Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土星・火星・アンタレスの競演は断念

2016年05月31日 23時18分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 団地の南側の木の間に火星がかろうじて見えている。しかし薄く雲がかかっており、土星もアンタレスも残念ながら見ることが出来ない。3つの星の競演は残念ながらあきらめざるを得ないようだ。

 さて、明日から6月となる。今のところ3日までは予定が入っていない。明日は可能ならば遠出をしたいと思っている。何処にするかはこれから決める予定。


土星と接近した火星とのランデブー

2016年05月31日 21時56分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 先ほど団地の南側の空を見上げた。雲が無くなり火星(マイナス2等)を見ることができたが、横浜駅の明るい街の灯に邪魔されて、さそり座のアンタレスは見つけることかできなかった。土星はかろうじて肉眼で見え、双眼鏡の視野に入れることが出来た。アンタレスは肉眼でも双眼鏡でも見ることはできなかった。深夜にもう一度挑戦をしてみる予定。
 双眼鏡で見たからといっても土星も火星も点にしか見えない。中学生のころ小遣いを貯めて、親の援助とあわせて10センチの反射望遠鏡を購入して土星の輪と、木星の4大衛星を見た時の感激は忘れられない。今夜も双眼鏡で覗く土星には、頭の中では輪が見えている。

久しぶりに汗だくのウォーキング

2016年05月31日 19時49分34秒 | 山行・旅行・散策
 本日は午前中にブログの更新を行ったのち、いつもの内科と整形外科まで歩いた。天気もよさそうだし、腰の方も痛みが再発していないので、思い切って横浜駅から国道1号線を北上してみることにした。国道1号線というのは旧東海道とは違う。旧東海道は国道15号がほぼ並行して走っているのであるが、その西側を通って大手町で直角に曲がって日本橋手前で国道15号線と合流するらしい。
 その国道1号線を横浜駅から鶴見区東寺尾まで行って、そのまま引き返してきた。家を出てから二つの病院経由で東寺尾まで行き、帰宅したらほぼ2万4千歩。ウォーキングとして汗だくになって歩いたのは2時間15分で1万8千歩、ほど。1時間あたり5キロ程で歩いたようだ。
 くたびれたが、実に気持ちのいい汗をかくことが出来た。天気も良かった。
 このまま腰痛が再発しないで貰いたいものである。

 今のところ我が家からは南東の方角に雲がかかり、さそり座のアンタレスと土星と接近中の火星は見ることが出来ない。

岩波書店「図書6月号」

2016年05月31日 11時33分02秒 | 読書


 昨日届いた「図書6月号」。読んだものは、以下の8編。

・表紙解説 「水滴の落下と跳ね返りの音」(伊知地国夫)
・「種子は希望」(楊 逸)
・「宇宙から呼び交わすカモメの声」(沼野充義)
・「藤野先生の「頓挫のある口調」について」(三宝政美)
・「食養生の文明と文化」(石毛直道)
・作家的覚書 「失われたもの」(高村薫)
・美術館散歩(6) 「伊藤若冲と草間彌生の水玉模様-魅力の背反感情」(三浦佳世)
・「こころ」論-語られざる「遺言」 「「私」は、いつ語り始めたのか」(若松英輔)

 魯迅と若冲が論じられていて、びっくり。

 「藤野先生の‥」は目からウロコ。藤野先生の教室で教える口調の形容詞の訳し方の変遷と訳者(増田渉、松枝茂夫、竹内好)の苦労の後を振り返り、原文直訳では「頓挫のある口調」「抑揚のひどい口調」となるらしいが、結論的には「間合いをとった口調」の意味であることを記している。
 私は当時の仙台の学生からさげすまされたらしい他の東北地域の訛りの強い口調の意でとらえていた。たぶんそういうこともあるだろうが、日本語がまだ身についていない中国人留学生へも伝わるように「ゆっくりとわかりやすく間を取って」の口調であったという理解が正しいのかと合点した。そうすると最初の授業で「うしろの席の方で、数人の学生が笑い声をあげた」という文章もまた二重の意味を持ってくる。藤野先生の口調が普通の会話の言葉と違うことへの揶揄と、中国人留学生への配慮をすることと中国人留学生そのものへの揶揄という二重の嘲笑である。これがさらに幻灯事件などへの布石となる。小説の舞台としては最初の方、医学専門学校の授業の冒頭におかれたエピソードとして重要な設定であることが分かった。出展は記されていないが資料も細かにあたったと思われる記述である。これでまた私の魯迅の世界が広がったように感じた。

 「美術館散歩」、伊藤若冲と草間彌生という比較にまずは驚いた。実は私は草間彌生の水玉模様にどうしても馴染めない。昔から生理的な拒否反応のような感情が先にたってしまい、どうしても目を背けてしまう。この論考では、草間弥生の水玉模様に不快感を抱く人と快感を抱く人、規則性を感ずる人、生命的に感じる人などがいることを示している。ようやくこのことが私にはやむを得ない事なのだということを教えてくれた。若冲の鶏の鶏冠などにも現われる水玉模様も私はそこだけを注視するとちょっと目をそらしたくなる衝動が湧いてくることがある。湧いてこない絵もある。これらは心理的な作用のほか、脳の働きとも関連付けられそうである。私の身に引き寄せて理解できたような気がした。

 表紙解説は、高校生の物理の授業でしたたる水の落下について、振動という側面で観察することも出来るんだよと教えてくれた物理の先生の顔を思い出した。物理現象はひとつの視点だけではなく、複数の視点での観測、理解が大切ということを教えてくれた。魯迅ではないが、物理からすっかり離れてしまった私は、今でも時々その先生に「ゴメンナサイ」と思うことがある。