Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日見つけた雪柳

2016年02月25日 19時46分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
        

 昨日咲いているのに遅ればせながら気がついた雪柳、家を出るのが遅れて遅刻しそうであったが、急いでシャッターを切ってカメラに収めてきた。帰宅時間は陽が沈んでからだったので、帰宅時には撮影は出来なかった。集合時間に15分の遅刻はやむを得ない事態であろうか。しかし自分でも嫌になるがどうしてこうも時間にゆとりのない生活を送っているのであろう。折角の好きな雪柳の前にして、あわただしいこと限りがない。

★活断層に生きてゆきやなぎ垂れて咲く   日下部正治
★雪やなぎ死者に接するあたりかな     荻原久美子
★雪柳縄文の赤あらわれる         川島忠三郎

 そんな自分が投影されているような第一句に思えた。地震列島に住む我々はこの250年、あまりにも慌ただしく生きてきたようだ。縮小する人口・縮小する経済を素直に受け入れて、無理に背伸びをしない、そのような社会そして政治が必要となっている。
 第二句、散り際に死者・死を仮託するのは桜となってはいるが、散り際の様が似ているだけでなく、長く垂れた枝が地面に接する際の風による揺れもまた、生と死の境に揺蕩っているかもしれない。
 第三句、確かに雪柳の花の咲いている細い枝は赤い。作者をそれを発見した。しかもそれは縄文の赤だという。縄文の赤とは多分その土器の色からの連想だと思われる。しかしそれがどのような関連なのかは作者のみの感得である。それを受け入れられる鑑賞者でありたいと思う。

   

「恩地孝四郎展」(その5)

2016年02月25日 11時21分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ようやく風邪もほぼ治り、久しぶりに恩地孝四郎展の図録をめくる気力が湧いてきた。

   

 前回12日に東京国立近代美術館ニュース「現代の眼615」に掲載されていた和田浩一の論考を引用させてもらった。この論考の最後に「抽象化には、単純化を経て、ややともすると類型化、固定化へと堕してゆき危険」「抽象形態と具象的描写とか共存した作品に習作が多い」と記載されている。
 私もまったく同感なので「私の感覚も捨てたもんじゃないぞ」とちょっと嬉しく思った。特に木版画では単純化という宿命のようなものがあるというが、恩地孝四郎は細密画のような小さな静物や植物抽象的な形態の横にそれとなく配置して、その効果を楽しんでいるようなところがある。私はこの試みが気に入っている。
 抽象的な形態、ここで取り上げたポエム#2では黒い塊やひも状の形態が、それらの小動物や植物によって何かしらの象徴のようにも見えることがある。想像の幅や飛躍のきっかけとなってくれる。そんな親しみがある。
 ポエム#2は1937年という戦争の影が次第に重く圧し掛かってきた頃の作品だが、1944年戦争最末期の「春の譜(ポエム#3)、さらに1948年敗戦直後の海辺幻想にも同様の試みがある。
 この小さな貝殻や小動物や植物に生への執着や渇望、戦争という生を否定する社会へのある種の思いも見て取るのも自由である。また大きな黒い塊に原初の生物の形を見て、進化した動物との対比を見るのも楽しい。
 画家はポエム#2の頃に「日本の絵画は古来空白を持ってきた。だから日本人の白に対する感覚はそうとう洗練されてしていいはず」「在来の日本紙には立派な白がある」と記しているという。
 これらの作品にある塗りつぶしていない空白が違和感なく作品の一部として受容でき、そして効果的に見える白の表現が意識的に採用されたことなどがわかる。


雪柳

2016年02月24日 19時54分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今朝団地の東側の入口で雪柳の枝に白い花を見つけた。写真を撮ろうとしたが、急いでいたので断念。帰宅時に撮影しようとも考えていたが、日が暮れてから帰宅したのでやはり無理であった。
 雪柳の開花で私は春を実感する。私にとっては春の訪れを感じさせてくれる清楚な花である。

★雪柳花みちて影やはらかき      沢木欣一
★こぼれねば花とはなれず雪やなぎ   加藤楸邨
★日々熱なし書の間に立て雪柳     石田波郷
★雪柳ふぶくごとくに今や咳く     石田波郷
★雪柳風を貯めつつ風を生む      庄司たけし

 私には清楚なイメージの花ではある。石田波郷も熱の無い穏やかな日の象徴として雪柳を捉えつつも、別の句では結核の激しい咳の苦しさに雪柳の散る様子を重ねた。生が病魔によって激しく燃焼してしまうように生き急ぐ雪柳もまた、桜に通じる激しい生を象徴することもあることを知った。

