Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「戦後70年 重大な岐路に立つ日本」(小沼通二氏)

2015年06月12日 22時05分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日の小沼通二さんの講座は私には面白かった。時間が足りなくて最後は駆け足というかほんのちょっとの提起で終わってしまったのは残念だった。私はあと30分は時間があったので個人的にじっくり聴きたかったが‥。私氏自身は特に新鮮な話はではないが、講師なりにまとめた方法、エピソードのつなげ方が、やはり科学者らしくていい。
 工事終了後、講師がブログで発表された訳詩を、退職者会の私の属するブロックの会報に転用させてもらったことを跡付けになったが報告して、快く了承してもらった。掲載した会報を渡した。
 本当は紹介された本も購入したかったが、二代目高橋竹山のリサイタルもあり、財布に余裕が無くて購入できなかったのが残念であった。

               

本日からの講座「平家物語のこころに親しむ その8」

2015年06月12日 21時03分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日から始まった講座は「平家物語のこころに親しむ その8」。源平盛衰記を読む「平家物語のやさしい読み方」とは別の講座であるが、講師は同じ鈴木彰立教大学教授。
 このふたつの講座、気に入っている。講義も明快だと思うし、さまざまな読み解きも私の関心に近いものがある。私が読み落としていたことを随分と教えてもらえたように思う。


二代目高橋竹山「海をわたる女唄シリーズ(最終編)」

2015年06月12日 20時25分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨夜は渋谷の「サラヴァ東京」で開かれた二代目高橋竹山定期演奏会第6回リサイタル「海をわたる女唄シリーズ(最終編)」を聴いてきた。
 初回と第5回をのぞいてあわせて3回聴いてきた。毎回違った新曲も披露され、趣向も少しずつ違っている。
 解説・トークの大野光子氏の解説がなかなかいい。小田朋美氏のピアノとボーカルもまたとても聴かせる。そして何より二代目高橋竹山の津軽三味線を弾く技量に圧倒される。企画・制作の佐々木幹郎氏のトークもまた私にはとてもよく理解できるように感じる。

 今回は毎回取り上げるアイルランドの女性詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルの「入院中の人魚」という一見とても変わった、ユニークな詩につけた作品。人魚が手足を病院でつけられてしまう、という物語、最初は意味するところが理解できなかったが、解説を聞いていてようやく理解できた。
 アイルランドがイングランドに支配されていた時代、母語を禁止されたことを歌ったものであるとのこと。
 直前に歌われた沖縄の「19の春」との関連でいえば、ウチナーグチ(性格には琉球語といった方がいいようだが)を禁止された明治時代以降の琉球の人々、北海道のアイヌの人々への支配など、「標準語」「大和言葉」の強要などのことに思いを馳せた。当然台湾や朝鮮半島での植民地支配下の言語統制なども思い出される。言語を奪うということが意外と身近に最近まで平然と行われ、そして今でもこの列島内部で固有の伝統や文化がないがしろにされる風潮が続いている。
 そんなことを考えながら、沖縄音階の唄や津軽じょんから節の歌詞をあらためて聴き直してみた。

 じょんから、中じょんから節、しんじょんから変奏曲も耳にするのは4回目だが、次第に私の耳にも慣れ懐かしい曲になってきた。
 さらに毎回唄われる「ファラオの娘」も毎回少しずつ変化している。演奏する二代目高橋竹山の顔が一瞬取り付かれたような表情になることに気がついた。今後も歌い続けてほしい曲のような気がする。

 これまで津軽三味線の曲を聴く機会は私は余りなかった。聴き慣れるととても魅力的な音で、耳に心地よい。二代目高橋竹山の演奏を聴いていると技量に圧倒されながら、そして緊張を持続しながら身を乗り出して聴く時間がとても得難い時間に感じるようになった。

 このシリーズはいったん終了ということであるが、引き続き新たな地平への挑戦に大いに期待したい。

九州で大雨被害

2015年06月11日 14時34分38秒 | 天気と自然災害
 九州はかなりの大雨、熊本県・長崎県を中心に被害がでているとの報道である。被害が最小限でおさまってほしいものである。ある報道では34万人近い住民に避難勧告が出ているとのこと。行政の担当を始め災害時に業務に携わる人びとに被害が及ばないよう願いたい。
 同じ規模の避難勧告が大阪市で出ていた時にツイッターでうつつを抜かしていた市長は12月までの任期いっぱいは居座るそうであるが、市長たる資質に問題があるのでさっさと辞めてほしいと思う。私には居座り・居直りにしか思えない。

