Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

加藤楸邨句集「火の記憶」から その4

2016年12月20日 22時18分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 引続き加藤楸邨の「火の記憶」からいくつかを引用してみる。

★ものいへば傷つくごとく冬の黙
★枯木に沿ふ焼夷弾道は見了んぬ
★鉄兜脱げば背に負ふ天の川
★黙ふかく冬の夜汽車を誰も聴く
 その夜、学校に泊まる、午後七時、B二九来週、胃痛し、裏手の海中に炸裂、高射砲音下苦痛に輾転
★地に伏せし身のまはりみな霜柱
 十二月二十七日、正午、七編隊五十数機侵入、折しも神田近江屋洋品店にあり、体当たり自爆機望見
★冬天の一火焔とぞなりて消ゆ

 命が粗末に扱われた戦争の最末期、ひとりの若い命は「冬天の一火焔」として「消える」。この一火焔にはどのような人生への執着があったのであろうか。何百万の命と、そして一人の若者の死。私たちはどのように拮抗できるのであろうか。

加藤楸邨句集「火の記憶」から その3

2016年12月20日 17時28分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 三月十六日、午前警報あり
★冴えかへるもののひとつに夜の鼻

 三月十七日、午後警報、義兄矢野徳三郎一家再度焼亡、無事訪ね来る
★木の芽だつ生きて逢とも言寡な

 三月二十日、一機侵入
★牡丹の芽萌えむとすなり見ておかむ

 三月三十日、西小山付近強制疎開、三月三十一日、一機侵入、四月一日晴、南西諸島激戦報、一機東京に入り投弾、四月四日払暁、空襲
★髪焦げて教へ子は来ぬ桃を抱き

 すでに3月の段階で、作者は空襲による被害をただ見ていることしかないことを否応なく知ることになっている。しかしただ「眺める」ことには終わらない。3句目の「見ておかむ」のように、すべてを意志的に「見」ようとしている。その強い意志も感じることもできる。人間の打ちのめされる面と、意志的な面、それはどちらも人間の側面である。

加藤楸邨句集「火の記憶」から その2

2016年12月20日 10時18分45秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 1944年秋から1945年夏までの句をおさめる。最後の4句から

 四月三十日、大編隊東京西北方に入る
★陽炎を負ひて家なき顔ばかり

 五月二十三日、夜大編隊侵入、母を金沢に疎開せしめ、上州に楚秋と訣れ、帰宅せし直後なり、わが家罹災
★火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 
五月二十四日、一夜弟を負ひ、長女道子、三男明雄を求めて火中彷徨 二句
★雲の峯八方焦土とはなりぬ
★明易き欅にしるす生死かな

 東京は1944年11月14日以降100回を超える空襲を受けたが、それを時系列に詠んだ句が並ぶ。加藤楸邨も自宅が罹災している。
 4句とも、情景を技法など凝らさず記しているという印象である。悪く言えば即物吟である。しかし私は東京が焦土と化し、人間の命も尊厳もすべてが奪われる状態の中で、なすすべもなく茫然としつつ、家族を抱えて生き抜くことにのみ放浪された人間の姿を見ることが出来るとおもう。
 そんな中で一見わかりやすい情景だけを詠んだ句に見えるが、二句目「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」はながなか劇的にも読める。庭の牡丹なのか、家の中に活けていた牡丹なのか、あるいはまきあがる炎そのものが牡丹に見えたのか、いづれかは判然としないが、家族の一切の思い出と歴史を体現していた家を焼夷弾による高熱の炎になめ尽くされる作者の、手の施しようがないことへの怒りや諦念を読み取ることが出来る。もやは人の力や意志は何らかの処置を施すことすら考えられない事態を前にした、人間の感情が露呈している。

 戦争が戦後70年で再び露出してきた、そんな政治の貧困を前にして、記した。