Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

国会前からようやく帰宅

2015年06月25日 00時53分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど23時過ぎにようやく東京から帰宅した。20時まで国会包囲行動ということで議員会館前にいたが、ものすごい数の人が参加していた。退職者会の行動の一環だが、30名が参加してくれた。
 帰りは地下鉄が混雑して乗れそうもないので、新橋まで歩いたのだが、なかなかたどり着けない。無用な歩道の通行規制で強引に地下鉄に乗り込ませようとする。歩いて新橋まで行くことがとても遠回りになるような規制をしているため、どの交差点でも「通せ」「通さない」で無用な混乱が生じていた。
 ようやく新橋にたどり着いたのが、集会終了から40分後。新橋駅で軽く生ビールを飲んで帰ってきた。

 実は明日は9時前に横浜駅を出て、鬼怒川へ退職者会の出張。温泉と云っても明日の午後一番についてそのまま会議。午前中の会議後すぐに横浜までとんぼ返りである。そして翌日はまた日光へ2泊3日の家族旅行である。

 本日は昼過ぎから約7000歩のウォーキング、14時半からの講座に出て、17時の横浜駅での集合に間に合わせ、18時半からの集会にようやく間に合った。結構ハートなスケジュールになってしまった。
明日の朝、いつもよりはずっと早く出かけるので、もう寝ることにした。

本日購入した本

2015年06月24日 23時39分28秒 | 山行・旅行・散策
 二週間前に注文した本がようやく入荷した。
 以前にも記載したかと思うが、
1.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
2.「大地動乱の時代-地震学者は警告する-」(石橋克彦、岩波新書)

 1.は以前に購入してとても印象に残った本である。プレートテクトニクスの観点から列島の地質構造をトータルに把握して、説明してくれた名著である。大事に保管しておこうと思っていながら、情けないことに本箱が溢れた時に間違って廃棄してしまった。ようやく買い戻すことが出来た。
 2.もよく読まれている著作である。阪神淡路大震災の直前に出版されて、この地震の直後から爆発的に読まれた本である。やはり最近は書店の書棚にない。実は読んだ記憶が無いのだが、本日手にして電車の中でパラパラめくっていたら読んだ記憶のある場所が出てきた。どうも出版当初手にしていたようだ。購入したのか、書店で立ち読みしていたのかはっきりしないが確かに記憶にある。最後の方はまだ見ていないが、最後の方にまで記憶があるとすると購入して読んだことは間違いがない。前半だけの記憶なら立ち読みの可能性がある。

 さて1.については日本海の成因について論述してあったと記憶している。私は太平洋プレートの沈み込みだけで列島の地質の成り立ちや地震のメカニズムの解明には無理があると思っている。太平洋からの圧力とそれに対する大陸側のプレートの反作用だけではなく、マントル対流の解明と日本海を作り上げた大陸プレートの押しの力をキチンと評価しないと、日本列島の構造は出来上がらないのではないか、と学生時代から疑問に思っていた。キチンとした理論やフィールドワークに基づく推論ではなく、あくまでもいい加減ともいえる思い付き範疇でしかないが、今でも気になっている。
 1.をもう一度読み直して、勉強してみたいと思う。




