Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「新潟市美術館の名品たち」展(その3)

2015年06月07日 00時01分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 笹岡了一「帰郷」(1960)は、頭部の無い白い服の人間と赤い布を頭に被った男と思われる人間が描かれている。赤い布をかぶった男は足の曲がり具合が少しおかしい。背景は街中と思われる。最初は何を描いているのかわからなかった。画家の興味は人体像かと思ったが、赤い布が何の象徴なのか引っ掛った。眼を凝らして画面を見ていると右下の白い枠の中に描かれているのが車輪付きの大砲のように私には見えた。それが正しいとすると右側にある黒っぽい塊は座り込んだ人間と見ることも出来る。
 横を見ると同一作者による戦中(1942年)の作品がある。これは目黒区美術館の所蔵作品である。戦車と思われるものの後ろに日本の兵隊数人と日の丸が描かれている。多分従軍画家として描いた作品と思われる。これと比較した時、何となく私はこの「帰郷」という題の絵がわかったような気になった。
 赤い布の人間と黒い塊はひょっとしたら傷痍軍人と中国ないし南方からの、あるいはシベリアからの復員兵ではないか。そうすると白い服装の頭のない人間は、街を闊歩する人の象徴かと思えた。キリットした姿からは白い服の人は帰還兵でもなく傷痍軍人でもないはずだ。
 私は自分の1960年頃のことを思い浮かべた。当時小学校3年生、北海道の南端の函館に住んでいた。街中には旧日本軍の軍服を着た人もまだいた。まだ傷痍軍人の格好をした人も数多く駅前にいた。その横では新しいファッションで街中を闊歩する若い女性やサラリーマンも多く、対照的な場面が現出していた。当時はまだそのことに気も留めず、当たり前の光景として見ていた。
 高校生となってその頃のことを回想するたびに、当時の貧富の差、戦地から帰還した元兵隊の生活のむずかしさなどに思いが至るようになったことを覚えている。
 おそらく戦地から帰還した元兵士は、帰還が遅ければ遅いほど社会への適応は難しかったと思われる。また仕事が見つけるのも困難であったに違いない。国策で兵隊として生死の境をさまよった挙句に、引揚げても快く受け入れてくれる社会ではなかったと思われる。疎外感、違和感も大きかったと思われる。
 そんな時代状況を私は思い出した。この絵にはそんな不条理な状況が描かれているのではないか。白い服の人物は明るい街を明るく闊歩する人間の象徴、あるいは社会全体の象徴のように思える。赤い布を被った人物、人物らしき黒い塊はギクシャクとして折れ曲がった身体をしている。
 大砲と判断したり、黒い塊を人間と見たりという仮定の積み重ねだから、心もとないのだが、戦中の表現から大きく飛躍した画家の表現を見たような気がする。2点しか見ていないでこんな想像をしてしまって間違いがあるかもしれないが、あくまでも私の感想・思い付きとして許してもらいたい。




 布川勝三「北の海(しけ)」(1960)も惹かれた。先の笹岡了一「帰郷」と同じ1960年の作である。当時の私なりの記憶による社会状況と重ね合わせながらこの絵を見ていた。
 図録からスキャナーで取り込んでみたが、うまく取り込めない。この絵の下部の黒い塊は漁船、多分木造の漁船が並んでいる。日本海の荒れた海を前にたたずむ漁船の群れが描かれている。暗く立ち込めた空の下の荒れた海が画面をひっかいたような強い線で描かれている。そしてほんのわずかな青が海であることを主張している。この青にもまた惹かれた。
 画面の暗さは、日本海の冬の厳しさを表現するだけでなく、戦後の日本の社会そのものの暗喩のように見ていた。



 最後の「3.二つの美術館、二つのコレクション」では草間彌生の「線香花火」(1952)に惹かれた。現在の草間彌生の諸作品は私には馴染みが無いが、20代前半の作品である。若い頃のさまざまな模索の中のひとつの作品だと思われる。しかしこの作品のような感性の延長線上には今の作品はちょっと想定できない。この作品の延長戦というものはどんなものになるのか、という想像も面白いと思った。

本日の講座「南海トラフ巨大地震」

2015年06月06日 11時48分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 2011年から4年続いた連続講座。今年度は「南海トラフ巨大地震」に焦点を当てた内容ということである。
 例年のとおり「無料」ということでありがたい講座である。
 3時間という長丁場の講座である。

