Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日曜美術館で「奈良原一高」

2020年04月05日 23時27分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 世田谷美術館にて昨年11月23日~今年1月26日まで「奈良原一高のスペイン 約束の旅」を開催していた。1月に入ってから見に行きたいと思ってはいたが、白内障の手術や、始めてしまった本の処分の作業に追われているうちに行きそびれてしまった。
 そして会期末を待たずに1月19日、奈良原一高は心不全のため88歳で亡くなった。
 「美術展ナビ」の情報では、次のように紹介されていた。

 1962~65年のヨーロッパへの旅から生まれたシリーズ「スペイン 偉大なる午後」から120点、「ヨーロッパ・静止した時間」から15点を選び、関連資料と合わせて展示している。「祭り」「町から村へ」「闘牛」をテーマにしたスペインの熱情あふれる世界と、パリ、ヴェネチアなどを写した静寂を感じさせる街の情景が並ぶ。奈良原さんは近年、療養中だったが、開幕後に家族と会場を訪れたという。

と記されている。

 本日録画を見たのはその展覧会の会期中に放送された「写真家・奈良原一高~魂の故郷を探し求めて~」の再々放送である。番組の案内には以下のように記述されている。

【ゲスト】島根県立美術館学芸員…蔦谷典子,詩人…文月悠光,
【出演】美輪明宏,写真史家…金子隆一,東京国立近代美術館研究員…増田玲,世田谷美術館学芸員…塚田美紀,
【司会】小野正嗣,柴田祐規子
【詳細】奈良原一高は、報道とは一線を画した独自の世界観で、写真を芸術に高めたとされる。炭鉱の島、修道院、刑務所、そして世界の果て。世間から隔絶された環境に生きる人々の姿を描いた奈良原を駆り立てたものは何だったのか。同時代を生きた者としてその写真に共感するという、美輪明宏が、奈良原の魅力に迫る。

 敗戦を13歳で迎えた奈良原が、それまで教えられた軍国思想などが否定され、生きる上での思想のハシゴを外されている。その空虚を埋めるように新しい表現を求めて彷徨したことが番組では匂わされていた。

 初期の長崎の軍艦島、北海道の修道院、和歌山県の刑務所での作品は、以前にどこかで見たと思う。特に軍艦島の地で撮影した作品には印象に残っている。人の確かな存在と、人は写っていないが色濃く人の気配を感じさせる作品に、人間のつくる社会というものが背後に「廃墟」を背負っている、というメッセージを私は得た記憶がある。
 しかしファッションやアポロの発射場に向けられた視線には違和感を持ち続けた。スペインでの作品は見る機会はないままだった。
 本日の放送で垣間見たスペインでの作品ではやはり人間の歴史の連続性と、ちょっとしたはずみでその歴史を動かした思想が「廃墟」に転化してしまう脆さを内包している、という初期の作品からの印象は1960年代のスペインを訪れても持続していることに気がついた。
 1960年代、70年代の私は団塊の世代の社会体験の追体験を求めつつ、結果としては自分自身の空虚さを嫌というほど味わい、その空虚を埋める作業を細々と続けてきたと思っている。奈良原一高は、そんな自分と重ね合わせながら作品を追ってみたい表現者の一人である。

 1970年代以降の作品については、まだまだ私は感想を述べるほど見ていないので、述べることは残念ながらできない。
 


本日はテレビを長時間‥

2020年04月05日 21時38分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 多くの友人が外に出ることを控えている。私も本日は近くのコンビニに牛乳を購入しに出かけただけで一日が終わった。午前中は日曜美術館と「明日へ つなげよう 証言記録「災害を生き抜くレシピ~知られざる栄養士の闘い~」」、午後には「中国王朝 英雄たちの伝説「権力者の素顔 史上唯一の女帝・則天武后」を見ていたらいつの間にか夕方になっていた。
 本当は読書タイムを、と思っていたのだが、気がつけば読書は加藤楸邨の俳句集を捲っただけであった。
 これより録画した先週の日曜美術館の再放送「写真家・奈良原一高~魂の故郷を探し求めて~」を見る予定。
 明日は読書タイムをキチンと取りたい。 