 さて明日は写真を撮影することができるであろうか。

音楽体験の不思議

2016年02月23日 22時39分27秒 | 読書
 本日は横浜駅まで2往復も歩いた。風邪でダウンしている妻に代わり横浜駅のスーパーまで買い物と、いつもの内科に薬を処方してもらいいったん帰宅。夕方から再び関内に所用があり横浜駅までは歩いて出かけた。帰りも横浜から歩いて帰宅。結局2月に入ってやっと4回目の1万8千歩超え。風邪でダウンしていたこともあり、2万2千歩超えの日はわずか2日しかない。しかし回復時点で無理をすると回復が遅れたり、再発したりするので無理は禁物。自重しなくてはいけない。

 朝に続いて、シューベルトの2つの「4つの即興曲」を収録しているCDを聴いている。不思議なことにこれまでよりも耳に心地よく聞こえる。
 何回聞いても惹かれなかった曲が、ある日ふと心に大きく響いてくることがある。こういう体験をするとこの曲が自然に頭の中に入ってくる。次に聴いた時になんとなく懐かしい曲をきいているような気持ちになってくるものである。
 むろん逆のこともある。これまで聴くたびに心地よかったり、次から次に次のメロディーが自然に頭に浮かんできた曲が、まったく頭の中で反応しなくなることもある。ただしこういうことは長続きしない。いつの間にかそんなことがあったことは忘れてしまっている。気がつかないうちにその曲の記憶は元に戻っている。
 一度でも心地よく頭の中に響くとその記憶が長い間残る。鮮明な記憶ではなくとも、その音楽を耳にすると気分が同調するように馴染んでいるのがわかる。
 音楽の3要素(旋律、和音、拍子)とは別に、その曲の持つ何らかの要素が頭の中のある要素と響き合うと、すっと記憶の抽斗の中に抵抗なく入っていくような感覚である。うまく文章や言葉や文字では説明できないもどかしさがある。

 こんな体験を分析的に記述したりする能力は私には無いのでこれ以上は言及しないが、俳句や短歌などについても、言葉の意味よりも先に韻律として頭の中にすっと入ってきて、あとから意味を捉えようとすることがある。意味から入る俳句や短歌よりも、この場合の方が好みのものとして私なりの評価が高いものがある。

 私はこの感覚だけをたよりにこれまで音楽や、俳句や短歌や詩の世界と付き合ってきたと思う。

 芸術に限らず、周囲の世界を受け入れる場合すべてについて当てはまることで、取り立てて記述しなくてはいけないような重大なことではないかもしれないという思いもある。


シューベルト「4つの即興曲」(D899,935)

2016年02月23日 11時54分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日はショパンの4曲の即興曲を取り上げた。4曲一組の即興曲の形をショパンはシューベルトの「4つの即興曲」を念頭に作曲したといわれている。
 ショパンの4曲の即興曲は1837年から1842年にかけて作られている。一方シューベルトの「4つの即興曲」(D899)ははじめの2曲が1827年に出版され、4曲揃っての出版は1855年まで待たなくてはならない。また「4つの即興曲」(D935)は1838年に出版されている。
 ショパンは即興曲という形式の示唆はD899から受けたかも知れないが、念頭に置いたのはシューベルトの遺作といわれるD935の方かもしれない。断定は私などには難しい。

 D899は30分ほどの曲。ショパンの4つの曲すべて合わせても20分ほどの曲と比べて10分ほどの長いだけの曲だが、印象はシューベルトの方がずっと大曲に聞こえる。それは最初の曲が10分以上という長さであることにある。第4曲が極めて印象深い曲想でフィナーレのように余韻を感じるためでもある。シューベルト自身はD899の時には特に4つまとめる意志はなかったようであるが、結果としては第2曲、第3曲から受ける印象からも4曲まとめて聴くのに適した有機的な構成になったと感じる。即興曲という名称を付すことで、ソナタなどの3楽章で一曲、という趣向ではなく、分離してもまとめて聴いても良いという自由度の高い曲の有機的な構成を自覚的に追求しようとしたのではないか、私は想像している。

 D935は合わせて36分ほどの曲になる。こちらはの4つの曲の関連はどうだろう。より緊密だという捉え方とそれほど重視しない捉え方とがあるようだ。第3曲は11分ととても長い。変奏曲という形式により第3曲だけでひとつ世界が成り立っている。有名な甘美なメロディーは、4曲の中ではちょっと異質に聴こえる。しかし私はひとつの曲として意識して聴くようにしている。