 今回の講師の石橋克彦氏の「大地動乱の時代」(岩波新書)は現在なかなか店頭に並ばない。注文しようと思っているうちに時間がたってしまってまだ取り寄せていない。


「新潟市美術館の名品たち」展(その2)

2015年06月06日 10時53分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 さらに「1.名品たち」のコーナーでは、菅井汲「La lune(月)」(1954)が印象に残った。渡仏して二年後の作品である。私はくすんだ色彩と黒が主体の初期の作品の方が好きである。そんな私の好みにびったりの作品。



 次に難波田龍起の「不思議な国の人々B」(1985)。靉光や松本俊介と交流があり名を知った。あまり作品に接する機会が無いので全体像がわからない。しかしこの絵はどこかで見た記憶がある。「不思議な国」は無論この日本のことをさすと思われる。どこか疎外感と違和感を持ち続けている画家の心象風景として理解した。私はこのような絵に惹かれることが多い。



 末松正樹の「群像」(1960)。私は不勉強で初めて名を知ったが、この「群像」は上の難波田龍起に描かれた群像とどこかで共通するような視点を感じた。ネットで調べてみると司修著『戦争と美術と人間 末松正樹の二つのフランス』という著作が目に触れた。ドイツ占領下のフランスにいてスペイン脱出を図りドイツ軍の俘虜体験があるとのことである。是非とも目を通したいと感じた。高価な本のようで、図書館で借りるしかないようだ。



「2.新潟に息づく作家たち」のコーナーでは、まず佐藤哲三の作品を探した。2点展示されていた。1点は「原野」(1951)という晩年の作品。このブログでは以前に最晩年というか遺作のようでもある「みぞれ」や「帰路」を取り上げたことがある。そこに共通するほのかな朱色が空に現われている。2004年に神奈川県立近代美術館鎌倉で開催された佐藤哲三展の図録をひっぱり出して来た。その時この原野と同じ題で他に2点が展示されていた。他の2点はこのほのかな朱色が無く、この作品が完成形のように見える。1954年に44歳で亡くなった佐藤哲三の晩年のこの朱色はとても印象的である。そしてタモノキといわれているらしいが、次第に大きくなっていく。「みぞれ」や「帰路」に至る一連の風景画の起点のように思える。

〈参考 「帰路」(1954)2点、および「みぞれ」(1953)〉
      

1930年代にも似たような風景を描いた作品もあるが、晩年の一連の作品の方が私の頭を占領してしまう。この絵に再会できただけでも本日の収穫であった。



 佐藤哲三のもう1点は1935年の「静物」。柿を描いた作品が多いので2004年の時も見たのかと思ったが図録には載っていなかった。描かれているのは洋梨と柿は明確にわかる。右端と左端にあるのは玉ねぎだろうか。形の不揃いの柿の質感がいいと思う。



豪雨お知らせ情報

2015年06月06日 03時43分32秒 | 天気と自然災害
 雨の音で目が覚めたのが2時45分。その途端に枕元に置いてあるスマホの振動音。目を細めながら明るい画面を操作すると、横浜市から「豪雨お知らせ情報」が届いた。「これから一時間以内に豪雨が予想される」とのこと。さらに詳しい予想を見ると10分から20分後がピークらしい。「1時間」と「10分後」というのは随分差があるとブツブツ言いながら雨音を聴いていたら3時位が確かに一番強い降りだったようだ。3時15分現在は雨の音は小さくなってきた。
 すっかり目が覚めてしまったので、のこのこと起き出してパソコンを起動。横浜市の「レインアイよこはま」を見てみると1時間あたり20ミリを超える雨の区域はすでに埼玉県南部に北上している。神奈川県の雨は間もなく上がりそうである。

 昨日は同じ講座を受講している友人に誘われるまま飲みに行ってしまった。こう書くといかにも自分は悪くない、誘った友人が悪いのだというふうになるが、誘われてニコニコしていたのは間違いはない。そして二人で焼酎の4合瓶を空にしてしまった。気持ちよく帰宅して風呂にも入らず、そのまま寝てしまった。
 目黒区美術館の感想の「その2」を書こうという決意は、飲んでいるうちにいつの間にか忘れてしまっていた。しかも会計を頼むと二人で4000円しなかった。その値段を聞いてさらにとても幸せな気分になった。単純なものである。駅を出ると小雨が降っていたがそのまま歩いて帰った。そして雨の音で1時間前に目が覚めるまでまったく記憶が無い。

