
「なみだふるはな」(石牟礼道子・藤原新也、河出文庫)を読み終わった。
石牟礼道子という方は、水俣で公害の被害について告発し、被害者とともに活動を繰り広げた方であることは誰でもが知っている。
明治末から水俣で生産を開始した化学工業会社によって変貌させられていく地域の共同社会の内部に留まって、その人々に寄り添いながら、文学作品も作った。その小説を書いた筆力には私も最近であるが、ようやく触れることができ、そして圧倒された。多分若い頃には読み切れなかったと思うし、その筆力に跳ね返されるばかりだったと思う。
「苦海浄土」とはルポルタージュでもなくドキュメンタリーでもない。一つの作り上げられた小説世界である。その世界は水俣病という過酷で残酷な現実を引き受けざるを得なかった人々に寄り添いながら、失われていく前近代の地域の共同社会を克明に描いている。壊されていく生命と地域の共同体には安易に未来や救いはない。それでも過去の世界を見つめながら、未来の希望の端緒を見つけようとしている。
この対談では、東北の大震災と福島の原発事故、そして水俣の重い現実を、20世紀初頭(明治末期)と21世紀初頭の日本の時空を飛翔しながら、語っていく。
石牟礼道子の世界認識は、前近代に浸かりながら、そこに価値をおいてしまうのではなく、その変容に自覚的に寄り添おうとしているところに価値がある、というのが、私の直観的な理解である。
「反近代」主義ではない。壊されていく共同体での体験などが生き生きと語られる。それはその共同体の内部から、そして水俣病という病を告発する側にも、それを受け入れる側にも寄り添うという強さがある。
加害企業やそこに寄りかかる人々を告発する側に立ちながら、複雑に対立させられてしまう共同体内の人々全体に寄り添う、というとてつもない困難を引き受けてきた強さ・したたかさに私はいつも立ち尽くしてしまう。
発症した人、発症していない人という意識の分断の中で多くの人は沈黙を強いられたり、告発を断念せざるを得なくなったり、さらには排除されたりする。しかし石牟礼道子はそのように排除されることなく、沈黙を強いられる人の発することばにも共鳴している。この寄り添う、ということがこの作家のすごさなのである。
共同体の構成員が語るさまざまなエピソードが並べられている。自然の解釈、業としての農や漁にまつわる言い伝え、食にまとわりつく伝承‥。そのひとつひとつを作品に取組んでいく過程を想像させてくれる発言であったと思う。
「共同体というのは意地が悪い残酷なところもあるんですけれども、自己救済というか、神話的な世界をつくりあげていく。つくらずにはいられない、それでもやっぱり、文化の一つの姿だろうと思う。基層的な文化でね。そから文字に書く神話というものができ上がっていくんだろうとおもいますけれども、いちばん基層の部分でどうなっているかというと、非常に牧歌的にせずにはいられない。この世はいろいろ辛いこともありますから。」
さて、病で倒れたときのエピソードをここに写しておきたい。
「パーキンソン病にはもうなっていましたから、雲の間をいくような感じでございました。もう倒れる、あしたは倒れる、きょう倒れると思っていましたけれども、案の定倒れた。そのときは雲と雲の間に足を突っ込んだような感じでございました。倒れたときは一瞬でしょうけれども、その時の感じはは、千仭の谷に向って落ちていきよるという、ある時間があったんですよ。
足の裏を上にして落ちていきますから、左の足の裏の、アキレス腱というのかしら、足首の表側のところから左のほうへ、何かフワフワと、飛んでいったんです。蝶のようなもの。‥何か私から逃げ出した感じ。その次に意識したのは、遺伝子の元祖たちがいる森へ行ったんですよ。そのフワフワが。だんだん蝶のようなものになっているという意識が出てきて、それが水俣のある漁村に似ているんですけれども、太古の森ですけれど、海風が吹いてくると、森の梢、木々や草たちが演奏されるんですよ、海風に。何ともいえない音の世界が‥‥五線譜にはとらえられないような。「草の祖(おや)」という言葉が出てきました。元祖の細胞だか、元祖の遺伝子だかがいる森なんですよ。そこが海風に演奏されて、木の梢がいっせいに震えると、何ともいえないいい音楽が。「幻楽始終奏」という風に名付けていましたけれども、くさがなんともいえずなよやかな音になって動くんですよね。花はまだなかった。草の祖。それは私の親たちという気持ちでしたね。それが眠りに入るときも、目がさめるときも、何か思いついて夢想が始まるようなときには必ず、鳴るんです。‥‥。魂の秘境に行っているような、この世の成り立ちをずっとみているような、そんな音楽が聞こえて。二か月半くらいつづきましたね。」
転倒し、気絶した時の印象が綴られている。これは対談の中の一節だが、石牟礼道子の作品の文章のように思えた。
この文章に作家の文章の魅力のひみつがあるように感じた。あくまでも感じたのである。どこが、という分析は出来ないのだが、私の直観ということだけ、取りあえず記述しておきたい。