明日は新しいマスクを着用して外出。鼻側には眼鏡の曇り止め用の仕切りが付いているものをいつも常備をしている。さらに口元にサポーターの取付、脇に出来る空間が狭くなるような縫い付けをしている。この細工をして2年過ぎた、と今朝記載したら、友人から鼻側の曇り止めのついているマスクの商品名を教えてほしい、と連絡があった。
友人なりにいろいろと工夫を凝らしたいということであった。「工夫」は自分にあったやり方を自分なりに探すことに醍醐味がある。友人もそれは十分に知っていた。しかも今回の私の工夫は医学的な保証は何もない。
私の経験では、何でも聞きたがる人よりも、自分で工夫を凝らす人が長続きする友人となる。その工夫を会った時に呑みながら自慢しあうのが楽しい。
火星とオリオン座を見ながら帰宅。といっても3人でタクシーから降りてからの約50m程度の歩行。
横浜駅はかなりの混雑。旅行者も多く、キャリーケースを引きずる若いカップルが多かった。勤め人のような雰囲気の人は少なめ。義務教育ならびに高校の生徒はもう冬休みなのであろう。下校時なのにほぼ見かけなかった。
年末の雰囲気というのは、私が40代の頃までは年末の買い物客や帰省客でごった返したものだが、この頃は若い人が遊びに出かける姿ばかりが目に付くように思える。
この感想は年寄りのひがみなのか、社会現象なのか。ここ2~3年のコロナ禍での状況を除くと確実に社会現象として変化したと思うのだが、どうであろう。
帰るべき遠い田舎というものを持っている人はほとんどいなくなっていると私は思う。実家といっても都会住まいがほとんどではないか。全国で面的に実家が存在するのではなく、地域の大都市圏に点在しているのが実情であるはずだ。
実家に帰るにしても昔ほどの旅行時間は必要ではなく、そして「田舎」体験の旅行気分は希薄になっている。若い人たちにとっては、「田舎」体験よりも、都市圏の実家に気楽に寄り、その足でリゾート地へ出かける方が魅力があると思われる。あるいは実家には普段の日に立ち寄り、まとまった休みはリゾート地に行くことが価値なのではないか。
横浜や東京では、リゾート地への旅行客ばかりが目に付く理由はこのあたりの実情が反映しているのではないだろうか。
現在もコロナ禍、しかも感染の拡大局面に関わらず、この混雑、帰省以外の旅行者の増加に、政治はどのように対処しようとしているのだろうか。どうもお手上げで何の具体策も示されていないように見受けられる。
検査の充実、大規模イベントへの対処方法、混雑対策、医療体制の充実の方策、医療従事者支援、ワクチン接種の効率化、就業支援・家庭支援、罹患者支援等々、目に見える何ものも提示されていない。中国批判は聞こえるが、それを他山の石としても自国の対策に目を向けてもらいたいものである。
午前最初の集配に間に合うように早めに年賀状を投函。これで年末の仕事が終わった感じとなる。ホッとした。
午前中は「私の絵 私のこころ」(坂本繁二郎)を読んで過ごす。本文と「問われるままに」は読んだが、書翰と河北倫明の「坂本繁二郎画論抄」はこれから。
親と3人で、夕方から買い物に付き合うことになった。混雑しそうなので、少し早めに出るしかないようだ。
本日も乾燥注意報が出ている。真冬の快晴が当分続く予報になっているようだ。
これより新しいマスクに取り替えるので、針と糸で少々の細工と口元の空間確保のためのプラスチックのサポーターの縫い付け作業。この3年間、ずっとこの作業の連続である。最初の1年近くはいろいろと試行錯誤をしたが、この2年ほどようやく今の形態に落ち着いた。こういう「工夫」というのが、私は楽しい。
しかし早くこの作業から解放されたいものである。