いよいよ明日は大晦日となった。
師走という一年の最後の月を指すことばであるが、実はこの意味ははっきりしないようだ。師が走る、と書くが「師」とは何かもはっきりしない。師が走ると解釈しても、御師、僧侶、学校の先生説もある。どれも違うようだ。
奈良時代の文書に十二月と書いて「しはす」と読みが記載してあるとのこと。多分当て字として「師走」となったといわれるらしい。
さらに「し」「果す」として、「仕事、一年の果て」という説もあるようだが、「し」にそのような意味を付与することは難しいのではないか、ということもいわれているらしい。
言葉ひとつ、しかも時間の区切りを表す当然のように使われている言葉でも、その起源はわからないものが氾濫している。だからこそ言葉は語感と歴史を大切に、丁寧に使いたいものでもある。
本日は昨日と同様「妻の従僕」として、近くのスーパーに出向いた。年末・年始に家の中に飾る花と、果物をいくつか購入して帰ってきた。重いものは無かったので、ただただ後ろからついて歩いた。
足の痛みはほとんど感じなかった。しかし違和感はついてまわっている。到底無理は出来そうもない。ただしこの分では元旦の初詣のお供、二日の親族との会食には杖がなくとも支障はないようだ。
二日に東京国立博物館での「初もうで」ということが決まっても対応できそうである。
明日、三が日の予定を決めることにした。
先ほどまで、「円山応挙」展から「藤花図屏風」その2」の記事を書いていたが、うまくまとまらない。だらだら書いても結論が出てこない。これでは明日中にアップすることが困難かもしれない。情けないものである。
師走という一年の最後の月を指すことばであるが、実はこの意味ははっきりしないようだ。師が走る、と書くが「師」とは何かもはっきりしない。師が走ると解釈しても、御師、僧侶、学校の先生説もある。どれも違うようだ。
奈良時代の文書に十二月と書いて「しはす」と読みが記載してあるとのこと。多分当て字として「師走」となったといわれるらしい。
さらに「し」「果す」として、「仕事、一年の果て」という説もあるようだが、「し」にそのような意味を付与することは難しいのではないか、ということもいわれているらしい。
言葉ひとつ、しかも時間の区切りを表す当然のように使われている言葉でも、その起源はわからないものが氾濫している。だからこそ言葉は語感と歴史を大切に、丁寧に使いたいものでもある。
本日は昨日と同様「妻の従僕」として、近くのスーパーに出向いた。年末・年始に家の中に飾る花と、果物をいくつか購入して帰ってきた。重いものは無かったので、ただただ後ろからついて歩いた。
足の痛みはほとんど感じなかった。しかし違和感はついてまわっている。到底無理は出来そうもない。ただしこの分では元旦の初詣のお供、二日の親族との会食には杖がなくとも支障はないようだ。
二日に東京国立博物館での「初もうで」ということが決まっても対応できそうである。
明日、三が日の予定を決めることにした。
先ほどまで、「円山応挙」展から「藤花図屏風」その2」の記事を書いていたが、うまくまとまらない。だらだら書いても結論が出てこない。これでは明日中にアップすることが困難かもしれない。情けないものである。