 こんなことを考えながら、ショパンの念頭にあったというこのシューベルトの2つの「4つの即興曲」を聴いている。
 ショパンもシューベルトも、即興曲は最晩年に造っている。小品によるピアノ曲が大きな流れとなる始めと全盛期に位置すると云われる二人の曲を並べて聴くのもいいものである。

 なお、このCDの演奏はラドゥ・ルプー、1982年の録音となっている。

   

ショパン「24の前奏曲、即興曲外」

2016年02月22日 22時37分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 同じくアシュケナージの演奏で「24の前奏曲」(作品28)、前奏曲第25番(作品45)、前奏曲第26番(作品番号なし)、即興曲(作品29、36、51、66)とあわせて30曲の小品か収録されている。録音年代が記されていない。
 「24の前奏曲」では第5番32秒、第10番29秒、第15番36秒、第22番47秒、有名な第7番も55秒しかない。一方長いのは第15番「雨だれ」で5分14秒もある。
 最初は戸惑ったが、24の主題をもつ1つの曲と考えると楽しめるかもしれない。前奏曲というと何かと決まった様式があるのか、と聞きたくなるが実際は即興曲のような具合である。
 そして即興曲の方は大体4分~5分ほどの長さである。長いといっても他の作曲家の曲から見れば断片のようでもある。
 私は前奏曲24曲を聴くのは少し落ち着かない。短すぎでどこか慌ただしい。聴くときは即興曲の4曲をひとつの曲としてまとめて聴く。合わせて20分ほどの4つの部分からなる曲だと思うことにしている。
 第1番の明るい明確なリズムは第1楽章にふさわしい。早いパッセージを有する第2番はスケルツォ風の楽章でもある。第3番は少し内省的で終止形とならないメロディが漂っているような楽章である。第4番は最後を締めくくる堂々とした風格がある。後半へと上り詰めていくフィナーレにふさわしい。

      

風邪をうつしてしまった

2016年02月22日 15時11分30秒 | 読書
 昨日は16時半頃からお魚を食べさせてくれる居酒屋に入ってずいぶんと飲んだようだ。店を出た時は19時近かったのだろうか。あまりよく覚えていないが、お腹もいっぱいになっていた。
 横浜駅でちゃんと降りたのだが、携帯電話がいつも入っているズボンの右ポケットにないことに気がついた。あわてて電車内に戻って座っていたところを見たが、落ちていない。ホームに戻ってきている服のポケットを散々探したが出てこない。電車は発車してしまった。
 頭が混乱したまま、リュックの外ポケットを探したり、ホームを探したがない。諦めてベンチに座り、何の気なしにリュックのチャックをあけて中を見たら、ちゃんと携帯電話が一番上に鎮座していた。ホッとすると同時に、いつそこに入れたか考えたが記憶にない。
 しかし出てきたことはありがたかった。お店まで戻らなくてはいけないかと考えたり、駅に忘れ物の届をしなくてはいけないかと決意をしたり、いろいろ頭の中が混乱し疲れてしまった。
 気を取り直してバスにて帰宅。
 どっと疲れ彼が出て、そのまま寝てしまった。

 本日は昨日よりもさらに寒い。厚い雲に遮られて日もまったく射さない。休養日として引きこもっている。

 私の風邪が妻に移った。正月始めからひいた2回の風邪は移らなかったが、今回はとうとう移してしまった。山姥様からは「奥様にだけには移さないように」ときつくコメントをいただいたものの、言いつけを守れなかった。
 私は同じ症状で咳と鼻水としゃがれた声、その上に頭痛がするとのこと。医者に行くかどうがさんざん悩んだようだが、我慢できなくなったらしく歯医者をキャンセルして内科に行って薬を貰ってきた。私はその薬を先ほど1回分だけもらった、というよりくすねた。
 私は水っ洟は直ったが、まだ痰が絡む。

「体感する地球儀・天球義展と講演会」(DNPミュージアムラボ)

2016年02月22日 13時32分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 2月19日に初めてDNPミュージアムラボに出かけた。通常の博物館や美術館とは違って事前の申込みがないと観覧できない施設である。初めての施設ということでいろいろ戸惑ったことやわからないことなどもあったが、とりあえずチラシやホームページでの案内・解説を掲載して報告にする。

