Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

突如として不思議な共鳴をしたブラームスとモランディ

2016年05月15日 23時10分58秒 | 読書
 本日の業務終了。後は友人2名に来週の予定のことでメールを送信してから就寝。どうやら本日中にお風呂に入れそうである。
 本日はブラームスのクラリネット三重奏曲を何回も聴いていた。まさかモランディと感覚的な親和性があるとは思わなかった。音楽と絵画、時々頭の中で共鳴し合うことがある。今回のようにテレビでの取り上げ方で私の頭の中で、突如として共鳴する、ということも昔何回かあったような既視的な体験であった。
 こういう時の思い、ひらめきというのは大切にしたいものである。

 明日は昼から退職者会の幹事会。たぶん夕刻まで目いっぱい慌ただしいと思われる。明日は帰宅後は休養タイムとしないといけないようだ。

手書きのビラの味わい

2016年05月15日 20時59分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会の全体に配布するニュース(A3版2頁)をつくったばかりだが、本日は同じ退職者会の私の属するブロックの会報(A4版2頁)を作成。つい先ほど出来上がった。これから75部ほどの印刷である。これはカラー版の手づくり。手づりとはいっても「一太郎」ですべて作成するので、昔のような手書きではない。
 手書きの新聞や会報が組合から無くなって多分20年は経つように思う。昔のビラを知っている方からは、手書きの味わいがなくなって寂しいという声もある。一方で現役の組合員の大半は、活字でないと読みづらいという。退職者の仲間もほとんどは活字支持である。
 編集の仕方によってはとても読みやすいものが出来上がる。そのような域に達したいものである。

日曜美術館「埃まで描いた男〜不思議な画家・モランディ〜」

2016年05月15日 18時01分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は「日曜美術館」を見た。「」という題であった。
 「ジョルジョ・モランディ-終わりなき変奏-」展は、東京ステーションギャラリーでの展示がおわり、現在岩手県立美術館で開催されている。残念ながら私は見損なってしまって、とても後悔していた。
 番組に登場した洋画家の入江観氏の語り口に私はとても好感が持てた。そして入江氏の次のような言葉が印象に残っている。

「セザンヌが交響曲ならば、モランディはピアノソナタのような美しさを持っている」
「うまさを自慢するそういうようなところがない非常にたどたどしい筆遣いで描いている」
「(見に)行く度になんか沈黙を求められるような感じがして‥」
「黙って向かい合っている時間の豊かさを感じた」
「モチーフと同化する、そこがセザンヌと違うところ」
「テーブルを舞台にしてドラマが起きるというのは全く同感」
「若い時に未来派や形而上派の運動に若干関わって、かなり影響を受けたと思うが、それに引きずられる事はなかった」
「(僕は)「付加価値のない絵描き」と言っているが、画家はいろんなエピソードがあってそれで世間に知られていくが、モランディはそういう付加価値は一切なく、小さな絵一枚一枚で知られてきた。その魅力は(付加価値を一切ない)力を一枚の絵が持っていたという事がモランディのすごさ」
⇒【http://o.x0.com/m/245422】より

 入江氏は「ピアノソナタ」と言っているが、室内楽と云い直していいと直感した。
 実は昨晩からブラームスのクラリネット三重奏曲を聴いているのだが、日曜美術館で入江観氏のこの言葉を聴いた瞬間にこの曲を思い浮かべた。ブラームスの最晩年の、孤独な独白のようなこの曲を聴いていると、モランディの色調や光の静かな変容とダブってくる。
 ピアノがテーブルという舞台装置であるとすれば、クラリネットとチェロの語り合いを中心に曲が進んでいくと喩えることが相応しい。