「BRUTUS7月号」から「ピカソ」

2015年06月24日 10時31分02秒 | 読書
   

 私はピカソの青の時代の絵画が昔から好きである。それはもともとあまり派手な色彩や明るい色調よりも、描かれている対象の内側に重力が働くように、対象の存在感に吸い込まれるような感覚が好きだからだと思う。暖色よりも寒色の方が画面という世界の中でじっと耐えながら存在を静かに示している。主張しているのではなく、そっと示しているものがいいと思える。
 ピカソの青の時代の作品は、どの人物もこれ見よがしには存在していない。画家の眼はことさら対象を浮き上がらせようとはしていない。描いている対象から受け取った心象の人物像にそっと寄り添おうという意識が垣間見える。
 絵画の鑑賞にこんな勝手な思い入れは危険ではあるのだろう。評価の間違いや頓珍漢な鑑賞を用意するだけだと了解はしているつもりだ。だが一方で好きに思い入れしてもいいではないか、と開き直ってもいる。
 ピカソのこの時代の絵は、画家が世界をどのように理解しようか、鋭敏な感性と指先を駆使しながら、しかし自身の力だけで手探りで模索している姿が思い浮かべられる。それは決して外に向かってするどく発散しようとする意識ではない。意識はとても謙虚である。
 私はピカソの青の時代の作品に登場する人物に「社会の底辺で抑圧されている人々への共感」ばかりを見つめているとは思えない。また「寄り添うような姿勢」「生きようとする生命への共感」「どこかに明るい未来を見つめている」というような甘いヒューマニズムは感じない。センティメンタルを捨てて鑑賞したいと思う。
 この「BRUTUS7月号」で取り上げられた青の時代の作品について五木寛之は「芸術家の仕事はあまり単純に解釈しない方がいい。それと、アーティストには人間の悲しみを食って育つようなところがあります。ピカソ自身、非常にエゴの強い人でしたから、ただ打ちひしがれた人に寄り添い、涙を流しながら描いた、というふうに見るのは、間違いだと思う」と記している。
 人間が世界を認識し社会と交感するとは何か、答えのないそのことを必死に手探りで模索する精神を感じるならばそれでいいと思う。救いだとか、生きる希望だとかに飛躍することはないとおもっている。ただピカソは自分の身近にいる社会の底辺の人に、人間の存在を問い続ける契機を見たのだと思っている。

   

 これに対して岡本太郎は「青の時代っていうのは、19世紀からの伝統をずっと続けてるわけですよね。センチメンタルな要素も、ロマンティックな要素もあって日本人は感心する。でもピカソのその後の作品は、世界の歴史でほかにないほどすごいですよ。惨憺たるものもたくさんあるけど、それがまた僕の心を打ってくる」と述べている。
 画家が新しい表現方法、技法を求めて変化し続けるそのエネルギーに着目している。このことも私には理解ができる。青の時代を経てピカソの色彩も視点も、新しい方法を求めて自由に飛翔していく。この膨大なエネルギーに多くの人は圧倒される。
 岡本太郎の掲げた作品は「アヴィニオンの娘たち」と「ゲルニカ」。
 青の時代を経て、私には一挙に解放されたエネルギーの噴出を見る思いがする。内省的な思考は、画面からは窺うことは出来ない。しかし躍動的で開放的な画面の向こうには絶えず社会との交感、人間に対する認識についての模索と洞察を心のどこかに持ち続ける精神を私は感じる。

 ゴッホのオランダ時代の「馬鈴薯を食べる人々」などの世界を、ゴッホの宗教心や貧しい人々への共感といった視点ではなく、ゴッホの社会や人間存在に対する認識の獲得の段階という観点からもう一度考え直してみるのも魅力的である。無論そのような観点の論もたくさんあるのだろう。目にしたいものである。


「BRUTUS7月号」から「土偶」

2015年06月23日 20時49分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 グラフィックデザイナーの佐藤卓氏が語っている。
 「とても1万年も前の造形物とは思えません。なんでこんな形を思いついたんだろうと疑問が湧くのと同時に、力強さも感じます。“想像力をかき立てるわからなさ”があると実感します。“わかりやすく”をどれだけ重ねても、魅力的なものに至るわけではないと、つくづく思わされる。」
 「現代の基礎的な造形が、実はほとんど縄文時代で模索されているとも言える。」
 「今のアートというものは、一般的な生活から少し距離があります。特別なものとして会いに行かなければいけないような存在です。でも縄文時代のクリエイションは、さまに生きることそのもので、生活の一部。そういう状態の方が豊かじゃないのか。本当の豊かさとはどういうことなのか。縄文時代の造形を通じて、考えるべき時に差し掛かっているんじゃないか。」
 土偶の造形に対する認識にはなるほどと感心することしきり。土偶と云うものの魅力をあらためて思い起こしてもらった。私はとても優れた専門生のある製作者の存在を考えている。社会の分業と云うものの進展がかなり進んでいたと思う。呪術的な側面については専門の方の論考を知りたいが、それ以上に、縄文の時代の人々の「美」的感覚、形体に対するこだわりというものがとても繊細で高度なものであったと思う。

世界平和アピール7人委員会アピール

2015年06月23日 20時11分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
世界平和アピール7人委員会(武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 村薫)が以下のアピールを公表した。

