Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日の購入本

2014年02月22日 23時09分50秒 | 読書
 実はもたもたとしていて、未だ「古事記」と「西行」「不朽の名画を読み解く」を読み終えていない。古事記以外の二冊は手元に置きながらおいおい読み進めるものであるが、古事記は訓み下し文と解説はぐずぐずして読んだ先から忘れてしまわないように、また流れを外さないようにしなくてはいけないのだが‥。少し急がないとまだ、上・中・下三巻の内、上つ巻・中つ巻の3分の2しか読んでいない。しかし思ったよりも読める。想像したとおり日本書紀よりは意味が取りにくいところが多々ある。古語の語彙の知識が高校の教科書程度だから文庫本の脚注だけではわからないところもある。しかし幾度か口にして繰り返すうちに何となくわかったような気になる。そんなことを繰り返しながら読んでいる。喫茶店などで不審な読書の仕方をしているとみられているかもしれない。



 そんな状態なのに一昨日に
「東北を聴く-民謡の原点を訪ねて」(佐々木幹郎、岩波新書)
「地球外生命-われわれは孤独か」(長沼毅・井出茂、岩波新書)
の二冊を購入してしまった。
 前者は表題には表現されていないが、震災後の東北に触れている。佐々木幹郎の本は二冊目。現在の佐々木幹郎のあり様と、震災への視点を探りたい。また佐々木幹郎の眼を通して震災後の東北を見たいと思った。
 後者は、私が学生の頃は地球外生命などというのはそれこそSFの世界のことであったが、今は学問としてきちんと確立している分野である。今の水準を垣間見たいものである。
 積ん読は辞めようと決意したばかりなので、なんとか早々にこの本のページをめくることができるようにしたい。
 読みたい本は山ほどある。困ったものだ。

映画「天心」

2014年02月22日 22時27分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 映画「天心」を見た。監督は松村克弥、配役は竹中直人(岡倉天心)、中村獅童(横山大観)、平山浩行(菱田春草)、木下ほうか(下村観山)、橋本一郎(木村武山)、温水洋一(狩野芳崖)等。
 岡倉天心の生涯というのは、キチンと勉強したことがないので、いい機会と思い見てきた。映画と実際とは違うというのは前提で、映画は実際の人生をもとにはしていてもあくまでもひとつの作品である。ひとつの作品として楽しむという見方と、天心という人の歴史を勉強する見方と両方の視点で鑑賞することになる。
 ただしこの映画、岡倉天心を描くというよりも、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山という五浦での四者四様の姿勢と相互関係に力点が置かれている。特に早逝する菱田春草の人となりが中心になる。実際人となりは私にはわからないが、菱田春草のファンには見ごたえのある作りになっているような気がする。実際に見ていて春草夫妻の、平山浩行、キタキマユの演技は好感が持てた。

 このような作品を見るときは、監督なり、脚本家なりが現代という時代から見て、「岡倉天心」とその時代をどのようにとらえようとしたのか、というのが鑑賞のひとつのポイントになるのだろう。
 そこらへんについてはまだ私の中でまとめられていないので、本日のところは映画を見たということの報告にとどめさせてもらいたい。もう少し頭の中がこなれたら、まとめられたら記載してみようと思う。残念ながら語るだけの力はまだまだなさそうである。


東京都美術館で何が起きたのか

2014年02月22日 01時16分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 世の中で私が一番嫌なことは、権力者にすり寄ることである。力あるものに尻尾を振る、これはもっとも忌むべきこととして教わってきた。
 中学・高校とミッションスクールにいて新約聖書を読まされた。その時も、付和雷同と権力者に媚を売ることの厭らしさを教わった。当時の聖書教育の中で印象に残っているのはこのくらいのことである。聖書に書かれていることと実際のキリスト者の振舞いとは一致しないことを教わったのも、残念ながらこの学校での一部の教員・修道士の振舞いからである。
 そしてその後、戦争中の日本の社会の有り様の記述に接するたびに、この付和雷同と権力者へのすり寄りがいかに忌むべきことであるか、教わってきた。