 残念ながら展示目録や解説目録が備えていないので、現地で理解できないことも多く、またビデオを見ても記憶に残らないという私には致命的な問題点があるように感じている。施設の性格上やむを得ないものなのか、わからないが。
 帰宅後にチラシを見ていて疑問点が出てきた。チラシの裏面の中段、前期展示の3点の写真の下に「前期はフェルメールの《地理学者》、《天文学者》に描かれた対作品《ホンディウスの地球儀・天球義》」という表現がある。写真の解説では大きな写真の地球儀は「ヨドウス・ホンディウス(父)」作となっているのでこれが《地球儀》と思われるが、《天球義》については前期・後期のどこにも「ホンディウス」作というものが掲載されていない。3D展示室にあったのか、展示目録が無いので記憶をたどることも出来ない。
  同時に後期展示の《ヴェルザーの地球儀》についてもチラシ裏面の中段左側の3点の後期展示の写真には表示がない。

 この点については帰宅後わかったので、確かめようがないので、後日電話でもして確認するしかないのだが、私がこれまで体験した展示に比べるともう少し改善の工夫があってほしい。

 さて、17世紀中葉はオランダが海洋進出でヨーロッパ世界の世界観を大きく変え、地球の認識を書き換えていた時代である。キリスト教的世界観が大きく書き換えられていた。その拡大していく世界を背景として当のネーデルランドの市民社会がどのような波をかぶっていたか、絵画の世界にどのような影響をもたらしていたか、これは興味を惹かれるものがある。
 フェルメールの描く絵画にはそのような世界を匂わせる仕掛けがいくつもある。今回は天球義・地球儀が描かれている作品が取り上げられたが、世界地図や海外からと思われる手紙を読む女性など、拡大する世界とそれが日常生活にもたらす「波」が主題となっている。
 描かれたもの静かな家屋の一室に、左から差す陽射しに乗って「世界」がもたらす波紋は鑑賞する者に、さまざまなドラマを予感させる。

 その予感に今回の展示がどのような幅をもたらしてくれるだろうか。繰り返すが、ごく限られた記憶だけしか残っていないのは悲しい。微かな記憶を引き出してくれる目録すらないのは残念だが、多少は幅が広がることがあるかもしれないということを楽しみにしておこう。

間違いの指摘をするということ

2016年02月21日 11時21分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝の4時45分には強風注意報も解除となった。今回の南岸低気圧は事前の予報よりも風が強くならなかったのではないだろうか。朝から暖かい陽射しで穏やかな一日になりそうである。
 横浜駅12時の集合、16時近くまで国会周辺の集会予定となっている。肝心の退職者会の小旗を会館に忘れた。実は昨日わざわざ会館までその旗を取りに行った。だが、3階で用事を済ませているうちに、旗のある4階に取りに行くことをすっかり失念していた。情けない話である。
 昨日何度も推敲をして9割方出来がった原稿を打ち出して妻に見てもらった。すると何と8か所も間違い、ないし言い回しがしっくりこない個所が見つかった。たとえば同音異義語、単語の重複、敬語の間違い、脱字‥。指摘をされてすっかり意気消沈、疲れてしまった。
 私も他の人の文章であると、間違いはいっぱい目につく。客観的に見ることができるからだ。そして公的な、あるいは組織としての文章では当然気にすることなく指摘をする(むろん指摘の仕方はやさしく)が、個人的な文章では極力指摘するのは遠慮している。
 指摘をされた時の打撃はとても大きい。有名な小説家の文章でも(さすがに出版に際しては誤字脱字等は直っているが)、言い回しの重複や、段落の分け方の不具合、説明不足、代名詞の不具合などが目につくことが多々ある。中学生の時に国語の教科書に載っているある短編小説について授業中にそのような指摘をしたら、先生から「指摘していることは正しいかもしれないが、小説の流れ、文章の流れからすると重箱の隅をつつく方向に君自身の思考を持って行く危険もある。受け入れる度量も必要だ」というような趣旨の指摘をされたことがある。その時は言われていることがよく理解できなくて、「フン」と思っていた。多分かなり小生意気な言い方だったのかもしれない。しかし40歳も近くなってからふとそんなことを思い出して、その時の教師の思いが少し理解できたように思う。
 今回は妻に依頼をしたのであり、組織としての新聞の原稿であり、指摘はとてもありがたい。客観的に目をとおしてもらうということの大切さを毎回のように教えてもらえて感謝である。だが、依頼もされていないのに指摘をするには、やはり相手の気持ちを考えながら、ということが肝心である。人との付き合いの肝要なところは当たり前のことでもいつもどこかで再確認をしながら生きていかないといけない。歳を取ると余計に大切だと思う。