★安保関連法案を廃案にし、安心・安全に生きる世界に向けて
2015年6月22日

 私たちは、集団的自衛権の行使を認めた2014年7月1日の閣議決定を取り消し、無理な審議を強行している安保関連法案を廃案にし、軍事でなく外交を優先する政策に変換し、敵を作らずに平和に貢献する国づくりを目指すことを、日本政府と国会に求める。

 安倍政権は安保関連法案が必要な理由として「中国の軍事大国化」と「北朝鮮の核戦力」を挙げているが、これらは軍事超大国の米国が維持している巨大な在日米軍基地の存在と無関係ではない。安倍政権の動きは、一部の国と癒着し、敵を作り、相互に非難し合うことで緊張を高めるものであり、抑止力にならないどころか、軍拡競争を誘発するばかりである。これは日本の安全を脅かすだけでなく、世界の諸国民の平和に生存する権利を侵すものと言えよう。すでに自らの考える秩序を全世界に押しつけようとする米国の力の政策が限界に達していることは明白である。

 日本国憲法は、前文に「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書き、戦争と武力行使を永久に放棄し、戦力を保持しないことを第9条で規定している。軍事力強化を目指す安倍政権の意図に反し、大多数の国民は憲法第9条改正を望んでいない。外交努力によって自らの安全を図り、世界の紛争に対しては、一方だけを支持することなく積極的に調停にあたるのが日本の目指すべき道である。人口激減、財政赤字の日本が進むべき道は、国際融和・協力による一人一人が安心・安全の社会であるべきだと信ずる。

 私たちは、60年前の、「平和共存」、「平等互恵」を訴えたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)や、核兵器と戦争の廃絶を呼びかけたラッセル・アインシュタイン宣言を想起する。日本国憲法が目指す目標に向かって粘り強く一歩一歩進んでいく政策を選べば、“核の傘”による核兵器依存が不要になるばかりか沖縄を含めた日本全体の米軍基地も不要になり、北東アジアの緊張緩和に寄与し、諸国民が安心して安全に生存していく世界の実現に貢献できる。

 私たちは、日本の国民に、日本政府の政策を、国連憲章の平和原則と日本国憲法の初心と歴史の流れに従って、平和共存・相互理解・平等互恵及び一人一人の平和的生存権の保障される世界を目指して、根本的に変えさせていくよう訴える。

世界平和アピール七人委員会のホームページは右のとおり。⇒【http://worldpeace7.jp/?p=762

沖縄慰霊の日に

2015年06月23日 20時03分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 沖縄の慰霊の日、以下の琉球新報社説を読んだ。耳を傾けたいものである。

<社説>慰霊の日 犠牲の再来 許さない 沖縄戦の教訓を次代へ
 米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれた沖縄戦から70年、慰霊の日がまた巡ってきた。ことしはとりわけ胸が騒ぐ。節目の年だから、ではない。沖縄戦の教訓を無にするかのような動きが活発化しているからだ。
 先人の無念を無駄にしてはならない。戦争を憎み、平和な島を建設するという「あまりにも大きすぎた代償を払って得た/ゆずることのできない/私たちの信条」(県平和祈念資料館・展示むすびのことば)を思い起こしたい。

強いられた「共死」

 沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」である。言い換えれば「軍の駐留は住民の犠牲を招く」ということだ。これは抽象的なスローガンではない。戦場の実態に即した事実である。
 沖縄戦で壊滅的被害を受けた島と日本軍が駐留していた島は、見事なほど一致する。駐留のない島の被害は軽微だ。駐留と被害は明らかに連動したのである。
 別の背景もある。沖縄戦直前、軍部は住民に壕を掘らせ、戦争準備を強いた。従って住民が投降すれば、どこに司令官がいてどこに武器弾薬があるか、敵軍に知られてしまう。だから住民が生き残るよりは住民の全滅を願ったのだ。
 それを裏打ちする文書がある。日本軍の「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」だ。「軍官民共生共死の一体化」とある。意図的に住民へ「共死」を強いたのだ。
 もっと本質的な問題もある。大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の中で沖縄を「皇土防衛の前縁」とし、現地の軍に「出血持久戦」を求めた。米軍の本土上陸を一日でも先延ばしするため、沖縄を「捨て石」としたのだ。沖縄の住民は「防衛」の対象ではなく、本土を守るために犠牲に供するものと位置付けたのである。
 これは沖縄戦全体を覆う特徴だ。1945年4月、大本営は「占領セラルハ必至」(機密戦争日誌)と知りつつ、沖縄戦に突入した。5月下旬、日本軍は主力の7割を失い、首里の司令部も維持できなくなったが、沖縄本島南部への撤退を決めた。南部に住民13万人余がひしめくのを承知の上で、である。
 占領されると知りながら敵を上陸させ、なるべく長くとどめようとする。住民が多数逃げている場所に軍が行き、紛れ込む。こんな計画のどこに住民を守る視点があろう。軍部には住民保護の意識が決定的に欠落していた。
 以降、日本軍による食料強奪や住民の壕からの追い出し、壕内で泣く子の殺害が起きた。「ありったけの地獄」はこうして現れた。

