Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

冬の夜の静かな雨

2022年12月17日 23時22分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 絶え間なく時間雨量換算で5ミリ程度の弱い雨が降り続いている。はたして日付の変わるころには上がるのだろうか。気温はだいぶ冷えてきた。室内も17℃を切っている。

 昨日に続いて渡邊規久雄の〈シベリウス・リサイタルVol.5〉を聴きながら、雨の音も聴いている。《4つの抒情的小品作品74》や《抒情的瞑想作品40》は、本日のように冬の静かな夜にかすかに降る雨の音が似つかわしい。
 夜の闇の向こうに、紅葉した葉もほとんど散ってしまった木々の幹や、芝生の上に散っている落葉を創造するのもこの時期の楽しみである。

 静かで内省的な夜の雨が嬉しい季節である。

   

 


朝寝坊が治らない

2022年12月17日 21時36分35秒 | 天気と自然災害

 天気予報では、横浜は15時以降に雨が降るとのことであった。今にも降りそうな状態が意外と長く続き、結局雨が降り始めたと認識したのは18時半頃であった。
 雨は日付が変わるころに上がるらしい。明日は晴れる者の気温は本日より低く、最高気温が10℃となっている。ようやく冬の気温に慣れて来たけれども、それでも寒いと感じる気温。

 昨日の段階で退職者会ニュース4頁全体の校正が無事終了した。これで印刷に回すことが出来た。なんとか来年正月12日までに納品が出来ることとなり、年越しの心配がひとつ解消。
 残りの心配はこれからの年賀状作成と言ったところである。まだその気分になっていない。
 明日は少々朝寝坊する予定。歳を取ると早起きになるというが、私は逆にだんだん朝がつらくなっている。かろうじて8時半起床を維持している。9時くらいまでは寝ていたいもの。寝るのは1時半。これが良くないと思うが、日付が変わる前に寝ることがどうしても出来ない。

 写真は11月初めの撮影。

    



「江戸絵画 八つの謎」その3

2022年12月17日 19時56分13秒 | 読書

   

 帰宅後、「江戸絵画 八つの謎」(狩野博幸、ちくま文庫)の第4章「曽我蕭白 ふたりの「狂者」」、第5章「長沢芦雪 自尊の顛末」を読み終え、第6章「岸駒 悪名の権化」を少々。

 第3章「伊藤若冲 「畸人」の真面目」は勉強になった章であったが、残念ながら第4章の曽我蕭白は私には著者のこだわりがよく理解できなかったので、引用も感想も省略。異存のあるかたも多いと思った。

 第5章の長沢芦雪では、武士の出という過ぎたる誇り、自尊心が余りに高く、世間と軋轢が絶えなかった芦雪の生き様をこれでもか、と浮き立たせている。そして晩年の芦雪の作品について「応挙没後のそれら(作品)に明瞭に見られるようになるが、心にしっとり染みわたるような作品群と、何かにせかされるような、苛々した感じの作品群とが、ほとんど分裂症的に併存する。‥なにかトゲトゲした感覚を見逃すわけにはゆかない。‥網膜にはっきりと映像を結ぶ幽霊を、酒精に侵された芦雪の脳が捉えたのである。正常と異常が繰り返す日々を、芦雪は応挙という存在なしで過ごしてゆかざるを得ない。」と記している。

 こういう視点で今後芦雪の作品を見てみたいと思った。


「ピカソとその時代展」 その3 1920年前後

2022年12月17日 16時33分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日、予定通り10時前に上野の国立西洋美術館に無事間に合った。朝の電車は混んでいたが、川崎駅でたまたま目の前の席が空いて、幸運にも上野まで座ることも出来た。

 10時から会場の入り口前で講師の中村宏美氏の全体の解説を聞いてから会場に入った。26日に続いて2回目の入場、前回と同程度に混んでいたが土曜日にしては想像よりもゆっくりと見ることが出来た。

   

 本日は第一次世界大戦直後の作品に焦点を当てて、ピカソ、マティス、クレーの作品を見た。まずはピカソの《窓辺の静物、サン=ラファエロ》(1919年、40歳)とマティスの《室内、エトルタ》(1921年、49歳)とが構図や敗色が実によく似ていると感じたので気になっていた。
 マティスの作品の窓の外の砂浜と思われるところがもう少しピンクであったが、スキャナーではうまく再現できなかった。
 窓枠効果の狙ったのだから似ているのはたまたま、とも思ったが、二人のライバル意識からはマティスはピカソの作品を眼にしていたのではないか、という想像をして楽しむことは別に悪いことではないと思っている。
 ただしマティスは外にひろがっている海辺の風景が病の娘への思いやりに思えるが、ピカソはそのような「物語」や「思い入れ」を排除して色彩効果と構図の効果を追及しているのだろう。しかもピカソの場合、ピンクは室内の内側に配色されている。室内に明るさがある。だが、両者の作品に共通しているのは、いづれも第一次世界大戦終了という安堵と平安と未来を見ていると私は理解した。



 一方でクレーのその頃の作品はこの二人の画家とはまるで違う方向を示している。
 ここで取り上げた作品は《雄山羊》(1921年、42歳)。山羊はヨーロッパでは悪しきものや悪魔の象徴であり、欲望と性的快楽の象徴でもある。ここでも魅惑的な姿態の女性を顔に乗せ、見上げている。
 第一次世界大戦後の享楽的な世界を映し撮るような作品に見えた。ピカソとほぼ同じ年齢のクレーとピカソの世界との関りの違い、社会批評の眼の違いに驚いた。
 しかしながら、どちらかというと禁欲的なイメージの強いクレーからこのような性的な発露を感じとることへの驚きもあった。クレーの別のイメージが湧いてきた。



 そしてこの雄山羊のイメージは、1935年のピカソの《ミノタウロマキア》にでてくるミノタウロスのイメージにに行き着くのではないか、と私のイメージは飛躍した。この飛躍となると、もう牽強付会と謂れても否定できないことはわかっているが、ひょっとしたらどこかで通底して欲しい。
 《ミノタウロマキア》で右端に出てくる「ミノタウロス」は牛のようでもある。雄の、男の性的な破壊的、悪魔的な要素を体現しているといわれる。
 そしてキリストといわれる左のハシゴの上の男は、私は上に逃げていると解釈している。暴力と戦争と破壊を象徴するミノタウロスの突進と暴虐に立ちはだかるのは、実はともしびを掲げた頼りなさそうな少女である。
 第二次大戦に向かう混とんとして、そして暴力と戦争が露出してきた世界で、宗教の無力の象徴として「逃げるキリスト」を描き、ともしびを掲げる少女にピカソは何を託したかったのであろうか。《ゲルニカ》にも通じる何かがあるはずだ。ひょっとしてクレーとピカソはここらへんで交わるのかもしれない。

 ピカソは、女性との緊張関係、三角関係が作品創造のエネルギーといわれる。私はピカソの女性関係の危機や緊張関係と、第二次世界大戦前夜という危機意識が同時にピカソを襲い、創造のエネルギーに転化したと考えている。
 あるいは世界崩壊の危機への恐怖が、女性との関係の緊張関係を持続するために複雑な女性関係をあえて選択したのではないか。第二次世界大戦終了後は、世界の一定の安定の結果として男女の性的関係へのこだわりが持続したという理解をしてみたい。

 本日は妄想の勝手な飛躍のままに記してみた。