夏目漱石は1916(T5)年12月9日に亡くなった。
夏目漱石の俳句や小説はずいぶん目を通した。どれほどのことを読み取ったか、読み解いたか、とても心もとない。ただ字面を追いかけただけの小説の方が多いかもしれない。分からないところも多くあったし、どうしてこんなことにこだわっているのか、という所はほとんど読み飛ばしている。それでも惹かれるものがあり、幾度も読んだ作品もたくさんある。
「倫敦塔」「吾輩は猫である」「草枕」「野分」「三四郎」「二百十日」「心」「行人」「虞美人草」「硝子戸の中」「夢十夜」等々、そして俳句の数々。「坊ちゃん」などはどうも好きになれない。
「文学論」「文学評論」は何回か挑戦したがその都度跳ね返されている。
「文展と芸術」も幾度も眼をとおした。美術作品に対して、とても辛辣である。感覚的な文章が並ぶので、理解できないことも多いが、とても惹きつけられる。わたしが坂本繁二郎展を高校3年のときに見てすっかり魅入られてしまったが、その時にこの評論を目にした。我が家にあった岩波文庫の「漱石全集」の新書版の全集で読んだ。1912(T元)年に開催された第6回文展の批評である。
この中で「
同じ奥行を有った画の一として自分は最後に坂本繁二郎氏の「うすれ日」を挙げたい。‥。荒涼たる背景に対して、自分は何の詩興をも催さない事を断言する。それでも此画には奥行があるのである。そうして其奥行は凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立っている態度からでるのである。牛は沈んでいる。もっと鋭く云えば、何か考えている。「うすれ日」の前に佇んで、少時此変な牛を眺めていると、自分もいつか此動物に釣り込まれる。さうして考えたくなる。若し考えないで永く此画の前に立っているものがあったら、夫は牛の気分に感じないものである」と記している。
辛辣な漱石が、私が気に入った作品を評価していることがとても嬉しかった。一年間くらいこの作品だけを何回も眼をとおした。それ以来この批評家らは遠ざかっていたが、2013年に芸大美術館で「夏目漱石と美術世界」展を機に再度目をとおした。とても新鮮であった。このときの展覧会の感想は2013年の夏にブログにアップさせてももらった。
この新聞に連載された批評の最初は漱石の芸術や芸術家のあり方に触れているが、その厳しい姿勢もまた、とても勉強になる。
出だしは有名な「
芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」で始まる。
また「
自己を表現する苦しみは自己を鞭撻する苦しみである。乗り切るのも斃れるのも悉く自力のもたらす結果である。困憊して斃れるか、半産の不満を感ずるほかには、出来栄について最後の権威が自己にあるという信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。それが芸術家の強みである。即ち存在である。」
そして当時の文展(=官展)の在り方に強い憤りを浴びせかけている。権力と芸術、国家の芸術や文化に対する関与の在り方、さまざまに考えさせられる作品である。