戦前想起させる動き

 沖縄戦の前年、疎開船対馬丸が米軍に撃沈された。だがその情報は軍機保護法により秘匿され、知らずに別の疎開船に乗った住民も次々に犠牲となった。特定秘密保護法がこうした事態の再来を招かないか、危惧する。
 今、安全保障法制は、日本と遠く離れた地域での出来事も「国の存立が脅かされる事態」と規定する。戦前の「満蒙は生命線」の言葉を想起する。国民の恐怖心をあおって他国での戦争を正当化する点で、うり二つではないか。
 沖縄戦体験者の4割は心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症、または発症の可能性があるという。阪神大震災体験者の倍だ。専門家は「沖縄戦と今が地続きだからだ。米軍の存在が日常の沖縄では米軍による事件事故のたびに心の傷口が開く」と分析する。
 その傷口に塩を塗り込むように、政府は新たな基地の建設を辺野古で強行している。沖縄の民意がどうであろうと沖縄を基地として差し出す、という構図だ。犠牲を強いる点で、沖縄戦の構図と何が異なるだろう。
 私たちは犠牲強要の再来を断じて許さない。過去に学び、戦争につながる一切を排除せねばならない。疎開船撃沈を報じず、沖縄戦でも戦意高揚を図った新聞の責任も、あらためて肝に銘じたい。




 以上の社説を読みながら思ったことを‥

 安倍晋三首相の「沖縄が忍んだ、あまりにもおびただしい犠牲、この地に斃れた人々の流した血や涙に思いを致し」という表現に強い疑問を感じた。沖縄の人々は自ら進んで、好んで、自ら選択して忍んできたのではない。忍ぶことを強いられてきたのではないか。「本土防衛のために捨石にしてきた」のではないか。その構造が戦後70年の今まで続けられていることに思いが至らないからこそ、今の問題があるのではないか。少なくとも日本が近代国家をめざした明治期以降、そしてとりわけあの沖縄戦以降に沖縄が強いられた構造をどうとらえているのか、政権を担う政治家はキチンと表明する義務が私にはあると思う。総じてあの戦争をどうとらえるかが問われているのではないか。
 戦後70年、どうして日本という国はあの戦争の総括が自らの力でキチンとなされないのであろうか。


「BRUTUS7月号」

2015年06月22日 22時19分04秒 | 読書
 本日の衝動買いは「BRUTUS7月号」(税込650円)。現在のNHKを宣伝などしたくはないが、それでも「日曜美術館」は昔から見ていた。
 電車の中で早速目を通したのは、「鳥獣戯画×手塚治虫」、「ピカソ×五木寛之、岡本太郎」、「土偶×佐藤卓」、「サルバドール・ダリ×楳図かずお、岸恵子」、「エル・グレコ×平野啓一郎」の4編。とくにピカソとエル・グレコは勉強になったと思う。土偶も刺激的であった。五木寛之と岡本太郎はいつもいい刺激をもらう。半分肯定・半分異論ということも多いが、考えるきっかけを与えてくれる。
 「ムンク×齋藤環」、「マーク・ロスコ×高村薫」、「曽我蕭白×村上隆」もまだ読んでいないが期待している。

