キリスト教の旧約聖書はとても理解が出来ない話が多い。私などにはとても理解できない神の行動や判断、あるいはそれに翻弄される人間の戸惑いや行動が克明に、そしてエロティックに、暴力的に・極めて残忍に描かれてきた。ここの部分はなかなか西洋の歴史や社会の内部にいないと理解できない。あるいはそのような「内部」にいても理解できない途惑いを描いているようにも思える。。
しかし一方で、神の存在による人間社会への強い規範にも拘わらず存在する人間相互の不信と悪意・裏切り・奸計‥、さらにそれにも翻弄される人々を、旧約聖書のエピソードを縁としてさまざまに描かれてきた。こちらは私から見れば、「人間社会一般」に普遍的なものとして共感できるものがたっぷりある。西洋の近代化が全地球的に普遍化し、ユーラシア大陸の東端の列島をも覆った現代の社会結果でもある。
こんなことを思いながら、芸術新潮6月号の「仁義なき聖書ものがたり-旧約聖書ヴァイオレンス・ガイド-」に目をとおした。
さらに付け加えるならば、旧約聖書の世界よりも新約聖書の世界はやはり身近である。
特集記事以外の記事に今晩は目をとおして就寝、の予定。