Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「「おくのほそ道」謎解きの旅」から1

2024年02月02日 22時12分53秒 | 読書

   

義経と崇徳院は、中世の人々にとってはかなり似た存在に思われていた。義経も本来ならば怨霊になり得る可能性が大だった。しかし、その物語が語りつづけられたことによって、怨霊にならなかった。微に入り細に入り、何度も語られることによって鎮魂され、非業の死を遂げた義経の魂の怨霊化を避けることができた。義経は武家にとってはもっとも恐ろしい怨霊です。崇徳院が、天皇家にとってもっとも恐ろしい怨霊であったことと対応します。」(第1章)

革命においてもっとも功績のあった者は排除される。これはひとつの法則です。明治維新における西郷隆盛、ロシア革命におけるトロツキー、中国革命における林彪・劉少奇など・・・。義経は、最大の功績があったからこそ、もっとも非業の死を遂げた。その義経の鎮魂をしたのが芭蕉でした。西行が崇徳院の鎮魂をしたように、芭蕉は義経の鎮魂をしたのです。芭蕉が西行にあこがれていたことはすでに述べました。芭蕉の「おくのほそ道」への旅は、西行の陸奥行=平泉行の跡をほぼ忠実に追っている。芭蕉の東北行は西行にあ古歌れた芭蕉にとっては当たり前のことのように尾も割れが他です。しかしそれだけではない。本来ならば西行が・・自ら義経や奥州藤原氏の跡を弔いたかった出しよう。しかしその翌年に西行は入滅します。西行の果たせなかった鎮魂を、西行に代わって芭蕉が自ら引き受けた。」(第1章)

「おくのほそ道」の旅(1689年)は義経の五〇〇年忌に行われたのです。芭蕉が平泉を訪れたのも五月、義経が高館で自害した閏四月と同じ月です。(「五月雨の降りのこしてや光堂」の句)は、芭蕉が幻視した五月雨は、義経と、弁慶をはじめとする多くの義臣の見た五月雨であり、彼らの涙が時空を越えた五月雨となって、芭蕉の面前にに出現した・・・」(おわりに)

「おくのほそ道」の芭蕉の旅がフィクションならば、さらにもう一歩突っ込んで、「おくのほそ道」を旅しているのは芭蕉ではないという前提で読むことも狩野となります。旅をするのはだれかというと、読者自身です。曾良という同行者を連れて、幻の東北を行く、現実にそこにある東北ではなく、幻影としての東北を旅する。、能の物語に入っていくような旅なのです。芭蕉の提示する「幻の東北」という幻想世界に入っていくための手引書として読者自らが使い、みなで芭蕉になり切って「おくのほそ道」を旅する。」(第2章)

芭蕉にとっての「旅」とは「能の旅」であり、「旅人」とは「能の旅人」なのです。」(第2章)

 少し長い引用になってしまったが、この本の要点なのだと思う。第3章以降は実際の「おくのほそ道」の旅に沿って語られる。



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