 ここまで書いたところで、再び瞼が重くなってきた。これから風呂を沸かし直したり、シャワーを浴びると音がうるさい。近所迷惑になりそうなので、再度寝るしかない。本日は休肝日にしないといけないようだ。

「新潟市美術館の名品たち」展(その1)

2015年06月05日 13時39分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   
 昨日目黒区美術館で「新潟市美術館の名品たち-ピカソとクレーもやってきた」展を見てきた。

 論語の冒頭、学而編第一「子曰く、学びて時に之これを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋有り、遠方より来たる。また楽しからずや。人知しらずして慍(いきど)おらず、また君子ならずや」。懐かしい文章に出くわした。こんなフレーズが美術展のチラシに掲載されるというのは新鮮な気分である。今でも漢文で習うのであろうか。

 チラシにもあるとおり、クレーの「プルンのモザイク」とピカソの「ギターとオレンジの果物鉢」が大きな売りとなっている。



 まずはクレーの作品は1931年のもの。これは着色した紙をモザイク状に厚紙に張り付けた作品である。手で撫でるわけにはいかないが、見ているだけで凸凹の質感が伝わってきてそのリズムがまず嬉しい。遠くから眺めていても不思議な色と形のバランス、変化もまた心地いい。こんな作品を眺めて一日過ごすのにあこがれることがある。



 次にピカソの作品は1925年の作品。テーブルの上に乗ったギターとオレンジの入った果物鉢と字が書かれた布などが読み取れる。が、それを読み取ることよりも、暖色は少ないにもかかわらず温かみのある配色の妙と、伝わってくるギターや果物の質感が不思議である。木のぬくもりを強く感じる。
 初めて見る作品のようでもあり、どこかで見たという既視感もある。ぎらついた原色が無いのが私には好ましく感じられる。
 上辺の真ん中で青い色が塗り残しのようになって茶色に変化する部分が不思議である。その他の部分は形の線に沿って色彩がくっきりと分割されているが、そこだけ色の分割がされていない。うすい青色がこの茶色の部分を覆って、深い緑の部分と接するようになっていたら色のバランスが大きく崩れておかしく感じられる。ちょっとした色の面積の変化で作品がアンバランスとなると思われる。



 オディロン・ルドンの「黄色いケープ」(1895)にも惹かれた。あの黒のさまざまな表情を執拗に描いたルドンが晩年に色彩を爆発させるように描いたパステル画は大きな魅力であるが、私はどちらかというと大きな作品、それも花の作品しか印象になかった。しかしこのような小さな作品も気に入った。画面右上から左下にかけて赤とレンジの花をつけた長い枝と、黄色いケープを身につけた人物が同色に描かれている。そして紫から黄色に次第に変化していく色合いが美しい。



 マックス・エルンストの「ニンフ・エコー」(1936)は初めて見たと思う。エルンストの作品では惹かれたの初めてのことだと思った。鬱蒼とした、むせかえるような緑色の植物の葉の重なりは生命の象徴のような色だが、同じ色であらわされた「ニンフ」が不思議な生命力のかたまりに見える。
 花と思われる緑をまとったような白の配置が左の上下と右側にまとめてある。この花に囲まれた空間が濃い力を感じさせる。なかなか魅力的な作品だと思った。

目黒区美術館にて至福の1時間

2015年06月04日 23時15分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は15時に目黒区美術館に到着した。目黒駅で下車したのは初めての経験のような気がする。権之助坂を下って目黒新橋を渡ってから右にまがり目黒川沿いを上流に、途中から公園の敷地に入り、1分も歩くと美術館に至る。なかなか気持ちのいい道である。
 建物も樹木の中に納まっている。大きくででんと構えているわけではなく、好ましい。
 「新潟市美術館の名品たち-ピカソとクレーもやってきた」展、ピカソとクレー、ルドン、ボナール、ロダン、エルンスト等々いわゆる有名どころはそれぞれ1点だけであるが、見ごたえのある作品が並んでいる。
 しかしそれよりも私が嬉しかったのは、新潟市美術館として地元の画家のコレクションにこだわっているわけだが、佐藤哲三が2点見ることが出来た。特に「原野」は私の好みである。その他、菅井汲、難波田龍起、李禹煥などの作品も惹かれた。その他これまで知らなかった画家で、末松正樹、布川勝三、阿部展也などの作品に興味を覚えた。
 一人の画家の回顧展が私は好きだが、このような雰囲気ならば刺激的にかつ落ち着いた時間を過ごすことが出来ると思った。
 Bunkamuraの「ボッティチェリ」展も1時間ほど見て回った。

