Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ブラームス」三昧

2020年04月30日 22時50分32秒 | 読書

 夜は、引続き「ブラームス」(吉田秀和、河出文庫)を読んでいる。吉田秀和独特の飛躍と断定は、ついていくのは難しいが、このような独特の飛躍と断定は好みである。
 楽譜を元に楽典を読むような分析からひょいと飛躍して、言葉が自由に飛翔し始める。この飛翔がある地点まで行くと、再び楽譜の分析に戻る。この行きつ戻りつが魅力である。

「‥dis-fis-aとh-dis-fisの二つの和音しかなく、これが3回交代して、終止となる。この手法も完全に印象派であって、古くて、しかもまったく新しい響きの音楽をつくるところの、正真正銘のブラームスが、ここにいるわけである。ブラームスは保守的だったが、反動的では、全くなかった。彼は、古い音楽を熱愛したが、それは、彼には、新しいものより新しく響いたのだった。」

 音楽の構成の解説と、芸術評論が混在しているところに読みごたえを感じている。一昨年入院中に「セザンヌ」を読んだが、やはり同じような論調である。

 明日は、久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲を聴いてみたい。


横浜駅界隈のウォッチング

2020年04月30日 19時42分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 4月最後の日、天気も上々。

 午後から長時間人通りの少ない道を歩いてみた。昨日3人でお茶を飲んだ広い公園は子ども、それも本日は高学年の小学生、中学生が多く遊んでいた。
 広い道の裏道は、ベビーカーを押した若い夫婦や、小さな子どもの遊び場になっており、オジサンが通り抜けるのは気がひけた。そのような道を避けて国造沿いの歩道を歩いた。広い歩道はかえって人通りが少なく、歩きやすいし、人との間隔も十分取れた。

 昨日に買いものに出向いた駅の近くまで行ってから折り返し、横浜駅まで歩いた。横浜駅の地下街には入らずに地上から周辺のビル街を観察してみた。ほとんどのオフィスは休みのようで、電気の点いている窓は少なかった。喫茶店も食堂も休業の張り紙。営業している喫茶店も「テイクオフのみ」などとなっている。
 オフィスビルに店舗を構えているコンビニはほとんど人は入っておらず、店員のほうが多い。連休中は店を開けているだけで、売り上げはほとんど望めないと思われる。
 連休前に営業を再開した家電量販店は、入店者の入場をかなり厳しく制限しているようで、店の前に並ぶ人もなく、来店者自体がほとんどいなかった。地下街には入らなかったので、スーパーや食材の安売り店の状況までは観察しなかった。また横浜駅東口の様子も見て回ることはしなかった。

 銀行など金融機関では、近くの私鉄の駅のそばのATMコーナーは混雑して人が幾重にも並んでいた。しかし、横浜駅前の各支店やATMコーナーは閑散としていた。

 大きなビルの公開空地のベンチに、まばらに座っているサラリーマンが思い思いにコーヒータイムであろうか、心地よい風に吹かれていた。出勤者がいかにも少ないようであった。
 コンビニで108円のコーヒーを購入、喉を潤してからすぐにまた家まで歩いた。途中ドラッグストアを4店ほど見て回ったけれど、アルコール消毒液はどこも置いてなかった。

 肘までのシャツとベストで歩いたにもかかわらず、汗をだいぶかいた。


春惜しむ、惜春

2020年04月30日 13時13分27秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★先人は必死に春を惜しみけり      相生垣瓜人
★惜春のサンドバッグにあずける背    夏井いつき

 間もなく立夏、今年は5月5日である。暖冬、寒暖の激しかった春、さて今年の夏は.どのような夏になるのか。新型コロナウイルスに振り回される日々が続くのは間違いなさそうである。
 第1句、今年の春はウイルスに振り回せされながら必死にいろいろなことをこなしてきた。「必至」はこのような「必至」ではない。多分俳句の席題で「惜春」「春惜しむ」が出されて必死に「春を惜しむ」気分を反芻しながら、季節感を思い出し、そして句に仕立て上げようとしている作者を思いうかべた。
 先人もこうやって苦労したのかという感慨と同時に、どこか虚しい努力ということを感じているのではないか。「ためにする季節感」「実感を伴わない季節感」の構築で俳句の優劣が決まることへの違和感もある。「先人も」ではなく「先人は」というのが、作者の新たな決意ではないのだろうか。どこか大切なものを失った現在の俳句への異議申し立てが潜んでいると理解した。
 以上の解釈ならば「春惜しむ」の季語は他のどんな季語でも置き換えが可能になる。「梅雨を楽しめり」でも「虫を聞き分ける」でもいい。だが、「春を惜しみけり」でなくてはならない。それは春の息吹が生命のかがやく展開に変わる瞬間を全身で受け止めようとする決意を詠み込んでいるからだろう。いろいろなことを読み取れる句ではないだろうか。

 第2句、若い肉体の躍動を感じる、しかしこの躍動の期間は短い。見事な成果が約束はされていそうなエネルギーを見ると同時に、その一瞬の輝きのあとの衰弱もまた見えないか。練習の合間に身をサンドバックに寄せたときのほんの一瞬の隙、そこに肉体の躍動の危うさを感じ取っている。「惜春」が意味深である。

 出かけているときに、第1句に別の解釈がありそうだと思った。
 「「先人」は季節の推移にとても敏感だった。今の我々は季節の移ろいにあまりに鈍感になっていないか、季節感を大事にした生活をしていないのではないか」あるいは「現代は、都市化が進み、季節感が希薄になりつつある。もっと季節感を生活に密着したものとして作り直すべきではないのか」」という問いかけを読み取ることもできる。
 歩きながら考えたが、この解釈では少々訓戒めいている。胡散臭いお説教になってしまう。そんな風にも思える。
 果たしてどう解釈したらいいのだろうか。分からなくなってきた。