Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

どうしても解せない対応

2016年05月21日 21時47分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 この記事は本日5月21日付の朝日新聞の夕刊である。このオレンジで囲った下の記事に注目してほしい。
 まず、「防衛相が抗議」という見出しがある。しかしその記事を読むと「言語道断で抗議する。綱紀粛正に務め、実効性のある具体的な再発防止策の徹底をお願いする」と記載されている。
 抗議する、と最初に延べ最後は「お願いする」である。これが本当の抗議なのだろうか。
 実はテレビのニュースでも中谷防衛相が「きつく抗議した」の次にやはり「お願いしたい」とアナウンサーが言ったのを「おかしなニュースだ」と記憶していた。それを確かめるべく先ほど新聞を見て愕然としたのだ。
 「きつく抗議」したのなら言葉の最後は「求める」である。
 この政府を代表して米軍の在沖米軍トップと会談した防衛相は本当に政府の代表なのか、あるいは国民の代表なのか。ここまで米軍にへりくだるというのはどういうことなのだろうか。
 しかも日本政府の代表たる防衛相がなぜアメリカの代表のアメリカ大使ではないのか?
 在日米軍のトップ(トップが調整官というのもよく理解できないが‥)ではなく「在沖米軍」なのか。そんなに日本政府の閣僚の地位は低いものなのか。交渉相手が違ってはいないか。在日米軍のトップが機構上ないのであれば、やはり大使への抗議が防衛相の役目ではないのか。
 私も労働組合の役員であった。当局が交渉ルールを間違えたり、交渉の最中に不適切な回答をした時には何回か抗議を行った。支部長が交渉に出ていくときは交渉相手の総責任者でなければならない。そして抗議の時は「抗議する」からはじまる私の言葉は「○○とすよう求める」である。「お願いする」と甘くみられる言動など断じて行ってはいけない、と先輩からきつく教わってきた。「お願いしたい」などというようでは組合員が怒るのは当然である。組合の立ち上げ直後は当局も交渉相手を多数派に比して私たちの組合には地位の低い管理職で対応しようとした。これに抗議しながら、多数派と対等の交渉相手を指名して、それを幾度か繰り返し多数派と対等の交渉を実現できた。対応の仕方によって相手は姿勢も、回答も変えてくる。国と国との交渉、初めから嘗められてはいけない。

 さらにこの記事の扱いにも私は首を傾げたい。この記事は社会面、いわゆる3面の下段である。政府の責任者が抗議に行ったのに1面ではない。これはマスコミも政府と同じように日米の上下関係を当たり前のように考えていると判断してもいいのだろうか。
 自国の国民に示しがつかないことをする政府を果たして批判できるマスコミなのだろうか。

 何度でも云いたい。
 殺人という犯罪に「政治日程から見てタイミングの良し悪し」があるなどと閣僚や国会議員がいったり、政治日程や自らの予定が優先する「政治家」の言動が、日本の政治のあまりの劣化と貧困、そして「安全保障のために沖縄に犠牲をしている」ことのうしろめたさをひとかけらも持たない政治思想の退廃が横たわっている。

学生時代の友人とのひととき

2016年05月21日 20時55分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の夜は、学生時代の友人たちと会談というか飲み会。熊本・大分の地震の資料をいくつか頂戴した。これの分析をやり切るだけの能力はないが、この資料をじっと見つめているとあっという間に時間が経ってしまうようだ。少なくとも一週間位は眺めて、いろいろと地震のメカニズムや被害の発生の要員や、今後の成り行き、付近の地質の構造などさまざまなことを想像できるような気がする。

 結論が出なくとも、あるいは間違っていたとしても、じっくりと地質図なり、さまざまの図面・資料を素人なりに見る、観察するということは頭の体操以上に、ものごとを考える・見極めるということにつながると思う。
 資料を提供してくれた友人に深く感謝である。
 18時から22時近くまで、さらにお互いの近況報告など楽しい時間をたっぷりと過ごすことが出来た。