 どちらもいづれ感想をアップする予定。

目黒区美術館めざして

2015年06月04日 10時11分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 好天となった。本日は午後から出かける。まずは関内で友人と打合せ後、目黒区美術館に行ってみようかと考えている。

 開催中の展覧会は「新潟市美術館の名品たち-ピカソとクレーもやってきた」【http://mmat.jp/exhibition/archives/ex150411】。目黒区美術館は初めて訪れる。
 ピカソの「ギターとオレンジの果物鉢」、クレーの「プルンのモザイク」などがある。日本の画家でも魅力的な作品がホームページで紹介されている。6月7日までなので本日の内に行きたい。「はろるど」というホームページ【http://blog.goo.ne.jp/harold1234】でも紹介されている。

 時間があったらBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「ボッティチェリとルネサンス」展【http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/14_botticelli/index.html】にも足をのばしてみたい。これは昨日の講座(講師:三沢恵子氏)で取り上げてもらった。イタリアに行ったときウフィツィ美術館でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」と「春」は見ているが、他の作品は実際に見たことはない。マリアの顔の変遷に注目、とのことである。
 こちらは6月28日までなので若干時間的ゆとりはある。

 目黒区美術館が700円、Bunkamuraザ・ミュージアムが1500円、ちょっと痛いが‥。

 夜は飲み会に出かける気力が残っているか、見ものである。

そろそろ梅雨入り、食中毒の季節がやってくる

2015年06月03日 22時29分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 友人が退職者会のホームページ用に食中毒についての記事を作ってくれた。折角作ってくれたので、このブログでも紹介させてもらいことにした。
 たまにはこのブログでも社会生活上役に立つ記事があってもいいかもしれない。


日本では毎年2,000件近くの食中毒が発生しています。高温多湿のこの時期は、特に食中毒が心配される季節。ニュースで話題になる集団食中毒と比べ、家庭内の食中毒は気付きにくく見過ごされがちですが、抵抗力の弱い子どもや高齢者にとっては、重症になったり、時に死亡するケースも。家庭での食中毒は家族みんなの心配りで防ぐことができます。

教えて!食中毒Q&A

Q1 そもそも食中毒って何?

口に入れた飲食物が原因で起こる健康障害を総称して「食中毒」と呼び、病因物質により以下の5種類に分類されます。
1. サルモネラ属菌やカンピロバクター、O157などの細菌に汚染された食品をとることで起こる「細菌性食中毒」
2. ノロウイルスなどのウイルスに汚染された食品で起こる「ウイルス性食中毒」
3. 毒キノコやフグの毒など、有害な食品を食べたために起こる「自然毒中毒」
4. 有害な化学物質が付着・混入した場合等に起こる「化学性食中毒」
5. アニサキスなどの寄生虫が付着した食品で起きる「寄生虫食中毒」

Q2どうして夏は食中毒が増えるの?
細菌性食中毒は8月をピークに、梅雨から9月にかけて多発します。これは、25~35℃という温度が細菌にとって最も発育しやすい環境だからです。1年間で発生する細菌性食中毒患者の約6~7割がこの時期に発生しています。

Q3 どんな症状が出たら食中毒?
食中毒かどうかの見きわめはとても難しいものです。激しい下痢、嘔吐、血便が出たら、まずは水分を補給し、脱水症状を防ぐこと。そして医師の判断を仰ぎましょう。診断を受けずに下痢止めを服用すると、毒素が体内に滞留するので危険です。食中毒の原因を特定するためには、発病までの食事の内容、時間、吐いたもの、便の検査が必要になります。

Q4子どもが避けた方がよい食べ物は?
最近、居酒屋等の外食施設にお子さんを連れて行く家庭が増えました。そこで目立ってきているのが、鳥刺や加熱不十分な肉類など、以前は子どもが口にすることが少なかった食品が原因となる食中毒です。特に危険なのが生の鶏肉。鶏肉は処理する段階で汚染を受けやすいことから、いくら新鮮な肉でもカンピロバクター等の細菌が潜んでいる場合があります。大人にも危険なこの細菌、特に抵抗力の弱い子どもにとっては命取りになることも。鶏肉に関わらず、火の通っていないお肉を子どもに食べさせることは非常に危険です。抵抗力の落ちている高齢者も同様です。