 久しぶりに昼間、15000歩ほどのウォーキングに行ってきた。正味110分で10キロ、時速5.5キロ、毎時8000歩となる。だいたい週に5日くらいはこの程度のウォーキングをしたいのだが、気力がなかなかついていかない。街中で20000歩歩くよりもいい汗をかくことが出来る。
16時からのみなとみらい地区での講座、夜の渋谷での高橋竹山のライブなどに出かけるので本日はかなり歩数は多くなりそうである。

 夜遅くから関東地方でも雨がつよくなるという予報。帰宅時は大丈夫だろうか。現役時代ならばライブの予約は取り消して自宅で待機しなくてはいけない状況かもしれない。


本日からの講座「アジアの視点 その7」

2015年06月11日 08時28分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日から始まる講座は「アジアの視点 その7」。
 8人の講師による連続講座である。第3回から参加していると思う。
 明日の第1回目はこのブログでも何回か取り合上げさせてもらっている世界平和アピール7人委員会の委員であり事務局長を兼ねておられる小沼通二氏の講演である。
 「戦後70年、重大な岐路に立つ日本」というテーマである。
 今回この講座はいろいろと所用が重なり、いくつかは欠席せざるを得ないのが残念である。さいわい明日は出席できる。私にとってはこの連続講座のもっとも聴きたい講師の一人である。


明日は「二代目高橋竹山リサイタル」

2015年06月10日 21時41分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 明日は「二代目高橋竹山第6回リサイタル「海をわたる女唄シリーズ(最終編)」。前回3月27日の第5回リサイタルは法事があり、参加できなかった。明日はこのシリーズの最終回ということなので、是非とも参加したい。
 同時にこの次のシリーズがあることを切に願っている。

 「東北と沖縄とアイルランドを結ぶ女唄の鮮烈な饗宴」、大いに期待したい。

本日購入した本・注文した本

2015年06月10日 20時31分23秒 | 読書
 午後からは講座があり、そのついでに本を購入&注文した。
 神奈川大学の生協で購入したのは、
1.「貝が語る縄文海進」(有隣堂新書64)
2.「日本海の拡大と伊豆弧の衝突」(有隣堂新書75)
3.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
4.「大地動乱の時代」(石橋克彦、岩波新書)
の内、初めの2点。3と4の岩波新書2点は店頭にないので注文した。
 実は昨晩遅くになってふと思い出したのは、10年ほど前に岩波書店で刊行した「地質学」全3巻(平朝彦著)を購入していた。昨年本棚を整理したときに、隅っこにちゃんと場所を確保していた。かなり高度な内容なので3巻とも精読して読み通す能力はないが、エッセンスをつまみ食いすることはできるかもしれない、と思った。
取りあえずは購入・予約した4点を読んでから、出来るかどうかは別として再度挑戦してみたいと思う。


マグリット展の図録

2015年06月10日 18時45分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝からマグリット展の図録を見ながら、惹かれた作品に付箋をつけていた。ルネ・マグリットという画家、そう簡単には理解は出来ないと思っているが、確かになかなか難物である。作品には大いに惹かれるものが多数ある。
 「よくわからないけれど、妙に記憶に残る」「こういう「美」もあるな」「不思議な静寂がある」「部屋に飾っても悪くない」などと頭の中では思える。
 「題名は作品理解とは切り離した方がいい」と言われるが、マグリットは結構題名にはこだわっているようだ。また作品についてかなり自分で語っている。それを辿りながら、私が最初に目にした時の印象、しばらく眺めてからの印象、解説を読んでからの印象を混ぜ合わせている。
 しかしうまく言葉で説明がつかない。美術作品だからこの作品が私の気持ちに沿っている、惹かれた、で十分なのだろうが、如何せん言葉にしないと落ち着かない私の性分である。言葉にできないと、立ち往生したような気分になる。悲しい習性だ。

 そんなことを思っていたらいつの間にか正午をまわっていた。とりあえず図録の最後まで目を通して付箋を30枚ほどつけた。全130点のうち約4分の1。これを10点位まで絞り込みたいのだが、それにはとても時間がかかりそうだ。恥ずかしながら、そして残念ながら、私の能力を超えているようだ。好きな作品の取捨選択が出来ないのだ。