 そのうちの一人とは本日の午後の講座でも一緒であった。

「沖縄を知る-歴史・文化・社会」第1回「辺野古の海・大浦湾で起こっていること」

2016年05月21日 17時09分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座は「辺野古の海・大浦湾で起こっていること」という題で、講師は作家の目取真俊氏。
 私も二度訪れた大浦湾や基地ゲート前などの座り込みやカヌー隊の抵抗のビデオを中心に、沖縄の今を語ってもらった。
 先日来、20歳の女性が惨殺されるという痛ましい事件が、軍属と称する元米兵によって起こされたと報道されている。
 政府の初動の対応、見解表明のあまりのひどさに私は愕然としている。首相は見解を求められ無言で立ち去る。閣僚からは「タイミング的にまずい」という発言が報道されている。
 殺人という犯罪に「タイミングの良し悪し」があり、政治日程や自らの予定が優先する「政治家」の言動が、日本の政治のあまりの劣化と貧困と、「安全保障のために沖縄に犠牲をしている」ことのうしろめたさのひとかけらも持たない思想の退廃が横たわっている。
 この政治家の貧困、そして全地球的な力の支配の跋扈と蔓延にどう希望をつなげていくのか、「云うだけは簡単だが実際は別」という言葉こそが政治家の貧困と力の均衡論を支えている。

来週から「鮎川信夫と「荒地」」展

2016年05月21日 14時46分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 来週からは神奈川近代文学館で、「鮎川信夫と「荒地」展」が開催となる。北川透氏の記念講演「難路を歩む-鮎川信夫の詩が批評であること-」が6月11日に行われる。しかしこの日私は同じ時間の別の講座をすでに申し込んでしまっていた。残念である。
 展示とギャラリートークには参加したいものである。


「一〇〇年目に出会う 夏目漱石」

2016年05月21日 11時42分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 神奈川近文学館で開催している「一〇〇年目に出会う 夏目漱石」展を訪れた。会場はこの文学館では珍しいほどの混みようであった。観覧料の支払いは2~3人待ち程度だが、会場の中は展示物の前は切れ目なく人が並んでいる。ギャラリートークは会場内ではなく小ホールでスライドを使って説明が行われた。
 21日(土)、22日(日)で終了なので両日はかなりの人出が予想される。金曜日の内に見に行って多少はゆとりをもって見ることが出来たかも知れない。
 圧巻は「文学論」稿本。ツイッターで指摘・指摘してもらったが、漱石の手になる赤ペンでの推敲跡は印象深い。私は漱石の「文学論」は何度も挑戦したがいつも跳ね返されている。未だに理解ができず、途中で投げ出したままである。論理の展開をキチンとしようとしている執念を強く感じる。この「文学論」を完成させない限りは、漱石自身が次の一歩を踏み出せないという執念を強く感じた。
 いつか再度「文学論」に再挑戦したいものである。
 そして「吾輩は猫である」以降の初期の噴出するように書かれた初期作品群がこの「文学論」を発射台にして一挙に打ち上げられたようだ。しかし軌道になるやいなや、航跡は明治期という歪みの多い日本の近代と個人の厳しい相克により、難渋を強いられる。作家生活はわずか10年で病に倒れる。
 多くの人が、私も含めて夏目漱石という精神を通過している。
 開場には現代の高校生がそれぞれに漱石の作品を簡潔にイラストもちりばめた紹介をハガキ大の用紙に記したものが展示されていた。なかなかいい感性をしていると展示品以上にじっくりと眺めた。いい試みである。私が漱石作品から受けた感想よりもずっと優れた視点ばかりであったと思う。このように読み継がれるものなのかと感心した。

   

 漱石は西洋の音楽については作品の中ではあまり言及はないようだ。しかし寺田寅彦につれられた音楽会には出かけたようだ。私の記憶の範囲では「三四郎」では美禰子はヴァイオリンを弾き、「野分」「吾輩は猫である」で西洋音楽に触れてあった程度だろうか。
 しかし「神奈川近代文学館#132の半藤末利子氏の文章では、漱石は長女にヴァイオリン、ピアノを習わせている。また長女をつれて演奏会に出かけている。しかし残念ながら絵画ほどには興味をそそられなかったと私には思える。
 たしか漱石は謡を披露したらしいが、周囲の人はそれを聴くのがとてもつらかったらしい、というエピソードを聞いたことがある。



 そして絵画については多くの評論を残しているし、ラファエル前派の影響は大きいし、酒井抱一なども好きだったようだ。だが、藝大での「漱石の美術世界」展で見た漱石の描く画は残念ながら私の関心は惹かなかった。ただ今回「あかざと黒猫図」ともう一点(題を失念した)の水墨画はなかなかいいと思った。