 今回の東京都美術館の「撤去要請」なるものを聞いたとき最初に私の頭に浮かんだのはこの権力者に尻尾を振る姿勢であった。力あるものに自分がすり寄るだけではなく、権力を持つ者の力が自分の近くまで来ていることを喜んで、わが意を得たりと、はしゃいでいる姿である。これまで自分の意見を開陳する勇気がなかったものが、風向きを読んで燥いでいる姿である。

 実は今年に入って1月7日に記載したことを思い出した。この日、いろいろ物議を醸した「東京都現代美術館」に行ってきたが、そこに浜田知明の「初年兵哀歌 歩哨」が展示されていた。私は「こんなところに‥」とびっくりした。もし「政治的メッセージ」が問題ならば、この作品はいの一番に撤去されなくてはならなくなる。同じ東京都の美術館であるから。
 ひょっとしてピカソ展でも開催されて「ゲルニカ」が展示されたらそれに対して撤去要請をするのであろうか。ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」も展示できなくなる。逆に国立近代美術館に飾られているいわゆる「戦争画」も撤去しなくてはいけなくなる。天安門事件やベトナム戦争の報道写真展なども出来なくなる。
 私は、都知事や現政権の意を勝手に自分に都合よく解釈して尻尾を振る卑しい根性を見せられて実に不快な思いをさせられたと思っている。

 先ほどアップしたイギリスの「ラファエル前派」などは旧来の王立美術院に反逆したアバンギャルド達である。美術も宗教も含めて王の意向に反するという極めて反体制的な主張であったはずだ。芸術の原動力というのは、権力者にとって嫌なのは、その原動力の源泉が、権力者のよって立つ基盤を得てして掘り崩すように見えることである。しかし政治というのはそのようなものも含めて、飲み込むことのできる力量もまた問われているのである。尻尾を振る人間というのは、そのような力量を持ち合わせていない、想像力と創造力に欠けた人間のことである。

 一方で私はあのヘイトスピーチを表現の自由や権利として扱うという不思議な論議を聞いて呆れた。今回の判断をした人は、ヘイトスピーチを認める風潮に乗じているのだあろうか。あのヘイトスピーチに表現の自由と権利があるならば、美術館内で行う主張にも自由と権利があるはずだ。それがいけないということは、政治的に自分の思いとは違うから排除したいという思いが透けて見える。ヘイトスピーチとは、他人の生存権と基本的人権を否定するものである。これは法治国家として、近代国家として許してはならないものである。
 このヘイトスピーチに「表現の自由」があり法律的に許されて、美術館内の「表現の自由」が許されないとは、もはや現代の先進的な放置国家とは言えないのではないか。東京都美術館内で「ヘイトスピーチ」に類する展示が行われたときは、どうするのか。これは政治的表現ではないから表現として認めようというのだろうか。それは許されない。ヘイトスピーチは他社の基本的人権・生存権を否定するものであるから、拒否しなくてはいけない。しかし今回都美術館が撤去を求めた展示物は他社の基本的人権・生存権は否定する意図はないし、また否定もしていない。

 新聞やパソコン上に現れた今回の作品について、それが芸術的に優れているかどうかの判断はまったく別の次元で考えなくてはいけない。芸術的に優れているか否かは、時間とともに判断される。政治的に裁断してはならないのが「芸術」である。
 国公立の美術館は、場を広く市民に提供したり、主張の如何を問わず時間という尺度に耐えようとしているものを収集・保管・保存することが使命である。政治的な判断で作品を判断してはならない。場所や金は出しても口を出してはいけない。これもあの戦争という計り知れない犠牲の上に国民に認知された大切な価値である。
 美術館は、時の権力者におもねってもいけないし、反体制であることに思い入ればかりをしてもいけない。私は、あいまいな概念である「政治的中立性」を主張しているのではない。もっと単純である。政治や行政は「作品に口出しをしてはいけない」のである。