欠食児童ー」(山下文男著・無明舎)という本を手に入れて読んだところ、何と昭和のはじめの飢饉もかなりのものだったことが分かりました。
昭和4年、アメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌は、日本経済にも大きな影響を及ぼし、生糸相場が大下落したために農産物全体が大打撃を受けました。
それに加えて6年と9年の凶作が重なり、北海道、東北は壊滅的な状況となりました。
昭和9年といえば私の母親が生まれた年、たかだか80年に満たない頃の話です。
凶作に加えて農民を苦しめたのは、財政危機に陥った政府が、それまで目をつぶってきた国有地・国有林の開墾地を、払い下げするので金を出せと迫ったことです。期限までに収めないと没収して競売にかけるという一方的な通告をしてきました。
稗やワラビの根、木の実などで飢えをしのいでいた農民にお金などあろうはずもなく、借金の取り立てに責められるばかりの状態でした。
そのために多くの娘たちが売られていったのです。
山形県の中でも最上郡がもっとも酷く、2年間で2000名の娘が売られたと当時の新聞に書かれています。その中でも東小國村・西小國村(現最上町)がもっとも多かったと記録には見えます。
松林寺の過去帳を見ると、やはり昭和9年から11年にかけて、普段の年の1.5倍から2倍の死亡が記されています。
全国的な救援などもわずかばかりあったようで、宝暦の飢饉のようにばたばたと死んでいくことはなかったようですが、その分、若い娘が親から引きはがされ売られて苦界に身を沈めたということなのでしょう。
そういう事実の上に現代の我々が生きているのだということを知らなければならないと、強く思いました。


やなせななさんテレビ放映

2011年03月09日 08時55分31秒 | 集中講座

10月松林寺集中講座に来ていだく予定のシンガーソングライター「歌う尼さん」やなせななさんのテレビ放映があるという連絡がご本人からありました。

今月13日深夜(ですから実際は14日)24時50分~「NNNドキュメント’11」。山形ではYBCで放送。

昨年7月から半年間密着取材した内容だそうです。

深夜ですので、是非予約録画でご覧下さい。


自殺問題と寺院

2011年03月08日 23時13分07秒 | 布教活動

昨年もこの国の自殺者数が三万人を超え、十三年連続という寒々しい記録となりました。さらに自殺未遂者はその数倍、自殺を考えたことのある人は十倍いるともいわれます。 

 また、遺された家族にとっての苦しみは、自殺者と同じか、あるいはそれ以上である場合もあるでしょう。

 この問題を、個人や家族の問題ととらえてしまってはならない、この国がかかえる社会全体の歪みの問題ととらえるべき、というのが多くの専門家の見方です。だとすれば、この国の一人ひとりが、自殺問題を自分のこととして考えていくことが求められます。

 特に「生死」に関わる僧侶においては、決して「他人事」と無関心を装うことは許されないでしょう。自殺者がお檀家や周囲の人であればなおのこと、それを食い止められなかった無力感や、自責の念に苛まれる思いがあって然るべきと思われます。また、遺族に対する対応においても、僧侶ならではの心配りが求められます。そんな中、僧侶の各方面からいろいろな活動が始まっています。

 ひとつは、「自殺防止ネットワーク 風」です。現在全国各地及びハワイも含めて五十ヶ寺が相談所として電話番号を公表し、相談を受けています。私の寺もその一つとして活動を続けています。

 電話相談ですから、全国各地どんな遠方からでも相談はできそうですが、相談者の雰囲気で感じることは、近くにそういう場所があるということが安心の一つになっているように感じることです。電話をかけるまでには至らないまでも、「最後はここに電話すればいいんだ」というように、最後の望みを確保しておくことが自殺の防止につながっているように思うのです。

 もう一つは、関東を中心に活動している「自殺対策に取り組む僧侶の会」です。こちらは手紙での相談に答えるという活動と、遺族の方々への慰霊法要や集いを行っている組織です。また、曹洞宗青年会でも自殺相談に答える研修などを積極的に行っています。

 他にも、組織的活動ではないにしろ、お檀家や地域の人々の側にいて、相談相手となって共に生きる活動を行っている寺院住職は各地にいらっしゃると思います。そういう動きがもっともっと盛んになり、全国各地の寺院が命の問題に苦悩する人々に門戸を開き、「困った時はお寺に行って相談すればいい」というような寺院本来の役割の認識が広まることを願います。

寺院の存在意義や公益性が問われている昨今、自殺防止の活動は、今最も求められ、また寺院がそれに応え得る活動ではないでしょうか。 

  (禅の友「風鐸」三月号依頼原稿)


無常が迅速であればこそ

2011年03月06日 17時41分15秒 | 宿用院

  「無常迅速」

 無常の感じは若くてもわかるが

 迅速の感じは老年にならないと

 わからぬらしい    (倉田百三)

先日テレビで「年をとるにしたがって一日一年が短く感じられるのは何故か」というようなことを語っていました。その番組での答は、「人は初めての体験は長く感じるが、経験したことのある時間は短く感じる」というものでした。

たとえば、知らない道を行く時は長く感じるけれど、同じ道を帰る時には短く感じる。同じように、子どもの時は何でも初めての経験だから時間も長く感じるが、老人は日常が毎日の繰り返しなので短く感じるのだ、というのです。そうなのかもしれないと思いました。

しかし、もう一つ言えるとすれば、明日も今日と同じ一日が繰り返されると思うから、あっという間に過ぎてしまうのではないでしょうか。

もし命の期限がみえたなら、あだや今日一日をおろそかに過ごせるはずがありません。「それ」は明日かもしれません。

「無常」が本当に「迅速」であることが分かれば、老人だって一日は決して短くない、と思います。

明日の一日は、誰にとっても初めての経験なのですから。

寺報「なあむ」213号より