「野哭」(加藤楸邨)から 3

2020年04月05日 15時58分30秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 「野哭」の初めに置かれた「流離抄」(1945.5~1946.7)の後半は、敗戦後の飢餓の状況を踏まえた句が連なる。

★鼠等も飢ゑてしたしき春の闇
★苺くふねがひも過ぎぬ土乾く
★一椀の藜(あかざ)の粥にかへりきぬ
★蟇の目に見られてゐしや飢餓地獄
★蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ
★童顔の汗の奥より狐の目

 第1句、見ればぞっとする鼠も人間同様痩せているのを見て「お前もか」という心境か。第2句、多分子の願いをかなえられないことに対する自分自身へ悔しい思いだろうか。第4句、蟇蛙から憐れみの視線を感じたとしたらさびしい。この蟇蛙、周囲の人間かもしれない。第6句、飢餓は人に猜疑心や妬みやずる賢さをももたらす。小さな子どもの表情にそれを感じ取ったのだろう。今の状態に追い込んだ為政者や大人の社会への怒りを私は受けとった。

 「流離抄」後半は、前半のような緊張感とは違う緊張感がただよう。その違いは私にはうまく解けないところがある。体験がないことによる想像力の欠如かもしれない。
 敗戦直前の空襲体験から敗戦直後の直截に生死の境を突き付けられた緊張から、真綿で首を絞められるような日々の飢餓状態という連続した危機。そして周囲の人々の振舞いによって、人間不信につながる否定的な面を突き付けられるような状態が続いたのだろう。
 緊張から精神の危機へ、という言葉が思い浮かんだ。
 


横浜市民病院のコロナウィルス感染 3

2020年04月05日 12時30分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日の神奈川新聞の報道は、昨晩そのまま掲載させてもらった。そこで「市役所での会見で同病院幹部は『危機感が足りていなかった』と陳謝した」という一文がとても引っ掛かっている。

 これは記事の曖昧な記述に起因している。「危機感が足りていなかった」というのは、病院の管理者側の体制のことを言っているのか、それとも「医療住樹脂やの自覚が足りなかった」といっているのか、という点が曖昧である。

 記者会見があったのであるから、当然にも経過などが記された「記者発表資料」があるはずである。しかしいまだに市民病院のHPにはアップされていない。2日の「記者発表資料」がアップされているだけである。
 これを見れば病院管理者が具体的に「危機感が足りていなかったか」記述されているはずである。記述されていなければ記者はきちんと質問なりをしなくてはいけないはずである。
 ことは重大な局面を蘆変えている感染症である。土・日にかかわらず発表は丁寧にしなくてはいけないはずだ。
 今の国の体質のように、第一線の末端職員に「責任を押し付ける」体質に横浜市も染まってしまったのかと考えたくはないが、危惧している。

 第一線で働くのは医師・看護師・理学療法師・検査技師・薬剤師・栄養師・調理師等々のスタッフ、事務職員、また今は当然のようになってしまったが会計や受付などの派遣のスタッフ等々である。さらには大切な医療器具や薬の納入業者なども含めるとその数は膨大である。
 さまざまな人が、医療行為というストレスのたまる厳しい職場で業務をこなしている。特に今はきびしい職場環境であると思われる。彼ら全てに「自覚が足りない」といって責任を転化してしまっては、管理者としての責任回避である。管理者としての対応に問題はなかったのか、もしあったら今後どうするのか、含めた誠意ある対応と、そして外来患者に対する懇切丁寧な説明が必要である。
 すくなくとも広報と説明については、あまりに不親切な現状であると思っている。それが誤解ならばいいのだが。