Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「従僕」のまとまらない1日

2016年12月30日 21時07分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いよいよ明日は大晦日となった。
 師走という一年の最後の月を指すことばであるが、実はこの意味ははっきりしないようだ。師が走る、と書くが「師」とは何かもはっきりしない。師が走ると解釈しても、御師、僧侶、学校の先生説もある。どれも違うようだ。
 奈良時代の文書に十二月と書いて「しはす」と読みが記載してあるとのこと。多分当て字として「師走」となったといわれるらしい。
 さらに「し」「果す」として、「仕事、一年の果て」という説もあるようだが、「し」にそのような意味を付与することは難しいのではないか、ということもいわれているらしい。

 言葉ひとつ、しかも時間の区切りを表す当然のように使われている言葉でも、その起源はわからないものが氾濫している。だからこそ言葉は語感と歴史を大切に、丁寧に使いたいものでもある。

 本日は昨日と同様「妻の従僕」として、近くのスーパーに出向いた。年末・年始に家の中に飾る花と、果物をいくつか購入して帰ってきた。重いものは無かったので、ただただ後ろからついて歩いた。
 足の痛みはほとんど感じなかった。しかし違和感はついてまわっている。到底無理は出来そうもない。ただしこの分では元旦の初詣のお供、二日の親族との会食には杖がなくとも支障はないようだ。
 二日に東京国立博物館での「初もうで」ということが決まっても対応できそうである。
 明日、三が日の予定を決めることにした。

 先ほどまで、「円山応挙」展から「藤花図屏風」その2」の記事を書いていたが、うまくまとまらない。だらだら書いても結論が出てこない。これでは明日中にアップすることが困難かもしれない。情けないものである。


フォーレ「チェロソナタ#1、#2、エレジー」

2016年12月30日 16時47分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 この2曲のチェロソナタはフォーレの晩年、72歳の1917年と76歳の1921年に作られている。共に私は初めて耳にした曲である。
 また同時におさめられている「エレジー」は作品番号の24から推定すると、フォーレの35歳の1880年というから初期の作品である。
 私はこのエレジーと第2番の第2楽章がとりわけ気に入った。エレジーを聴いた時は初期の作品とは思えなかった。そしてよく似た第2楽章はそれによく似ていた。調べてみると第2番の第2楽章はナポレオン1世没後100年記念式典のためのフォーレ自身の「葬送歌」の編曲ということになっている。政府の委嘱作品らしいが、フォーレの音楽の方向との違いから悩んだらしいが、しかしこの第2楽章はチェロとピアノのソナタというよりもチェロの独奏曲といってもいいほどチェロの独り舞台である。葬送曲よりも哀歌、エレジーといっていい。
 第1番のチェロソナタよりも第2番の方が演奏の機会が多いというが、この第2楽章の魅力にはまる人もおおいような気がする。

 これまでのフォーレの室内楽曲と同様、ピアノはジャン・ユボー、チェロはポール・トルトゥリエで、録音が1962年となっている。ドビュッシーのチェロソナタも収録されている。

円山応挙展から「藤花図屏風」 その1

2016年12月30日 12時23分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
<左隻>  <右隻> 

 最初の展示室1で人の間からこの作品を覗き見て、あまり目立たない地味な絵に見えた。今年に入って鈴木其一の鮮やかな画面にすっかり目を奪われていた私には、不鮮明な作品に見えてしまった。劣化なのかなとも思ったりしながら、この大きな作品の前を幾度か行ったり来たりした。暗い室内で蝋燭の火のもとでこの作品を見たらどのようになるのか、興味のあるところである。
 初めて目にしたこの作品を前にして感じたのは、
・どうして左隻の藤は根元から描いているのに、右隻は根元が見えないのか
・どうして左右共に上部が断ち切られているのか
・どうして幹はうすく描かれ、葉と花は大祭ながらも鮮やかに描かれているのか
・どうして右隻の蔓は重力に反してあのような格好に描かれなければならなかったのか
・どうして紫の花ばかりで、赤紫の花は描かれなかったのか
この5つの「どうして?」は、会場では結局わからなかった。
 帰宅後、
・其一の「藤花図」とどこが違うのか
ということも感じた。

 藤の根元については左右の藤に前後の遠近を表しているのだろうと予想したが、左隻の下部に緊張感がなくなりるマイナスの効果の方が大きいのではないかと今でも感じる。
 藤の上部についてはそれが伝統的な描き方らしい、という指摘を友人にされた。しかし応挙という人、そんなに伝統にしばられていたのだろうかという疑問は今も解けないでいる。図録の解説には「やまと絵や琳派の前史を抜きに、「藤花図屏風」は成り立たない」と記載がある。屏風絵という伝統的な作品世界ではそれらから離れることはなかなか大変なことだったのかもしれない。
 幹がうすく描かれているのは、幹よりも葉と花と蔓に作者の興味が無かったのではなく、濃く描くと葉や花や蔓が目立たなくなってしまうと思えた。同時に、幹の勢い、複雑で躍動感のある形体を強調するとそれが主題の作品になってしまう、とも思った。そこらへんでとりあ絵図納得しておきながら、宿題でもある。
 そして左隻の蔓の妻は、それこそ応挙の表現の根幹だったと感じた。幹の生命力は幹や枝がのたうち回るようにしていても基本は下から上への指向である。蔓の生命力は上から下へのベクトルだけでなく、鎌首をもたげるような上昇の方向も併せ持つ。
 右隻の左側2枚に描かれた蔓は風もないのに左に流れている。あたかも左隻をめざすように。そして先端に近いところから緑の葉が伸び始めている。この小さな翠の葉の芽吹きがこの作品の眼目のような気がしてきた。この蔓は左隻の右側に伸びている幹をめざしているようにすら見える。さらにうすい墨の線で勢いよく描かれている。蔓の生命力を描くのに筆の勢いも使っているということなのだろう。確かにけれんみのない線である。
 最後の赤紫の花をなぜ描かなかったのか、については結局未だにわからない。あるいは意味のない疑問なのかもしれない。
 解説によるとは藤の花、葉の描き方は大変手の込んだ方法が取られているようだ。