昨日届いた「図書6月号」。読んだものは、以下の8編。
・表紙解説 「水滴の落下と跳ね返りの音」(伊知地国夫)
・「種子は希望」(楊 逸)
・「宇宙から呼び交わすカモメの声」(沼野充義)
・「藤野先生の「頓挫のある口調」について」(三宝政美)
・「食養生の文明と文化」(石毛直道)
・作家的覚書 「失われたもの」(高村薫)
・美術館散歩(6) 「伊藤若冲と草間彌生の水玉模様-魅力の背反感情」(三浦佳世)
・「こころ」論-語られざる「遺言」 「「私」は、いつ語り始めたのか」(若松英輔)
魯迅と若冲が論じられていて、びっくり。
「藤野先生の‥」は目からウロコ。藤野先生の教室で教える口調の形容詞の訳し方の変遷と訳者(増田渉、松枝茂夫、竹内好)の苦労の後を振り返り、原文直訳では「頓挫のある口調」「抑揚のひどい口調」となるらしいが、結論的には「間合いをとった口調」の意味であることを記している。
私は当時の仙台の学生からさげすまされたらしい他の東北地域の訛りの強い口調の意でとらえていた。たぶんそういうこともあるだろうが、日本語がまだ身についていない中国人留学生へも伝わるように「ゆっくりとわかりやすく間を取って」の口調であったという理解が正しいのかと合点した。そうすると最初の授業で「うしろの席の方で、数人の学生が笑い声をあげた」という文章もまた二重の意味を持ってくる。藤野先生の口調が普通の会話の言葉と違うことへの揶揄と、中国人留学生への配慮をすることと中国人留学生そのものへの揶揄という二重の嘲笑である。これがさらに幻灯事件などへの布石となる。小説の舞台としては最初の方、医学専門学校の授業の冒頭におかれたエピソードとして重要な設定であることが分かった。出展は記されていないが資料も細かにあたったと思われる記述である。これでまた私の魯迅の世界が広がったように感じた。
「美術館散歩」、伊藤若冲と草間彌生という比較にまずは驚いた。実は私は草間彌生の水玉模様にどうしても馴染めない。昔から生理的な拒否反応のような感情が先にたってしまい、どうしても目を背けてしまう。この論考では、草間弥生の水玉模様に不快感を抱く人と快感を抱く人、規則性を感ずる人、生命的に感じる人などがいることを示している。ようやくこのことが私にはやむを得ない事なのだということを教えてくれた。若冲の鶏の鶏冠などにも現われる水玉模様も私はそこだけを注視するとちょっと目をそらしたくなる衝動が湧いてくることがある。湧いてこない絵もある。これらは心理的な作用のほか、脳の働きとも関連付けられそうである。私の身に引き寄せて理解できたような気がした。
表紙解説は、高校生の物理の授業でしたたる水の落下について、振動という側面で観察することも出来るんだよと教えてくれた物理の先生の顔を思い出した。物理現象はひとつの視点だけではなく、複数の視点での観測、理解が大切ということを教えてくれた。魯迅ではないが、物理からすっかり離れてしまった私は、今でも時々その先生に「ゴメンナサイ」と思うことがある。