Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

風と雨がひどくなる・・・竜巻注意情報も

2016年12月22日 23時31分35秒 | 天気と自然災害
 横浜ではますます風が強くなり、21時ころから雨が降り始めた。雨の区域は静岡県から神奈川県にかけて広く覆っている。すぐには晴れそうもない。
 セキセイインコも画の音や南側の硝子戸が揺れる音で不安なのであろうか。いつもよりは落ち着きがないようだ。22時になったところでいつものとおり、騒がしく羽をバタバタし始めたので、籠の周りにとんだ羽や餌の殻を掃除機できれいにしてから大きな風呂敷をかぶせた。いつもはこれで静かになるのだが、本日はときどきまだ動き回っている。風がやはり気になるようだ。

 雨の音や、号棟の屋根に降る雨を集めた排水管を流れる音は、風の音に消されてあまり聞こえない。ベランダの硝子戸をあけると勢いよく風が飛び込んできた。ベランダもすっかり雨が吹き込んで濡れている。植木鉢を再度置き直して、固定した。

22時には神奈川県に竜巻注意情報も配信された。

「若冲」(澁澤龍彦編)

2016年12月22日 21時32分27秒 | 読書
   

 昨日読み終えた本は「若冲」(澁澤龍彦編、河出文庫)を読み終わった。この中では「日本の装飾主義とマニエリスム」(澁澤龍彦)、「伊藤若冲-物好きの集合論」(種村季弘)、「博物誌としての花鳥図 伊藤若冲の針穴写真機」(種村季弘)がいろいろな点で参考になった。種村季弘の「伊藤若冲」は、先に読んだ田中優子の「江戸の想像力」と比べながら再度じっくりと読んでみたい。
 学生時代、種村季弘や渋沢龍彦の文章は読みこなせなかった。幾度も挑戦をしてその度に押し戻されていた。歳を取ったのか、今回はときどきつっかえながらもそんなに難しいとは思わずに最後まで読み終わることが出来た。一応進歩したということにしておこう。


横浜には強風・波浪・雷注意報

2016年12月22日 20時39分46秒 | 天気と自然災害
 横浜では強い風が終日吹いている。時々さらに強い風が唸り声をあげて吹く。台風の時のような音がする。南風なのでベランダ側の硝子戸が時々ミシミシという。雨は午前中に降っただけである。
 しかし先ほどレインアイよこはまで確かめたところ、強い雨の区域が伊豆半島を超えようとしている。まもなく降り出す気配である。
 糸魚川市の火事、そして東海道新幹線を止めた平塚の沿線火災と火事のニュースが飛び込んできた。糸魚川市の140棟の火災というものも驚いた。

 私はといえば休養日ということで、しかも強い風がおさまりそうもないので、午後までグズグスとしていた。しかし家でゴロゴロしていて頭がすっきりしないので思い切って横浜駅まで歩いてみた。風は強かったものの暑いくらいの気温でビックリ。
 横浜では風速19.1m、気温20.3℃となったらしい。横浜駅で家電量販店や書店を見て歩いて帰ってきた。途中眼科医により緑内障の点眼薬を処方してもらった。
これから雨の区域が迫って来るようである。夜のウォーキングは諦めた方がよさそうである。 明日は年賀状の図案作成と部屋の掃除を少しだけは手を付けてみようと決意をしているが、果たして気力が湧いてくるであろうか。
 風はこれからもっとひどくなるとの予報となっている。風の音が少しばかり気にかかる。人を不安な気持ちにさせる風の音である。
 またこの年末になって台風26号が発生してフィリピンに向かっているという。

 部屋の掃除をスムーズにするために片付けなくてはいけないことが少しばかりある。本日はそれをこなして早めに寝てしまおうと思う。

横浜では突然の雨と風

2016年12月22日 12時51分22秒 | 天気と自然災害
 1時間ほど前にわが団地のあたりは突然の強い雨と強い南風。30分ほどで上がったが、ベランダのいくつかの不安定な鉢が倒れ、鳥よけの透明のビニール傘が風で煽られてベランダで転がった。慌てて片付け、洗濯物を取り込んだ。夜から雨が降るという予報だったのでとても驚い。
 横浜市内では時間換算雨量が50ミリの区域も北上していったところがあるようだ。
 現在はわずかな雲の切れ目から太陽が顔を出しているが、それでも全天がほぼ雲に覆われている。

 本日は休養日&休肝日。

加藤楸邨句集「野哭」から

2016年12月22日 11時34分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「野哭」は次の言葉書きと作品からはじまる。戦争末期の東京で空襲の恐怖におびえながら「火の記憶」という句集を上梓した加藤楸邨は、戦後すぐに句集「野哭」を上梓する。その最初に位置する「流離抄」は1945年5月から1946年7月までをおさめる。1945年5月からと記されているが、最初の句を見る限り8月15日以降の句が並んでいる。

 この書を
 今は亡き友に捧げる
★火の中に死なざりしかば野分満つ

 句集の始めの5句を並べてみると、
★一本の鶏頭燃えて戦終る
★富士の紺すでに八方露に伏す
★わが家なき露の大地ぞよこたはる
★かくかそけく羽蟻死にゆき人飢えき
★飢せまる日もかぎりなき帰燕かな

 暦の上では秋となる時節、東京で家も焼かれた作者には、焼け野原となった東京は富士にひれ伏したような古代の武蔵野の情景に見えたのかもしれない。羽蟻のように死んでいった人々と、残されたものは生き残った者の安堵。しかし生き残った作者の家族も周囲の人々も、戦時中と同様焼け野原で飢えている。燕も飢えているのか南国へ去ってしまう。まだくすぶり続ける焔のように一本の鶏頭の赤が焼け野原に根付いている。それは救いと希望に変化するのか、生への意志となり得るのか。

 さまざまな想念がこれらの句にこめられているようだ。空襲の日々をつづった「火の記憶」には詞書が執拗に、過剰にと思われるくらい添えられていた。たぶん俳句という表現の限界を超えるような事態を前にした精一杯の試みだったのではないか。例えば「冬天の一火焔となりて消ゆ」などは「体当たり自爆機望見」という詞書がなければそれだけでは意味が通じることはなく成立しない句である。この詞書によって私たちの胸を打つ句となる。
 しかしもう戦のない世界に戻るやいなや言葉書きに頼らない句が並ぶのは象徴的である。戦後の俳句の言葉の豊饒さを求めてさまざまに開花し、そして消えていった多くの試みを予見するような句に私には思える。