 明日以降もじっくり目を通してみたい。





今年初めて蚊にさされる

2015年06月22日 09時17分11秒 | 天気と自然災害
 セキセイインコのカゴの清掃のためいつものようにほんの10分程度ベランダに出ただけで、蚊にさされた。いつもより蚊が多く飛んでいる。ベランダ側の汚水用の下水道管のライニング工事をするために下水道のマンホールを開けて作業をしている。これで蚊が追い出されているのかもしれない。作業に従事する人も気の毒である。そういえば私もよく現場に刺された。地元の人につかまって長時間意見をいわれると立て続けに刺されることが多い。嫌な時間だと思ってといる時ほど刺されて痒い。もそもそすると「誠意がない」と怒られてかえって時間が長くなる。嫌なものである。
 昔、職場の先輩から、蚊に刺されたら石鹸をつけたタオルでゴシゴシ強めにこすると、消毒と毒消しになると教わった。蚊による痒みのもとは酸性だから理に適っている。それ以来かならず実行している。リュックにも石鹸液を目薬の容器に入れて持ち歩いている。市販のかゆみ止めなどよりもずっと即効性があり清潔でもあり、お薦めの方法である。
 梅雨時、虫が大いに活躍始める時期である。団地の1階に住んでいるが、他の階よりも蚊などの虫が多い。残念ながらゴキブリもやってくる。3階を超えるとぐっと少なくなる。購入するときはそこまでは考えなかった。
 蜘蛛やカナブンやカマキリ、てんとう虫などは可愛げもあるが、ゴキブリとなると残念ながら可愛げを感じない。それでもホウ酸団子などが効果があるらしく、部屋の中に入ってくるのはひと夏に10数匹。玄関扉の郵便受けの蓋を押しのけて入ってくるようだ。玄関先でよくつかまっている。

 本日はかなり湿度が高いとの予報。気温も横浜で26℃と昨日よりも4℃ほど高くなる。風も1メートル前後で推移するようだ。意外とこのようなときに体調を崩す可能性もある。熱中症も侮れない。

 本日は朝から出かける。電車内での読書にいそしめるといいのだが‥。


洗濯機がとうとう壊れた

2015年06月21日 17時10分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雨がようやく上がり空が明るくなってきた。雲の間から夕方の陽がさしている。ホッとする明るさである。明日は27℃まで上がるらしいが、湿度も60%近くまでしか下がらないらしい。本日の横浜の雨は、私のイメージとしては梅雨らしい、一応静かな雨であった。

 ここ数か月、洗濯機を動かすとギーギーと音がしていた。その時によっていろいろな表情の音が鳴る。あたかも人が泣いていたり、馬のいななきに聞こえたり、男のつぶやきや唸り声に聞こえたり、時にはフクロウの声のようだったりと、夫婦で笑いながらそれなりに楽しんでいた。
 もう13年以上使っているのでそろそろ限界らしい。もとより修理を頼んでも出張費と部品代等で買い替えより高くなるシステムであることが目に見えている。ということで先々週から先週にかけて幾度が家電量販店に出かけた。家電量販店はボーナス月の日曜日でもありかなり混んでいた。
 金額的には夫婦2人用の6~8リットルのタンクの大きさで3万円台から5万円といったところ。金額は思ったより安価だと感じた。ドラム式は10万円代を大きく超える。また乾燥機は電気容量が足りず、この団地では他の電気製品を併用していては使えない。
 カビが発生しにくい、音が静か等々をあれやこれや考慮して決定した。私からはまったく口出しをしないで、すっかり任せていた。ようやく決まったものの、しかし一番早い配達で3週間先と云われた。メーカーでもかきいれどきなのであろう。

 ところが配達まであと2週間という本日、思ったよりも早くとうとう動かなくなってしまった。本日は手洗いということで乗り切ったが、さすがに毎日手洗いというのはつらい。
 明日からは時々は母親のところの洗濯機を使わしてもらうしかない。といっても50mと離れていないので、階段の上り下り以外問題はない。そうはいっても面倒なことは確かだ。

 電子レンジもごく最近買い替えた。冷蔵庫が時々室内灯がつかない。庫内の温度調節には問題ないが、少々不安がある。購入して10年位であろうか。クーラーも購入してからだいぶ経過している。ただしあまり使用頻度は高くないが‥。風呂釜も随分経っている。
 私がパソコンやプリンター、外付けハードディスク、カメラなどの寿命を心配しているうちに肝心の生活を支える電気製品等が怪しくなってきている。

