Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の読書と衝動買い「シュルレアリスムとは何か」

2022年12月21日 22時35分36秒 | 読書

 横浜駅近くの喫茶店で30分ほどの読書タイム。久しぶりの読書タイムである。本日は「江戸絵画 八つの謎」(狩野博幸)の第6章「岸駒 悪名の権化」、第7章「葛飾北斎 富士信仰の裾野」までを読み終えた。

 第7章ではこれまで私は禁令の出ていたということを知らなかった富士信仰と北斎の関係について初めて認識した。この第7章は6節わかれるが、富士講の初世からの流れを5つの節で説明し、北斎については第6節だけで触れている。詳細は後日。なかなか大胆な構成である。

 富士講の第六世の思想や行動の説明は初めて知ったが、その解説の合間に、現代の社会の思想状況について辛辣な批判が並ぶ。私もつい陥りがちだが、一把ひとからげの批判は粗雑な論理展開に繋がりそうで危うい感じもする。

 有隣堂では、「シュルレアリスムとは何か 超現実的講義」(巖谷國士、ちくま学芸文庫)を見つけ、1320円と高価だったが神奈川大学の生協での申し込みをせずに即購入した。今年9月に第18刷が発売されていたのに気がつかなかった。

 なお、膝の痛みは痛み止め服用で治まってくれていたが、あまり歩き回らずにすぐに帰宅。
 夕食後、薬の作用が切れたためか、少しだけだが痛みが再発。再度痛み止めの薬を服用。湿布薬は入浴後に擦りこむ予定。明日は膝の様子見である。


電車の急停車

2022年12月21日 20時34分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中、病院に出掛けようとして椅子から立ち上がったとたんに右膝の右側がピリッとして思わず声を出したほどの痛みが走った。立ち上がらずそのまま座ったままにして様子を見た。さいわいにも10分ほどしたら立ち上がっても痛みが出ないほどに回復した。
 テーブルに手を突きながら、痛み止めの薬を取りに行き、消炎鎮痛剤入りの湿布薬に手を伸ばした。以前のように立ち上がれないほどの痛みにならずに済んでホッとした。

 本日は用心のために、杖を突いて出かけた。しかもバス停まで歩かずにタクシーで病院まで。病院で一昨日の採血と採尿の検査結果を聞いた。二つほどの数値が治療するほどではないが良くないとのことで、日常生活上の注意点を指摘された。
 その後私鉄の電車を使い横浜駅へ。ところが横浜駅手前で緊急停止信号のために急停車。ガラガラの席に座っていたら、前方に大きく体が倒れ、座席に一瞬横になってしまった。すぐに起きることが出来たが、もしも杖を突いて立っていたらそれこそ転んだかもしれなかった。車内で立っていたのは数人の男子中学生だった。さすがに身のこなしは素早く、吊革や握り棒で体を支え、転ぶ者はいなかった。
 5分ほどの遅れで横浜駅に辿り着いた。杖を突いていなくとも、電車やはバスなどの乗り物では座れるときは座っていたほうが安全であることがよくわかった。


歳を取ると耳が遠くなるか?

2022年12月21日 18時21分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 歳を取ると耳が遠くなる、聞きづらくなる、とよく言われる。高音が聞きづらくなり、人の話が聞き取りにくくなるという識者まであらわれる。しかしこのことは本当なのだろうか。
 むろん身体的に聴覚の機能が衰えるということもあるかもしれない。しかしそれだけだろうか。私の場合は今年の夏、耳鼻科で眩暈の診察をしてもらったときに、聴覚検査をしてもらい「まったく異常なし、若い人よりも高音によく反応するくらいだ」と言われた。
 だが、71歳になって、妻などと会話をしていても、またお店で店員の言葉が理解できずに耳を店員に近づけて聞き返すことも多くなった。
 このことが自分でも不思議で「何故なのか」と自問自答していた。今も同じである。

