Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2016年05月08日 22時18分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ベートーベンのヴァイオリン協奏曲の幾度目かの聴き比べを昨日まで行った。さすがにちょっとお腹がいっぱいになった感じがする。



 ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴くことにした。しかしよく見たら昨日ベートーベンのヴァイオリン協奏曲のソリストであるシュロモ・ミンツのものしか私は持っていない。録音も1987年で同じ年である。指揮と演奏は違っていて、クラウディオ・アバド、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団となっている。
 私は何回も聴いているのはこのCDだけである。ただし幾度かはラジオやテレビで他のコンビの演奏を聞いてはいるが、比べて聴くほどの記憶はない。聴き比べというとCDなどを持ち合わせていないとできない。
 聴き比べをしないといけないのかと思うが、そういつもCDを購入することはできない。しかし好きなブラームスのヴァイオリン協奏曲だからもう一枚くらい購入することが許されるかな、と財布と相談してみるのもいいかもしれない。
 独奏者で選ぶとすると、私の好きなヨゼフ・スークか、アルテュール・グリュミオー、あるいはヘンリク・シェリンクだろうか。徳永二男の演奏もいいと思う。5月中にCD店で悩んでみることにしてみたい。
 このCDでもシュロモ・ミンツのヴァイオリンの音の美しさは十分に感じられる。オーケストラの演奏も好みである。特に第2楽章のヴァイオリンのすすり泣くような音色とそれを支え、対話するようなオーケストラとのやりとりは聴きどころであると思っている。この部分の演奏が他のコンビでどのように処理されているのか、楽しみである。

   

冨田勲氏が亡くなった

2016年05月08日 19時25分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝日新聞に以下の記事が掲載された。

 シンセサイザーを使った電子音楽の第一人者で、音響作家としても世界的に知られた作曲家の冨田勲さんが5日、慢性心不全のため東京都内の病院で亡くなった。84歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男勝さん。後日、お別れの会を開く予定。連絡先は日本コロムビア。
 32年東京生まれ。慶応大在学中、朝日新聞社主催の合唱コンクール課題曲に応募し、1位となったことがきっかけで作曲の道へ。NHK大河ドラマの第1回「花の生涯」のほか、「新日本紀行」「きょうの料理」のテーマ曲などを作曲。漫画家の手塚治虫からの信頼が厚く、「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などのアニメ主題歌も担当した。山田洋次監督「武士の一分」「母べえ」などの映画音楽にも貢献した。
 71年に渡米。米国で開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーを日本に紹介し、本格的な電子音楽の文化を広めた。74年、全パートの演奏と録音を一人で手がけたアルバム「月の光」を発表し、米音楽チャート誌のクラシック部門で1位に。その後も「展覧会の絵」「火の鳥」「惑星」といったクラシックの名曲を現代的な響きで「再創造」した。日本人では初めて米グラミー賞にノミネート。その後もたびたび候補になり、世界的な電子音楽制作者の地位を確立した。12年には宮沢賢治に想を得た「イーハトーヴ交響曲」を発表、ボーカロイドの初音ミクとオーケストラを共演させ、話題を集めた。
 03年に映画「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞最優秀音楽賞。07年には電子音楽への長年の功績を評価され、第1回エレクトロニクス・アーツ浜松賞が贈られた。11年度朝日賞、15年度の国際交流基金賞受賞。


 私もいくつかを聴いたが、最初に聞いたのは、「月の光」。この曲以外あまり縁がなかった。
⇒【https://www.youtube.com/watch?v=8ajSyyzIC_8

私の友人のツイッター上にこの曲が張られていた。耳に残っているのだが、冨田勲とは知らなかった。NHKの「新日本紀行」である。
⇒【https://twitter.com/cafeavant/status/729169052229197827

ついでに検索したら「今日の料理」も冨田勲の曲であった。いろいろな場面で氏の曲を耳にしていたことをあらためて実感した。
⇒【https://www.youtube.com/watch?v=iJXiuT2d45M