 意外と現役時代には特に苦にならなかった電気製品の買い替え、年金生活になった時には想定していなかった、そして思った以上に嵩む費用である。

ビオウヤナギ

2015年06月21日 13時49分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から降りだしそうでいて降ってこない。大気はなかなかしぶとく雨をため込んでいる。お朝から降る予報が外れたかと思い、先ほどベランダから手を伸ばすと微かに降っていた。
 本日はおとなしくしていろ、というご託宣かもしれない。ただし15時過ぎからは曇りという予報である。

 ようやくこの時期の梅雨らしい雨のような気がする。人によって感じ方は違うだろうが、私の梅雨の雨は風もなく、そして音もあまり立てずに降る長雨である。雨が上がっても湿気が高く、空気が肌にまとわりつくような感じである。強く、激しく、そして暴れるような雨は梅雨が明けるときの本の数日の現象だと思っている。
 近年は集中豪雨紛いの雨だと思える。これが温暖化なのか、全体的な寒冷化の始まりなのか、それはわからない。ただ大きな気候変動の波から考えると、たとえば縄文海進のころの気温の方がまだまだ高かったようである。温暖化はまだまだ進む可能性もある一方で、小規模な寒冷化に向かうという意見も飛び交っているかに聞く。
 政治的な判断ばかりが先行して、またそのような意見に沿うような観測結果ばかりが誇張され、宣伝されて、的確な解析・分析、予報が阻害されないように切に望みたいものである。

 そんな喧騒とは裏腹に紫陽花も美央柳も美しい。ユキヤナギ、コデマリなどの白い小さな花の集合体も好きだが、黄色い花も私の好みである。とくにレンギョウやナノハナ、ヤマブキが終わった後、今の時期に美王柳(オトギリソウ)が咲き始めるとハッとする。この花、あまりに派手すぎて評判が今ひとつ、といわれる。しかし私は妙に長い雄蕊や少しだけ黄色にうすく緑かかった雌蘂や、子房の丸みを見るととても繊細な作りをしていると思える。オトギリソウ科ということをはじめて知った。



 以前にモノクロで接写したものを長年、写真を趣味にしている職場の先輩に褒められたことがある。その画像データはどこかに消えてなくなってしまったが、褒められて嬉しかった気持ちだけは覚えている。名刺サイズのメモ帳の表紙として利用していた。そのうちの1枚だけが埃にまみれて残っていた。画面がだいぶ傷んでいるものを先ほどスキャナしてみたが、やはり少し感じが当時のものとは違って見える。
しかし今思うと何が気に入っていたのか、と感じる。もう少しピントの合う範囲を広げないといけない。接写レンズで、三脚も無しで撮影したにしてはこんなものかもしれない。

趣味と本業

2015年06月20日 22時50分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から機関紙の作成と、ホームページの記事の取材で一日があっという間に過ぎてしまった。どうやら機関紙は裏面全体が完成。表面も3分の1は出来上がった。後は24日と25日の行動の報告を入れれば出来上がる。
 本日までにできたものを23日中に印刷所にデータとして送信する約束になっている。これに間に合えば一段落。今月中に残りの記事と写真を送信して、7月号が出来上がる。
 A3版の裏表、この分だと丸2日あればなんとか出来上がるような目途が出来た。隔月刊なのでそれほどの業務量ではなさそうである。とりあえずホッとした。
 さらに明日1時間かければホームページの新しい記事をアップすることも出来そうだ。

 機関紙とホームページの両方を引き受けさせられた時、どのくらいの時間をとられるか心配したが、何とかなりそうだ。ホームページの立ち上がりで時間が取られたが、これも軌道に乗せることが出来た。

 ただし自分の時間が取られることに変わりはない。41年前に、もっといえば45年前に自分が選択したことでもあるので、文句は言えない。45年も関係していれば、抜けられない。私は自分で作り上げた人間関係を簡単に捨てることが出来ない。さらに趣味でしていることとの区別はつかない。今となってはいずれもが私にとっては本業と云うところである。