特に気をつけたい夏の食品衛生
<お弁当を作るとき>

調理してから食べるまでに時間のあるお弁当は、細菌が増殖する可能性が高く、食中毒を起こす例も少なくありません。
 ・ 新鮮な食材を十分に加熱調理する。
 ・ 生もの、汁気の多いおかずをさける。
 ・ おむすびはラップで握る。
 ・ 冷めてから容器につめ、冷暗所で保管する。

<アウトドアクッキング>
意外と多いのがBBQ(バーベキュー)での食中毒。野外の解放感からか衛生面に気を使わない人、火が通っていないものを食べてしまう人が多くいるそうです。
・ 食材保管にはクーラーBOX、保冷剤を活用する。
・ 肉や魚の汁が他の食材にかからないようにする。
・ 焦らず、きちんと調理したものを食べる。
・ 山菜やきのこなど食べられるかわからないものは食べない。
・ 川の水や湧き水には細菌がいる場合も。

まずは手洗いからはじめよう
 子どもに食品衛生を身につけさせるにはどうしたらよいのでしょう。影響が大きいのは、やはり周囲の大人の意識。家族揃って、バランスの取れた食事を、規則正しく、楽しく摂り、食への意識を自然と高めましょう。食物はお金を払えば手に入るものではなく、どこから誰の手を経て食卓に並んだのか、家族で考えてみるのも良いでしょう。まず実行したいのは手洗い。食中毒の感染経路で意外と多いのが、人の手です。あまり潔癖になってもいけませんが、外から帰って来た時、また食事の前には手洗いを習慣づけさせましょう。

厚生労働省ホームページ 食中毒の啓発資料が掲載されています。
活用してみてください。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/syokuchu/index.html


午前中は予報どおり雨

2015年06月03日 19時57分25秒 | 天気と自然災害
 昨晩は開港記念日ということで、横浜の港では花火が打ち上げられていた。花火の季節となった。
 本日の雨は思ったほどには強くはなかった。お昼前にはほぼ雨があがった。しかしそれほどではなかった風が今ごろになって強まってきた。家の外では風が唸っている。

 今朝になって疲れはとりあえず感じなかったので、雨の中を講座に出かけた。昼前にみなとみらいの会場をでて、神奈川大学の六角橋のキャンパスまで移動した。歩いても良かったが、あまり無理をしないで横浜駅からバスを利用した。
 明日は晴れるようだ。スケジュール表では明日の夜は、大久保駅傍での飲み会が記してあるが、それ以外は予定は入っていない。久しぶりに大久保駅まで出向いてみようかと思っている。

 明日が晴れの予想ということで関東地方の梅雨入り宣言は明後日以降になるらしい。

お疲れモード

2015年06月02日 22時09分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一日中曇り空であった。午前中は退職者会の仕事でパソコンとにらめっこ。午後は講座があるので出かけた。低い雲ではなくそれなりに高かったので雨にはなりそうもなかったが、足が重くて、横浜駅から先は歩かずに電車に乗った。講座を聴いている間も眠りはしなかったが、ボーっとしていた。
 帰りは頼まれていた買い物をした後、またまた横浜駅からバスに乗ってしまった。

 明日は朝から講座が二つもあるが、出かける気力がわいてくるか心配である。しかも明日は雨の一日らしい。早目に風呂に入って寝てしまいたい。

ブラームス「ホルン三重奏曲作品40」

2015年06月02日 20時43分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ブラームスのはホルンをこよなく愛した作曲がといわれているが、ホルンのための室内楽曲はこの1曲だけである。1865年、ブラームスが32歳の時の作品である。ブラームスとしては初期の作品に属する。
 私がホルンの魅力を知ったのは19歳の時、ブラームスの交響曲を聴いた時からである。ブラームスのこのホルン三重奏曲は倍音が主体の楽器で、倍音以外の音は朝顔の中に手をいれて音を出す奏法であったために、限られた音曲しか奏することはできなかった。それがバルブを使った楽器が出回るようになって、おおいに活躍するようになった。その切り替わる時期がブラームスの初期の時代と重なるとのことである。ただしナチュラルなホルンとバルブを使ったホルンでは音色に大きな差があるといわれている。私は聴き比べたことが無いので、何とも言えないが、ブラームスはこの古いタイプのナチュラルホルンをこの曲では指定している。
 私の聴いているCDはバルブホルンということであるが、解説ではウィンナホルンといわれてナチュラルホルンにもっとも近い音をだすバルブホルンと記載されている。