 最近までに気がついたことをいくつか述べてみる。

 会話をしていて「聞き返す」場合のパターンに共通点があることが分かった。
 ひとつは周囲の雑音が急に大きくなったり、傍で他人が他のことを話した時、それが当の話相手の話が認識できなくなる。
 二つ目の場合は、想定していた会話の内容ではないことを言われた時に、ほぼかならず聞き返している。
 三つ目の場合は突然に話しかけられた時に聞き返している。

 最初の場合は、会話や想定される問答に集中しようとしている自分がかならずいる。周囲の声が聞こえていないのではない。また相手の声が聞こえていないのではない。ひとつのことに集中しようとしているので、周囲の音が背景に追いやられてしまうか、あるいは背景の音が邪魔をして、聞き取りたいことに集中できなくなってしまうことが原因である。

 二番目の場合、会話が成立するためにはその会話の流れの前提条件が必要である。例えば、干し柿の作り方を話しているときに、突然に横から「どうして干し柿は柔らかいのと硬いのがあるのか」と聞かれるような時である。話の流れを理解できていない人からの頓珍漢な横やりにすぐに対応できない。これも会話について、ひとつのことに集中したいという思いが強ければ強いほど、横からの話を無視せざるを得なくなる。
 店員と話をしていて聞きづらいのは、想定していたこととまったく違う思考回路を示された時でもある。例えば支払いをしようとしているときに、「いくらです」という答えを待っているのだが、突然「〇〇のポイントは使いますか」あるいは「カードは持っていますか」などと言われるとかならず聞き返すハメになる。言葉として聞こえていても認識しずらくなり、反射的に聞き返すことになる。これはお互いに不幸である。

 三番目の場合は、私の膝の痛みと関係する。足が痛いので下り坂などでは路面などに意識を集中して下を見ながら歩いている。そのときに顔を上げていなければいけないような風景の話をされてもそちらに意識は急には向けられない。
 昨日妻と急坂を下っているときに妻が「いつもの家が新しくなった」と言ったが、私は目前の階段に意識を集中していたので、「階段が新しくなった」と妻が発言したと思った。しかし階段は古いまま、何が新しくなったのかまったく理解出来なかった。つい声を荒げて「階段など新しくなっていない」と言ったが、妻の抗弁を聞いてやっと発言内容を理解した。
 この場合も、意識をひとつのことに集中しているときに、他のことを言われると音声は聞こえていても正しい認識に辿り着かないのである。

 さらに大事なことは、いづれの場合も、十数分経つと何を言われていたのか、思い出して認識できることである。「あぁそうか、そういう意味合いだったのか」というのがいつものパターンである。

 これらの事象を並べてみると、聞こえることと、認識すること、の乖離が大きくなっていることが、「聞こえていない」と周囲に思われる原因ではないか。
 聞こえない、のではなく、認識する回路がこれまでとはどこか違いが出来ており、傍から見ると正しい認識に時間がかかるように思えるのだろう。また聞こえていても、不必要なことや、いかにも頓珍漢な質問だと認識したものには、いちいち反応するのも面倒になっているとも言える。
 もうひとつ言えることは、人の発言に鋭敏だった人ほど聞き返す頻度が高いのではないか。
 周囲の人は「年寄りだから聞こえていない」と早とちりをしてはいけない。聞こえていても「つまらないことを言ってばかりいるよ」と年寄りから馬鹿にされている場合も多々あるはずだ。そのことを忘れないほうがいい。

 私は、歳を取って初めて聞こえることと認識することの落差を痛感するようになった。たぶん今までは、さまざまな対応を想定しながら人の話を聞き取り、それぞれに対応してきたと思う。歳と共に「ひとつのことに集中する」ことの大切さを身につけて来たからこそ「つまらないこと」には反応しなくなるのである。
 私は10代、20代の時にこのことをもっと体得しておけば、勉強に集中できたのに、と思った。だがそれは若者らしく、いろいろなことに幅広く興味を持つ、ということからは遠くなることでもある。

 年寄りは聞こえていないようで実によく聞こえている場合が多い、という言い方はかなり真実に近い。肝に銘じておいたほうがいい。