シベリウス「ヴァイオリン作品集Vol.2「ノヴェレッテ」」

2015年06月20日 17時17分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日に続いてシベリウスのヴァイオリン作品集2「ノヴェレッテ」を聴いている。
「「ノヴェレッテ」の流麗と、「田園風舞曲」のはじける躍動、「幸せな音楽家」に秘められた芸術観、「4つの小品」「3つ小品」の深奥、「愛の情景」スカラムーシュの織りなす超自然的な世界」(佐藤まどか)と記してある。
 最晩年の作曲である「4つの小品」「3つの小品」が私は気に入っている。よく内省的と言われるが、それですべてを語ってしまった気にならない方がいいと思う。さまざまな表情を見せて自由な曲である。なるほど「深奥」という言葉は言い得ているようだ。決して明るくはないが、多様性と現代性を大いに感じる合わせて7つの小品は得難い魅力がある。
 いづれも特に高音の音が美しい。もっと早くシベリウスのヴァイオリンの魅力を知っていたかったと思っている。

         

シベリウス「ヴァイオリン作品集Vol.1「子守唄」」

2015年06月19日 18時16分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨晩はシベリウスのヴァイオリン協奏曲、今夜は同じくシベリウスの、ヴァイオリンとピアノの小品集の第1巻を聴くことにした。
 ヴァイオリンは佐藤まどか、ピアノは渡邉規久雄。渡邉規久雄のシベリウスのピアノ独奏曲集は現在まで3巻まで出ている。これはこのブログで取り上げたと思う。
 佐藤まどかのヴァイオリンはとてもいい。シベリウス協会主催で2013年に2回催されたの室内楽全曲演奏会でも、私には格段に印象に残っている。
 このCD2枚もこの時の演奏会場で購入した。ヴァイオリンの音がとても艶やかで気持ちがいい。
 交響曲作家、大編成音楽のシベリウスという先入観念を打破してくれたのが、渡邉規久雄のピアノのCDであり、弦楽器による室内楽曲の魅力を知ったのが佐藤まどかも出演した2013年の演奏会であった。
 私にとっては忘れられない両者の組合せである。

      

シベリウス「バイオリン協奏曲」作品47

2015年06月19日 00時39分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 シベリウスの得意とする楽器はバイオリン。あがり症ということでバイオリンのソリストは断念したというだけあって、バイオリンが実に気持ちよく活躍する。
 第1楽章の冒頭ではシベリウスは「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。たぶん多くの人はそのような指示は無くとも、このような情景を浮かべるのではないだろうか。悠然としていて、しかも緻密な構成、よく響くように練られた和声の進行が私の好みである。バイオリン協奏曲としては、ベートーベンバイオリン協奏曲よりも多く聴いた時期もあると思う。このCDを購入したのは1990年以降だが、廉価版のレコードを昔持っていた。誰の演奏だったか記憶にない。それでも何回も聴いていた。
 この曲、1904年の初演の評はあまり芳しくなかったようだ。ブラームスのバイオリン協奏曲を聴いて感銘を受けたシベリウスは改稿を重ねて翌年にようやく改訂稿による演奏が行われ、成功したという。

      


久しぶりに機関紙作成

2015年06月18日 23時36分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕食後から久しぶりに機関紙の原稿作りを開始した。A3の表裏分の版下用紙を一太郎で作った。一段13字で6段組の枠組は簡単に出来上がり。
 その上に、まずは来月号の記事を流し込んでいく。一面の3分の1に相当する記事ふたつ分を作ったところで大分くたびれたので本日の作業は中止。
 現役時代はA4裏表の機関紙を毎週土曜日に作成していたが、隔月でA3裏表では紙面を作る労力からすると4分の1で済むはずである。また輪転機で印刷したり、袋詰めなどの労力は必要ないので本来ならば10分の1以下の労力のはずだ。計算通りならば有難いのだが‥。

 シベリウス「バイオリン協奏曲」を聴きながらの作業はそれなりにはかどった。明日の午後もこれを聴きながら続きをやってみる。
 すでにホームページに掲載しているものを記事として活用するのでそれほどの労力は無いはずである。しかし記事の取捨選択と割り付けに時間を取られる。23日までに8割方出来上がるようにしたい。

 外では再び強い雨が降り始めた。昨日や本日の昼間ほどではないが、雨の音がやむことなく続いている。梅雨本番というところ。九州南部ほかなりの積算雨量となっているようだ。