 ということで本日の図録めくりを終了した。


ブラームス「6つのピアノ曲」「4つのピアノ曲」外

2015年06月10日 10時50分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 CDは、ビーター・レーゼルの1972年・1973年の演奏だが、解説もついていない税込1000円の廉価版である。1997年に購入したと思う。
 昨年の4月19日からブラームスの室内楽曲、器楽曲、管弦楽曲を全曲聴きながらこのブログに感想を記してきた。最初に取り上げたのがブラームスの最後のピアノの独奏曲「3つのインテルメッツォ」(作品117)、「6つのピアノ曲」(作品118)、「4つのピアノ曲」(作品119)だったと思う。
 そのときこんなことを記した。
「私のブラームス体験というのはちょっと変わっている。昔、20代の初めに夏目漱石の小説を読んでいた時、たまたまブラームスの交響曲2番が気に入って幾度も聞いていた時に重なる。それで何の根拠もないのだが、いつしか夏目漱石の小説世界、とくに後期の「行人」以降の小説群とブラームスの曲想が、私の頭の中でどういうわけか連動している。夏目漱石がブラームスの曲を好んだかどうかはまったくわからない。1900年のロンドン留学時に聴いたという話も無いようなのだが‥。もしも聞いていたらどんな感想を記したであろうか。」
 そんなことを記してからいつの間にか全曲を取り上げたことになる。声楽曲を是非聴いてみて、と言われたことがある。いつか挑戦してみたい。

 梅雨の晴れ間の心地よい日、朝からこのCDを聴いている。こんな朝にはちょっと似つかわしくないかもしれない。やはりこの3曲は夜に聴くのがふさわしい。

 この録音の年が1972~73年というのも、私にとっては何か暗示的である。1971~75年の体験の内のさらに一番濃い時間である。多分今の私の生き方の核がこの時に作られている。この時の体験が無ければ今の私は無いと思う。
 単に録音された時期が重なるというだけで、このCDに惹かれてしまうというのは不思議なものである。おそらくこの曲を当時直に聞いていても特に感動はしなかったと思う。仕事を離れてこの曲に惹かれるだけの心のゆとりができたのだと思う。
 音楽にしろ、各種芸術体験というのはそれを体験した時の心のありようと切っても切り離せない。同時にふと閃くように受け入れるときというのもある。数十年前の心に沿うようなものでも、心に届くには時間という醸成を経ないと届かない場合もある。
 今、絵画や音楽や詩などを鑑賞していていると、私の1970年代前半の体験に照らしながら鑑賞している場合がほとんどである。「当時の私の気分とひょっとしたら共鳴しているな」と思うとその作品は印象に残る。何か自分の言葉に変換して記したくなる。


予約予定の本4冊

2015年06月09日 20時42分44秒 | 読書
 明日書店で予約予定の本
1.「貝が語る縄文海進」(有隣堂新書64)
2.「日本海の拡大と伊豆弧の衝突」(有隣堂新書75)
3.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
4.「大地動乱の時代」(石橋克彦、岩波新書)

 このうち3はすでに読了済みであるが、どういうわけか手元にない。以前に廃棄した時に間違って廃棄してしまった可能性がある。これは保存しておくべき著作だと感じていて、この賦ログでも取り上げたことがある。是非再度手元において再読したいものである。絶版になっていないことを祈りたい。1と2は比較的新しい。
 2と3は、日本海の成因についての言及に期待している。4もこれについて少し触れていると思われる。

大雨注意報

2015年06月09日 10時24分31秒 | 天気と自然災害
 明け方5時44分頃に茨城県南部を震源として栃木県真岡市で震度4の地震があったようだ。横浜では震度2~1ということで、私も妻も気が付かなかった。

 横浜では9時半前には洪水・雷注意報は解除され、現在発令されているのは大雨注意報となった。14時前には雨は上がるような予報である。本日の講座は15時から。予報が外れないでほしい。

 出かけるまではマグリット展の図録を見ることにした。気に入った作品が図録ではページをまたがって印刷されている。いつもは図録でそのような扱われている作品はポストカードを購入している。スキャナーを撮るのに不便だからだ。今回はそれを忘れてしまった。どこかでこのカードを手に入れたいのだが、術がない。

