「円山応挙-「写生」を超えて」展を先日訪れた。全体で3つの部屋に分かれて展示されている。
展示室1には「応挙画の精華」として、主な完成作品が並んでいる。
展示室2には「学習と写生の徴」として、様々な試みや写生図巻などが展示されている。
展示室5には「七難七福巻の世界」が全3巻が前期と後期に分かれ展開されている。
左隻
右隻
今回は目当てのひとつ「雲龍図屏風」(個人蔵)についての感想。
この作品は以前から見たかったのだが、なかなか機会がなかった。解説では「迫力の点では海北友松に、奇抜さの点では曽我蕭白に及ばない。応挙の龍に、当目にも訴えかけるような濃墨の迫力や、劇画的なおどろおどろしさは無い。あるのは、圧倒的な存在感と視覚的なボリューム、そして肌触りのようなものさえ感じさせる龍と雲、それらによって完璧に充満した画面である」
海北友松「雲龍図」、曽我蕭白「雲龍図」はともに襖絵である。
海北友松「雲龍図」
曽我蕭白「雲龍図」
また「右隻の龍の胴の部分には目を見張る。丸太のような龍の体の肉の塊が、雲の中から描かれることで物理的にも立体化され、その効果が増大している」とも記されている。
私の第一印象は全体的に思ったよりも色が淡い、ということと同時に金泥が効果的に思えた。一方で左隻の雲の空間が少し散漫に思えた。たぶんそれは蕭白の雲龍図などのように空間を埋め尽くす画面を見慣れているためだと反省もした。
龍、雲、波、岩など見どころはたくさんある。
まず私がこだわったのは、どこからこの作品を鑑賞したらいいのか、ということ。多くの人が鑑賞している中で、自由な移動は難しいし、全体像を見渡すのは困難だった。まず左隻と右隻の真ん中で、作品から1mくらいのところで見た。襖絵と違って屏風のために右隻は山折りの右側、左隻の山折りの左側がほとんど見えない。ということは右隻の龍の頭がみえない。左隻の龍の頭が異様な力で迫って来る。しかし黒目の視線の方向とは合わない。
立ち位置を少しずつ右に移動し、右隻の一番右の岩のあたりを前にした。ようやく右隻の龍の視線と、左隻の龍の視線の交点に、取りあえずは立ったような気がした。この位置だと左隻はほとんど目に入らない。谷折りのこちらを向いている龍の顔がかろうじて遠望できる。
人混みの切れるのを気長に待って再度2匹の龍の黒目に注目してみた。すると左の龍は鑑賞者を見ているのではなく、真上の天をにらんでいるように見えた。さらに右隻の龍も鑑賞者など見ていないで、前方斜め上方、すなわち天を見ているとも思えてきた。
しかしよくよく見ると、両者の視線の方向がどうもはっきりしない。曖昧でないのか?と私の頭が混乱してきた。
琳派の風神雷神図のように両者の相互関係が鑑賞のポイントとはならないと思われた。この視線の問題は、引き続き私の宿題となっている。
波の形は60年後の発売された葛飾北斎の「神奈川沖裏浪」や「甲州石斑(かじか)沢」を思い浮かべた。この波は岩や龍の体にぶつかるエネルギーの感じさせるだけでなく、龍を包み込むように配置されている。特に右隻の波の配置は龍を下から抱え込んでいる。
岩の描きようは等伯の岩も思い浮かべたが、これだけが現実味のあるものに思える。龍の体のボリューム感との対比に私は惹かれた。
雲は龍の動きを促進するように渦をまいている。この雲の配置はとても効果的に思えた。
この雲龍図は、龍の奔走な螺旋状の動きに着目した作品であろう。この動きに着目したところはおおいに感じることが出来る。鑑賞者もその渦に巻き込まれるような立ち位置が発見できれば、面白いと思う。
鑑賞の仕方としては山折り、谷折りの関係で隠れてしまうという思いを初めて感じた。これまで屏風絵で感じたことのない不満であった。展示室の広さから少し角度をつけすぎているのかとも思ったが、私は一般的な屏風の角度を知らないので何とも言えない。
鑑賞の場所が近すぎたのかと思い、作品から5メートルほど離れだが、時間がたっても人の流れでどうしても全体を見ることが出来なかった。左隻の左部分の解釈がいまだにわからない。これも宿題である。
いろいろと宿題を抱えたまま図録を購入して帰宅した。図録を見ながらこの記事を書いているが、やはり残念ながらまだ宿題は宿題のまゝである。