Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「野哭」(加藤楸邨)から 2

2020年04月03日 23時29分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 引続き「野哭」におさめられている「流離抄」(1945.5~1946.7)から。1946年の春の句を今回はいくつか。

★草蓬あまりにかろく骨置かる
★粥腹の木の芽に向くやまぶしけれ
★大いなる雪解の中に生きて逢ひぬ
★春の雲石の机は照りかげる
★闇市に隣る野授業雁帰る
★野蒜つむ擬宝珠つむただ生きるため
★米尽きし厨に春の没日かな
★春愁の釦の一つ色ちがふ

 第1句、詞書によると義弟の遺骨が還った日の句。あまりに粗末に扱われる命、それに対する憤りが「かろく」に表れている。第4句、第5句は大井町あたりの焦土で小学校が青空学校として始まったときの句。第2句、第6句、第7句は戦後の食糧難を詠んだ句。

 私の生まれた1951年はすでに戦後6年、だがものごころついた小学校入学直前から低学年にかけて、函館市や川崎市では戦没者の遺骨を仏壇に供えていた同級生や近所の家も多くあった。お墓に納骨するゆとりもなかったのだと思う。あるいは箱の中には遺骨はなく戦地の石ころだけが戻ってきていたのかもしれない。
 闇市も身近にまだ残っていた。級友のなかには給食だけが食事という子もいたし、来ている上着の釦が全部そろっている子がほとんどであった。そんな戦後の状況が1962~3年、小学校高学年になると急速に消えていったように私には思えた。
 戦後の混乱期は私には身近な記憶として残っている。そして1960年代半ば以降も、都市のなかで眼をこらせば、敗戦と朝鮮戦争、冷戦、ベトナム戦争の影は何処にでも色濃く見つけることができた。横浜では、空襲の傷跡も、「進駐軍」の姿も、米国人居住地の日本人立ち入り禁止看板も林立していた。

 戦争の傷跡を人の心の中に、或いは都市の景観の中に見ようとすればその意志に従って見える。見える風景はその意志によってかわるものである。見ている風景と見える風景は違うことが多々ある。
 


恥ずかしい話

2020年04月03日 20時38分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昼間スーパーに買い物に出かけて、近くの公園でペットボトルのお茶を片手に花見。十数本のソメイヨシノを見て回った。この公園、桜の木はソメイヨシノしかないが、近くの旧河川敷の道にはさまざまな種類の桜の木が植わっており、早咲きから八重桜まで1カ月ほどはサクラを愉しむことができる。

 帰宅後、手と顔を洗っていたら、眼鏡をはずさずに石鹸を顔に塗ってしまった。あわてて眼鏡をはずした。何とも情けない話である。しかも何が起きたのか理解するまでに数秒かかってしまった。歳は取りたくないもの。
 妻に話すと、始めは笑ったがすぐに真顔になり、次に心配顔になり、そして最後に何とも複雑な顔付きになった。夫の情けない所業に唖然となったようだ。否呆然となったのかもしれない。

 外出自粛ということであまり出歩かずに、かなりの時間妻と過ごしていると、次第に刺激もなくなり緊張感が失せてくるようだ。そして本を読んでいても、緊張感がないとスーッと寝てしまう。恥ずかしながら、私の読書には喫茶店がどうしても必要である。
 そして喫茶店でも寝入ってしまわないように時々場所を変えなくてはならない。意外と長く読書ができるのが、駅ホームのベンチであることに最近気がついた。乗り降りの少ない駅ならば、缶コーヒーを片手に喫茶店代わりになる。公園のベンチは陽射しが強すぎて目に良くない。
 乗降客が少なければ、喫茶店よりは人との接触を少なくできる。私鉄でも急行のとまらない駅が狙い目である。地下のホームよりも、地上駅の日陰のあるベンチがいい。飽きたら隣の駅まで移動すれば短時間電車に乗るだけでいい。


うーん・・・・

2020年04月03日 10時42分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 横浜市のホームページに掲載されている昨日の文書を読んだが、

 研修医は3月中旬以降に感染したと思われるが、3月中旬から4月1日までの外来者への対応について記載されていない。
 3月中旬からの外来者やその家族からの体調不良・不安などの問い合わせが多数あると思われるので、従来の相談センターではなく、市民病院外来者向けの相談体制を別途構築すべきではないのか。

などの不満・疑問もわいてきた。しかも高齢者がホームページを見に行く確率は低い上に、文書が一般市民向けにしては不親切すぎる。分かりやすい工法をしていない。

 私は今のところ特段体調が悪いわけでもないが・・・。