 昨日小鳥の病院で云われた通り、鳥籠の周囲を暖めるために湯たんぽを籠の上に載せ、室内ではガスストーブを出してきて点けた。押し入れの奥から3月に仕舞った私の部屋用の小さなガスストーブを出した。湯たんぽは押し入れのさらに奥に忘れたように仕舞われていた。百円ショップでだいぶ前に購入したものが役に立つとは思いもよらなかった。
 貰った薬を一滴口の中に垂らしたり、薬の入った水を取り替えたりと慌ただしい。ここ1週間がヤマのようである。小鳥は発症した段階ではもう厳しい状況である。「入院」ということもあったが、慣れた環境の方がストレスもなく穏やかに過ごせると判断した。


関東地方は梅雨入り

2015年06月08日 22時15分29秒 | 天気と自然災害
 雄のセキセイインコの具合はかなり悪いようである。午前中の診断だけでは心もとないと思ったらしく、妻は以前にかよった小鳥の専門の病院に予約をした。夕刻そこの病院で合流した。温めることや餌の与え方、薬の与え方等々の対応を教えてもらい帰宅した。
 いろいろ工夫しながら教わったことに近い方法が取りあえずは出来上がった。
 結局本の予約をする時間もなくなり、画像処理ソフトの勉強も出来なかった。やむを得ない。明日以降も気が抜けない。何とか持ち直してくれるといいのだが‥。

 妻もつかれたようである。本日は早目に風呂に入って就寝することにした。

 関東地方、本日から梅雨入りということであるが、そのとおりの暗い一日となった。
 明日の明け方までかなりの雨量があるようだ。横浜には、大雨・洪水・雷注意報が出ている。千葉県南部には大雨・洪水警報が出ている。


曇り空

2015年06月08日 09時40分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日から半袖ではちょっと二の腕が涼しく感じる。かといって長袖を着て少しでも歩くと暑苦しい。半袖にすっかり慣れてしまっているので二の腕のあたりの袖の感触が煩わしくもある。大型商業施設内では空調の細かな調整が難しいので、寒かったり暑かったりと嫌な思いをすることもある。

 飼っているセキセイインコのオスが餌を食べない、緑便などの症状が出ている。やはり病院へ連れていくことになった。私はすでに予定が入っているため、それは妻にお任せすることにした。これまで罹ったことのある小鳥専門の病院は遠かった。近くで犬猫のほかに小鳥も見てくれている病院を探した。ネットで検索の結果、家から歩いて20分ほどのところに見つけた。これまで検索に引っ掛らなかったのは、検索の仕方が悪かったのかもしれない。

 本日は、昼間所用の合間に3冊ほどの書籍を注文することにした。夕方帰宅後は画像処理ソフトのレイヤー機能について操作マニュアルを見ながら習得しなくてはいけなくなった。慣れるまでが面倒である。

「きたのもりのシマフクロウ」(詩:宗美津子、曲:鈴木芳子)

2015年06月07日 20時17分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 学生時代の同級生からこんな素敵な装いのCDを頂戴した。詩は横浜在住の詩人、宗美津子さん、曲とピアノは宮城県生まれの鈴木芳子さん。いい曲集を聴かせてもらったと思う。以下感想をながながと記して見る。


 私にもっとも似つかわしくないもののひとつに童謡があるかもしれない。絵本の読み聞かせは随分と子どもにしてやった。家から帰ると足を洗う時間もあらばこそ、膝の上に子どもが載って来て本を一緒に読むことをせがまれた。膝に抱いてかなりの数の絵本を読んで聞かせた。子どもはすっかり諳んじているので、私がチョイと口ごもったり間違えるとすぐに訂正させられる。それでも毎回少しずつ違った抑揚や語り口で、しかも少し大げさな抑揚で読み聞かせると喜んでくれた。私にとっても大事な癒しの時間であった。
 だが、童謡を歌わせられるような場面だけは何とかして避け続けた。何しろ歌だけは勘弁である。歌が出てこない絵本を探すか、歌が出てくるものは子どもをおだてて子ども自身に歌わせるようにしていた。あるいは避けられない場合は妻に押し付けてしまった。情けない父親である。

 同級生であった鈴木芳子さんからこのようなかわいらしいCDを頂戴してとても嬉しい。作曲もされ、ピアノを弾くということは知らなかった。学生時代は確か女性合唱団に属されていた。

