Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ベートーベン「ヴァイオリン協奏曲」(オイストラフ、クリュイタンス)

2016年05月04日 22時25分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ダヴィッド・オイストラフというヴァイオリニストの名は私などの世代にはとりわけ有名であったと思う。旧ソヴィエトの出身のヴァイオリニストでソヴィエトを代表する演奏家であり、多くのファンを持っていた。1908年生まれで1974年に亡くなっている。年齢的にはまだまだ期待されていたが、持病の心臓病で亡くなったと記憶している。私がCDを購入するようになってからもCDはいくつも発売されていたが、どういうわけか購入する機会が無く、そのままになってした。
 このCDのベートーベンのヴァイオリン協奏曲の録音が1958年、他の4曲は1956年とかなり古い。第1楽章のところでもマスターテープの具合が悪く少しだけだが音が飛ぶ。それはやむを得ないものなのだと思う。
 演奏は録音が古い割には鮮明だと思うがそれでも音はこもり気味である。しかしその左指の細かな動きには驚く。特に第一楽章の長い音符で続くトリルの場面など驚くべきものがあると思っている。カデンツァなどで旋律が浮かび上がってくるように演奏されるのは心地よい。端正な演奏という風に思える。テンポはそれほど速くない。私はそれが気に入っている。
 全体的に強弱のコントラストが強めで、3つの楽章の内第2楽章に少し線の細さを感じてしまうのは、私の聴き方がいけないのかもしれない。私のこの曲のスタンダードがヨゼフ・スーク、フランツ・コンヴィチュニー指揮、チェコフィルの演奏であるので、第2楽章がことのほか音の深みと透明さをたっぷりと聴かせてくれるのでついそちらと比較してしまう。
 一見線の細そうな第2楽章の高音域、これはオイストラフ特有の高音の響きだと私は想像して聴いている。失礼な言い方かもしれないが、あの太そうな指からこのような繊細で美しい音が紡ぎ出されるかと思うと不思議な気がしてしまう。
 指揮のクリュイタンス、フランス国立放送管弦楽団の演奏、いづれも有名だが私は聴いた記憶がない。

      

むのたけじ氏の発言

2016年05月04日 21時02分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の憲法集会、多くの発言があったが、私の心に残った発言は、101歳のむのたけじ氏の発言であった。車いすで登場された。氏の「たいまつ」に基づく詞章はいくつか読んでいる。学生時代からその言葉に惹かれていたことは確かである。最近はご無沙汰してしまってして、覚えているものは残念ながらない。
 昨日の発言はとても101歳とは思えない力のこもった発言であった。2分20秒から5分まで。
⇒【https://www.youtube.com/watch?v=OHTBQbCkxi0
 人の発言というのは、言葉の重みと共にその力強さで人を惹きつけるものであることを教えてもくれた発言であったと思う。

 発言要旨は次のとおり
「この集会は戦争を絶滅させる実現力をつける集会だ。若い人々が来ている。ジャーナリストとして戦争を国内外で経験したものとして話したい。
 一つは、戦争とは何かという事だ、自分は従軍記者として武器を持たなかった。しかし、兵士と同じ心境になった。戦争になれば相手を殺さなければこちらが死ぬ。死にたくなければ相手を殺す。こうした精神状態に耐えられるのは3日間だ。あとは「どうでもなれ」となる。女性に対する乱暴、盗みなどなど。指導者たちは、敵の国民をできるだけ早く、多く殺せと命じる。互いの正義が実現できるか。出来ない。だから、戦争は決して許してはならない。しかし、自分たちの世代はかつて許してしまった。恥ずかしいことだった。その結果15年戦争になり、例のない無条件降伏になった。
 二つ目は、戦争を始めてしまったら止めようがないということだ。戦前の憲法の下では、人々は「臣民」=家来だった。国の方針に反すれば刑罰を受けた。ぶざまな戦争をし、ぶざまな尻拭いをし、残ったのは9条だ。9条こそは人類に希望をもたらす。70年間平和だった。こうした憲法を持つのは日本が唯一だ。この会場の光景を見ると、若いエネルギーがあり、いたるところに女性の姿がある。これは新しいエネルギーだ。」
 この集会で2000万署名の週約状況が報告され、昨日段階で1200万名が集まっていることが報告された。

      


横浜には強風注意報

2016年05月04日 13時06分39秒 | 天気と自然災害
 横浜では朝7時過ぎに11.9メートルの風が吹いたらしい。その後も少し強まっているように感じる。

 強い風というのは人を不安にさせる。横浜では昨晩からの強風注意報がそのまま継続している。大雨・洪水・雷注意報は解除されており、朝から強い陽射しが照っている。たいへん明るい、しかし家の中にこもってこの強い風の音を聞いていると空は明るくても気持ちが不安になる。胸のあたりがざわついているようで落ち着かない。昔から私はそのように感じてきた。
 今飼っているセキセイインコ2羽はそれほどではないが、昔飼っていたセキセイインコは強い風の日は室内にいても落ち着かなかった。強い風の恐怖にさらしたことはないはずだが、籠の掃除や餌の取り換え時にベランダに出して室外機の上に籠を置くと風が直接当たっていなくとも、風の音を聞いて止まり木の端っこに身を寄せていた。室内に戻してもしぱらくは警戒の姿勢を崩さなかった。
 若い頃登山をしていても、テントや小屋の中で強い風の音を聞いていると不安が昂じてきた。1日位の小屋やテントでの停滞は、それが確実に1日だけだと分かっていればそれほど気にならないが、大概は見通しがはっきりしないので、いっそう不運が増すものである。
 まして雨が降っていなくとも雷が聞こえたりするといっそう気分がくじけそうになった。たぶん今でも変わらないと思う。

 雨というのは、風が強くない限りそれほどの恐怖は感じない。特に都会の中にいると強い雨であっても風が無ければ警戒心が湧かない。静かな一日として家籠りのこのましい口実にしてのんびりとしてしまう。私が50年近く高台の団地住まいで、がけ崩れや水害などとほとんど無縁な場所にいるために、仕事でそのような場面にずっと出くわしてきたにもかかわらず、退職するとあっという間に雨に対する警戒感がうすまってしまうのかもしれない。

 人間、自然に対する畏怖心というか、警戒の気持ちが薄らぐととてもまずいと思う。どんな場合でもどこかで動物的なカンというのか、危険に対する瞬間的な身構えが出来るようにしておきたいと思う。