西洋美術館小企画展「描かれた夢解釈」

2016年05月08日 12時28分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日訪れた国立西洋美術館では小企画展「描かれた夢解釈-醒めて見るゆめ/眠ってみるうつつ」展をしていた。
 今回の展示のコンセプトについて、以下のように解説されている。

「目醒めているときには見られないような、偉大な理論と優品を、夢のなかでいかにしばしば見ることであろうか。だが、目醒めれば、その記憶は失われるのだ」(下村耕史訳)――ドイツ・ルネサンスを代表する画家、アルブレヒト・デューラーは、未完に終わった『絵画論』の草稿に、そう書き残しています。
「優れた画家の心は形象で充ちている」と記し、晩年には終末的な洪水の夢を見たことでも知られるデューラーは、人間の心内に蓄積された無数のイメージ記憶が、目醒めているときよりも眠っているときにこそ活発に動きだし、豊かな変容を遂げていくことを、20世紀におけるシュルレアリスムの台頭などより遥か以前、16世紀初頭の時点で、どうやら敏感に悟っていました。
こうしたデューラーの思考が物語るように、西欧の芸術家たちはルネサンス期以来、しばしば「夢」に対する関心を露わにしています。しかも、彼らはそれをただ言葉で論じるだけでなく、絵画や版画によって描きだしてもいました。それらは1900年にジークムント・フロイトが『夢解釈』を書くのに先立ってなされた、「描かれた夢解釈」とでも呼べる試みではなかったでしょうか。
当館の所蔵作品によって構成されるこの小企画展では、デューラーやジョルジョ・ギージ以降、フランシスコ・デ・ゴヤやマックス・クリンガー、フェリックス・ブラックモンやオディロン・ルドンといった近代画家たちまでの「夢」の表象を集め、さらには「メフィストフェレス」や「聖アントニウスの誘惑」といったテーマに光をあてることで、西欧における「眠り」や「夜」、無意識の「欲望」や「誘惑」のイメージに迫りたいと思います。」


 ルネサンス期やそれ以前の寓意画・風刺画などはよくわからないものばかりである。何が描かれているのか、描かれているものが何を象徴しているのか、背景の物語や教訓は何なのか、わからない。ときたま解説があるが、それもよく理解できないものばかりである。
 西洋の中世の世俗を引きづっていたルネサンス期や近代、しかしそこににいたる道筋の中で、次第に忘れ去れた中世的世界や世界観というものは、なかなか理解が至らないようだ。高校の教科書的な歴史把握ではとても手の届かない、光と闇が複雑に交錯している。
 同時にそれを外から取り巻いていたイスラム教的世界はさらに私などには手が届かないというのが正直なところである。
 国立西洋美術館を訪れるたびに、版画素描展示室で西洋の銅版画の世界を特集した展示が行われている。いつも足を踏み入れるのだが、よくわからないままに部屋を出てしまう。
 私は感覚的に絵画を見て「理解」するということがなかなかできない。邪道と云われようが、書き言葉での解説が無いと次の一歩が出てこない。つい書き言葉に頼ってしまう。
 時代も歴史もよく理解していないと「ふーん」で終わってしまう。細部までくまなく見つめたとしても、感動が伴わないからすぐに忘れてしまう。

〈オディロン・ルドン 《そして、あらゆる種類の恐ろしい動物達が現れる》 『聖アントワーヌの誘惑』第1集(1888)〉


 ただし今回はオディロン・ルドンの作品が多数展示されていて、少し嬉しかった。ルドンという画家、不思議な造形に多くの人が惹きつけられる。私もあのグロテスクな造形に親近感すら抱くことがある。

 このような作品世界の解釈などに足を踏み入れてしまうと、自分が収拾がつかないようになるのではないかという「怖れ」と「誘惑」が背後から迫って来る。特にルドンなどの魅力に触れるとその感を強くする。現在の私にはこの世界を語る資格はまるでない。しかしどこかで惹かれる自分がある。