 童謡というのは大人の論理では出来ない。いい詩やいい曲が出来ても、子どもが理解出来なくてはいけない。また子どもが実際に口ずさむことが出来ないといけない。子どもの視点で、子どもの理解力に近づいていかなければいけないと思う。かといって子どもに媚びてはいけない。大人の思いだけで子どもに近づいた気分になっては自己満足であろう。そこは冷静に判断が求められるはずだ。長い間、真剣に子どもと接していないとできることではないと思える。
 しかも2歳くらいから10歳くらいまでの幅がある。リズム感、言語、思考、表情等に多くの階梯がある。どの年代を想定した詩か、リズムはその年代に合っているか、さまざまな要因が考慮されるのであろう。さらに子どもによって成長に差もあろう。
 詩、曲、演奏家、歌い手がうまく噛みあわないと子どもには届かない。大人向けの歌謡や、歌唱以上に神経を使うものではないだろうか。大人の独りよがりが子どもにとっては極めて迷惑であり、妨げになっているかは、現在の社会状況を見ればすぐにわかる。



 そんなことを想いながら、このCDを私なりに聴いてみた。
 この曲集では、オノマトペ、擬声語の処理が大きい要素だと感じた。特に最初の曲、「耳をすませば」の雨の音、これをどう音とメロディーで自然に子どもに歌いやすく表現するか、多分作曲者の苦労されるところだろうと感じた。
 これがなかなかいい。ごく自然に難しい言葉がメロディーにのって心地よく響いてくる。「ツンツン」「ピッチピチ」「バッバッバラー」「フッフルー」「ギッシギシ」「ピュッビュービュルー」、私がこれに曲をつけろと言われたら卒倒してしまう。とても自然に歌われている。歌う技量に頼ると子どもは歌えない。作曲者の鈴木芳子さんの力量の高さを私なりに感じた。
 CDの表題にもなっている「きたのもりのシマフクロウ」は詩のリズムが優れていると思った。畳みかけるように言葉が、シマフクロウの鳴き声に合わせて小気味よく反復するように出てくる。「ボー ボー フウー」という繰り返しが詩の言葉を紡ぎ出す潤滑油になっているので、これを曲にどう生かすか、で評価が分かれると思った。
 そんなことを思いながら曲を聴いたが、これは私はとても気に入った。思わず幾度も聞き返した。鳴き声と詩の言葉がごく自然にメロディーにのっている。
 この詩は大人の感性で読んでも聴いてもいい。夜の闇から聞こえるフクロウの声を私はとても懐かしくあたたかい声に聞こえる。淋しさや孤独や不安を聴きとる人もいるが、夜の静寂のの中で自分自身と繰り返す対話というのは、大切な時間である。このような時間の大切さを少し背伸びをして子どもにそれとなく知らせることのできる大人というのは魅力的ではないだろうか。

 10曲は1分から3分もかからない短い曲ばかりである。結構広い年代に聴かせることのできるCDでもあると思った。そしてこの「きたのもりのシマフクロウ」は時々は聴いてみたい曲集として大事にしようと思った。

 どうも私は長々と(屁)理屈を書いてしまう癖がある。そうしないと自分に納得しない悪い癖だと思っている。もっと素直に、素敵な曲だったとひとこと言えばいいのに、と自分でも思う。詩と曲と演奏された方には失礼だと思うが、お許しを願います。

 失礼ついでに、鈴木芳子さんがこのようなすぐれた作曲と演奏の力量をお持ちとは気が付かず、学生時代はそれに対して敬意を払わずに申し訳なかったと反省している。

「ボッティチェリ展」

2015年06月07日 17時00分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 ボッティチェリ展を見てきた。Bunkamura ザ・ミュージアムで「ボッティチェリとルネサンス-フィレンツェの富と美 Money and Beauty」という長い副題がついている。
 表題からはんだするとボッティチェリ(1445-1510)とその時代背景、フィレンツェの経済的繁栄についての展示と思われた。
 確かに解説には、
「15世紀、花の都フィレンツェでは、銀行家でもあったメディチ家の支援を受け、芸術家たちが数々の傑作を生み出しました。ルネサンス期の芸術の誕生には、地中海貿易と金融業によって財を成したフィレンツェおよびメディチ家の資金力が不可欠でした。メディチ家の寵愛を受けたボッティチェリ(1445-1510)に代表されるフィレンツェ・ルネサンスは、フィレンツェ金融業の繁栄が生み出した代表的な文化遺産といえましょう。
 本展では、ヨーロッパ全土の貿易とビジネスを支配し、ルネサンスの原動力となった銀行・金融業と、近代のメセナ活動の誕生を、ボッティチェリの名品の数々を中心に、ルネサンス期を代表する芸術家たちによる絵画・彫刻・版画や、時代背景を物語る書籍・資料など約80点によって、浮き彫りにします。」
と記されている。
 また構成は、
序章 富の源泉 フィオリーノ金貨
第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ-反映する金融業と商業
第2章 旅と交易 拡大する世界
第3章 富めるフィレンツェ
第4章 フィレンツェにおける愛と結婚
第5章 銀行家と芸術家
第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容
となっており、ボッティチェリを取り巻く社会的、歴史的背景が飲み込めるような展示となっている。

