Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は寒いようだ

2016年12月15日 23時29分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりに読みかけの本に目をとおすことが出来た。といっても30分に満たない時間であった。明日からはもう少し時間的なゆとりが出てくれると思う。

 しかしまだ他の方のブログを訪問してコメントを書くだけの精神的なゆとりは出てこない。

 フォーレの室内楽全集の第2集もじっくりと聴くことが出来た。さきほどもしるしたが、弦楽四重奏曲(作品120)はなかなか良かった。
 先ほど夜のウォーキングから帰ってきた。昨晩と同じく約6000歩ほどを40数分かけた。今夜も月がことのほか美しかった。傘を被っていたのが気になるが、明日の予報は晴れで、明け方に一時的に雲が多くなるらしいが、昼間は再び晴れるとのことでる。しかし横浜の最高気温の予報は9℃と10℃を割り込むらしい。
 

フォーレ「弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲」

2016年12月15日 21時57分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 フォーレ室内楽全集第2集の2枚目のCDにおさめられている「弦楽四重奏曲」(作品121)と「ピアノ三重奏曲」(作品120)を聴いている。作品121が1970年、作品120が1969年の録音。この2曲も私は初めて聴く曲である。
 作品120が1922~23年、作品121が1923~24年に作られている。作曲家が亡くなったのが1924年79歳であるから、2曲とも最晩年の曲である。特に作品121は9月に完成し、フォーレが息を引き取ったのが11月ということで、最後の曲であり、それこそ遺作のような作品であろう。
作品120は音の響きがとても厚みのある曲である。そしてフォーレらしく長いフレーズが続くが、飽きることなく続くという感じである。そして強弱のメリハリがしっかりしている。最晩年にこれらの曲を構想し、作り上げるという執念のような気力に感心するばかりである。特に第2、第3楽章の濃密な音の積み上げは幾度も聴きたいと思わせる。チェロの低音が私にはとても好ましい。
 作品121も同じような感想を持つ。死の間際ということなのでいっそうその気力に驚く。第3楽章の出だしのヴィオラの旋律は印象的である。

 私の好みでいえば、作品120は何回も聞きたい曲のひとつである。

本日の作業はここまで‥

2016年12月15日 20時50分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は講座。「心で感じる名画」の最終回である第5回目「もうひとつの感覚:心」(講師:中村宏美氏 美術Academy&School)。神奈川大学のエクステンション講座の今年最後の講座であった。
 午後からは組合の会館まで歩き、帰りは自宅まで歩いて帰ってきた。歩数はちょうど2万歩。3日間1万歩台だったので、久しぶりにたくさん歩いたという実感が湧いた。気温は低く寒かった。朝は出るのが遅くなり電車でみなとみらい駅までは電車。

 先ほどまでかかって新聞の編集作業を継続していた。退職者会の会員からのひとことは組合の書記の方が入力してくれているので、私はハガキとの突き合わせと、新聞の紙面への貼り付けのための編集で済むので楽ではあるが、200名近い人の割り付け作業は結構重い。しかし一応終了の目安が出来た。何とか20日の夕方までには印刷所に第1稿を送信できそうである。これで気分的にはずいぶんと楽になった。本日の作業はこれで終了。

 明日は夕刻から学生時代からの友人と東京駅近辺で忘年会。今年は少数になってしまったが、それぞれに仕事で未だ忙しいということは、悪いことではないと思っている。あと2~3年もすればみんな「することがなくなる」のではないだろうか。
 私が一番先に「することがなくなった」人間である。そういう点では「先輩面」できるかもしれない。

 明後日は神奈川県立近代美術館で行われている「松本竣介展」の関連の連続講演会の第5回目である。一応年内最後の講座である。もっとも21日に、寺島実郎氏の講演が予定されているが、参加できるかどうか今のところ確定していない。

またしても‥

2016年12月15日 02時05分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 松江沖での漁船転覆で1人死亡、8人不明という痛ましい事故の報道を聞いていると今度は、沖縄でのオスプレイの墜落事故が報じられた。

 着水だとか、不時着という語が正しいとは思えないような現場写真である。原型を失うほどの大きな破損があり、着水や不時着だとしても、かなりの高度かかなりのスピードで墜落したことには変わりはない。コントロールを失ったからあれだけの破損に至ったことは紛れもない事実だとおもう。ことばでいくら軽微を装ってもむなしいだけである。着水しようとした割には干潮でほとんど沿岸である。不時着にしては滑走できない個所である。

 そして四軍調整官なる軍人の記者会見の映像が写し出されていて、あの傲慢な態度には驚いた。日本に変わって防衛を担っているという自負があるのだろうが、他国での記者会見ではまず最初に真摯に謝罪するのが筋であろう。県民に対して謝罪の言葉は述べたらしい。だがその後の「操縦士は県民に被害を与えなかった。感謝されるべきであり、表彰ものだ…事故は遺憾だが、操縦士のすばらしい行動と、県民を危険にさらさないという判断については遺憾と思わない」の態度を容認する発言は、もしもその人が他国にいて、あるいは何らかの組織の責任者として部下が事故を起こした時にもあの態度と同じ態度をとるという表明になる。容認する人の人間性が問われると思う。
 百歩譲ったとしても「沖縄の人々に迷惑と不安をかけた。2度と起こさない努力をしたい。軍として、組織として謝罪したい。一方パイロットは回避の努力を懸命にしたと聞いているので、パイロットの故意や落ち度はないと信じてはいるが、そのことも含め原因究明に全力を挙げたい」ぐらいを、調査事実に基づいて、冷静に発言しなければ、次へは進まないはずだ。
 さらに私が不思議なのは、夜間に空中給油訓練が、このような人の居住地の傍で行われているということである。これは日本政府との合意したものなのか、合意なしで行われているということなのか。ここに踏み込んだ報道は今のところないように見える。

 日本政府は、また政治に携わる人間は、これほど馬鹿にされて何もできないならば政権の座から降りてもらうしかないし、政治家を辞めてもらうしかないと思う。
 同時にここまで傲慢に感情的になる人間が数万の軍隊のトップと聞いて驚くしかない。指揮を受ける組織にとっては悲劇以外の何物でもない。冷静さを失い感情的な人間の下では死ななくてもいい人間が戦闘員・非戦闘員の別なく死に追いやられる。軍人の真価は負け戦の時に出るそうである。軍人に限らずすべての組織人
社会人に当てはまるとは思う。事故もある意味「負の事態」である。敢えていわせてもらえば、米軍はあのような軍人を外さなければ強い米軍にはならない。あのような人間をトップにした米軍はもはや強い軍隊ではないと世界に宣言しているようなものである。