 この曲、ホルンの曲と思っていると出だしがバイオリンで始まりビックリする。しかしバイオリンとホルンの掛け合いが極めて自然に、そして美しい音の重なり合いで無限の波のように繋がっていく。第二楽章はよく聞く曲である。軽快で耳に心地よい。ピアノが全体をひっびっているような感じがする。トリオの少し哀愁を帯びたメロディーがスケルツォと対照的で面白味がある。第三楽章は母親を悼むエレジーだということだが、独立した曲としても聴きたい曲である。バイオリンとホルンが絡むように曲を紡いでいく。第四楽章はバルブがないと吹けそうもない技巧のように思われるような激しい動きのスケルツォである。狩りを思わせる曲というが、ヨーロッパの狩りというのはこのようなものなのだろうか。狩りと云うと息を潜めて一瞬のうちに生死の矢が放たれる緊張を強いられるものと思っている私のイメージとは随分と違う。


「若冲と蕪村」展後期展示(その4)

2015年06月01日 20時44分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 若冲と蕪村、ともに犬を描いた作品が出展されていた。いづれも1760年代の作品であるが、似ている。お互いを意識していたかどうかは、わからないので判断は鑑賞者に委ねられている。箒と草の緑以外に彩色は無く、墨絵といっていいようなものである。



 難しい詮索は抜きにして楽しむことも大切なのであろう。共に朝鮮の李朝の15世紀の絵画の影響があるという。また俵屋宗達の絵に似ているという評価もあるが、それも鑑賞者の判断にゆだねられている。私からは特にコメントはない。

3テラバイトのハードディスク

2015年06月01日 10時25分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 わが部屋の本棚と机の上はあまり綺麗ではないが、ことパソコン内部やパソコン画面はいたってシンプルにそしてきれいに整理している。これは私の自慢なのだが、妻に言わせれば本棚と机の周囲の片付けの方が価値が高いのだそうである。
 私もそれはそのとおりだと思うが、パソコンの内部の整理整頓の方が楽しいのでついそちらに時間とエネルギーを費やしてしまう。
 しかしそれでもパソコン内部に保存してある「記録」がどんどん膨らんでいく。

 これまでパソコン内のハードディスクのD領域と、外付けの300ギガバイトのハードディスクに、文書・手紙類・写真などもろもろのパソコンを利用している限りの記録類を保存していた。2000年からの記録が100ギガを越え、素材や使用ソフトをハードディスクに入れることのできるものは映してこれが約40ギガ。あわせると約半分の領域を使うようになった。随分と容量を使うようになったものである。
 最近、特に退職以降は写真の量が膨大になっている。しかも退職者会の取組みの写真もうなぎ上りに多くなっているので増え方が幾何級数的である。
 しかもこの300ギガのハードディスクはすでに購入してから10年を越えている。壊れてしまうと困るので、もう1台購入して同じ内容のものを並行して使用することにした。家電量販店で1万5千円也で3テラバイトのハードディスクを購入した。
 私個人の記録であるから、パソコン内部、300ギガと3テラバイトハードディスクと3重のバックアップの必要性はないが、300ギガのハードディスクの寿命のことを考えると当面はこれを続けようかと思っている。
 しかしこの10年でハードディスクの容量が飛躍的に大きくなっていることと回転数が増加していることと、USB3.0になっていることが大きく変わっている。同時に機器への信頼度も大いに高まっていることを期待することにしよう。

 2000年から2014年までに「常用」としていたフォルダをそのまま新しいハードディスクに記録した。2014年以降の分を新たな「常用2」というフォルダをパソコンのD領域に作成した。これでパソコン内部の記録用の常用フォルダを半分以下の35ギガまで軽くした。
 個人の記録だけでなく、退職者会としての画像などの記録もあるので、この分はいづれ会の誰かに引き継がなくてはいけない。これもいつかは解決しなくてはいけない課題である。