 私は目黒区美術館からのハシゴなので、頭の中も足もだいぶお疲れモードであったが、会場に入るとそれを忘れて見て回ることが出来た。
 一昨年イタリアに行ったときフィレンツェを訪れてウフィツィ美術館で2時間ほどを過ごした。そのときは「春」と「ヴィーナスの誕生」を見る機会を得た。その他の画家の作品も目に留まったのはギリシャ・ローマ神話に基づく作品であった。キリスト教絵画はあまり興味をひかなかった。



 今回はボッティチェリの聖母子像に焦点を当てて見るということにした。
 左上は、1.「聖母子と二人の天使」(1468-1469)。上の中は2.「ケルピムを伴う聖母子」(1470頃)、上の右は3.「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(部分、1477-80)、下の左が工房による4.「聖母子と6人の天使」(1500頃)、下の右が聖母子像ではないが5.「受胎告知」(1500-05)。
 1はボッティチェリが独立する直前くらいの作品らしい。2は師のフィリッポ・リッピが亡くなり独立した年の作品。3は「春」を描いた頃の作品でメディチ家からの委嘱も多く、絶頂期の絵画にあたるようだ。この時期、宗教画も人間表現が豊かになり聖人や聖母・キリストも現実的な生気あふれる表情になっているといわれる。
 しかし1492年ロレンツォ・デ・メディチの死後、神秘主義者サヴォナローラが力を得るようになるとその影響を受けるようになると、作品も精彩を欠くようになるといわれる。
 この5枚の絵からそれらの変遷がたどれるのだろうか。確かに聖母マリアの顔は精彩はなくなる。それよりも赤子のキリストの眼や動きが不自然になるように思える。また聖母子の体の大きさがアンバランスになるようだ。もともとキリストをマリアより多少大き目に描いていたのがいっそう大きくなるように見える。天使も含めて登場している者の視線がかみ合わなくなってくる。
 また最後に掲げち作品などは、受胎告知を受けるマリアよりも大天使ガブリエルの方が主役で目立っている。腕の上げ方、足の位置など躍動感がある。
 こんなことを考えた。



 この絵「受胎告知」(1481)はとても有名である。しかし私はいつもこの寝室と中にはが現実には同在出来ないのが不思議でならない。どうしてこんなにもあからさまな歪んで説明のつかない空間を許容したのかわからない。
 そのことは問わないとして、この作品も大天使ガブリエルが躍動感にあふれている。ひょっとしたら衣の下=近国隆々とした筋肉美を備えているかもしれない。これに反して聖母マリアの表情は乏しく、生気が感じられない。戸惑い、驚き、躊躇い、不安、恍惚、至福‥さまざまな感情が想定される。それらの感情が宗教的な規制で禁じられているとしても、あまりに生気のない顔ではなかろうか。制作年が1481年ということはメディチ家も繁栄の最中であり、メディチ家との関係は良好だったと思われる。とすると先ほど掲げた受胎告知のマリアの表情と類似しているこの絵について、どのような解釈がなされるのであろうか。
 私は赤子の状態の聖母子像の両者の表情・仕草については母性に対する信仰と相まって自由度が大きかったのかと思っている。かたや聖霊による懐胎というキリスト教にとっては神聖な教義に基づく受胎告知という題材では聖母の顔の表情に対する自由度はまだまだ低かったのかと想像している。
 さて、大天使ガブリエルの躍動感と同時にもうひとつ私が今回気が付いたのは、天使のうしろからマリアに向かって聖霊が動きが少し放射状に数本の線によって表されている。これまでこの線については気が付かなかった。スキャナーではうまく取り込めなかったが、この線に今回初めて気がついた。

 本当はこの展示ではもっといろいろなことを学ばなければいけなかったと思うが‥。