横浜の大雨洪水警報は解除

2016年02月21日 00時20分19秒 | 天気と自然災害
 昨日の23時33分に大雨・洪水警報と雷・波浪注意報が解除になった。強風注意報が継続である。「レインアイよこはま」を見ると40分ほど前には神奈川県に降っていた雨はほぼ上がっている。
 ベランダから空を見上げると全天うす曇りで、十五夜=望月の前の日の月である小望月がちょうど天頂にかかっている。うすい雲に透かして見る満月に近い月はなかなか見ごたえがある。雲の濃淡に月の光が変化するのを見ていると飽きない。
 荒れた天気が落ち着いたとき、月が見えたり星が輝いているのを見つけると嬉しいものである。そして月の空、星空が晴れやかな気分を引き立ててくれるようだ。

 これから明日の出席予定者の名簿を急いで作成してから就寝予定。作成するのを忘れていた。湯冷めしないうちにあと30分で仕上げてしまいたい。


雨はピークを越えた可能性、風向きが変わった

2016年02月20日 23時03分25秒 | 天気と自然災害
 本日は初めて「DNPミュージアムラボ」に行ってきた。しかしいま現在このホームページに一切アクセスできない。感想を書こうにも、展示の趣旨なども再度確認しようとしたが、それも出来ない。チラシの表示にわからない点が出てきたのだが、それも調べようがない。そういえば「展示目録」なども一切なかった。
 明日もう一度アクセスした上で疑問などを整理したいのだが、何か狐に包まれたような状態で頭が混乱している。とりあえず本日のところはここまでで止めておきたい。何ともいいようがない位不思議である。


 さて本日の雨であるが、特に強く降っているわけではないが、間断なく降り続いている。「レインアイよこはま」を見ると今から1時間前が最大時間雨量20ミリの表示があるが、これからは雨は弱まるようである。峠は越した可能性がある。「レインアイよこはま」では小田原市あたりはもう雨が上がっている。
 レインアイよこはま→【http://raineye.city.yokohama.lg.jp/pweb/

 窓ガラスの結露も一時はひどかったが、今は窓の上の方は乾いている。外の気温が少し上向いている可能性がある。
 風も北風から西風に変化しているようで南側のベランダに少し吹き込んでいる。天気予報どおりに推移しており、このまま明日の朝には雨が上がって気温が上昇してくれるととてもありがたい。

横浜は大雨・洪水警報

2016年02月20日 19時58分39秒 | 天気と自然災害
 「DNPミュージアムラボ」を後にして品川駅に着いたのが17時をまわったとき、携帯に「横浜川崎に大雨・洪水警報」のメールが届いてびっくりした。雨が強くなるとは聞いていたが、注意報までかな、と考えていた。現在は「大雨・洪水警報、雷・強風・波浪注意報」となっている。
 昨夜16時30分の「暴風と高波及び大雨に関する全般気象情報第1号」と今朝の4時50分の「第2号」は内容をチェックしていたもののそれほど深刻に受け取らなかった。本日の17時直前に出された「第3号」はいま確認した。
 五反田駅まで歩いている間、昼間とはうって変わって気温が低くなり雨と風が冷たく感じた。横浜駅でバスを待っている間も寒いと感じた。風邪の具合がよくなりかけたばかりなので、これ以上寒いのは勘弁してほしかった。つい弱気になってしまう。

 さて、明日は昼からカメラ持参で国会前の集会に参加する。さいわい雨は上がって暖かくなるとの予報である。夕方には終了するはずなので、同僚と久しぶりに暖かい居酒屋にでもよって軽くアルコールを飲んでみようかと考えている。5日ぶりだから生ビール1杯と焼酎のお湯割り1杯で十分酔いが回りそうな気がする。

http://www.jma.go.jp/jp/kishojoho/000_00_662_20160220075734.html
★暴風と高波及び大雨に関する全般気象情報第3号
平成28年2月20日16時57分 気象庁予報部発表
(見出し)急速に発達する低気圧の影響で、21日にかけて北日本と東日本の太平洋側を中心に非常に強い風が吹き、大しけとなるでしょう。また、東日本を中心に20日夜遅くにかけて非常に激しい雨が降るでしょう。暴風、高波、土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水に警戒し、北海道地方は猛ふぶきや大雪に警戒してください。
(本文)[気圧配置など]
 前線を伴った低気圧が紀伊水道付近を北東に進んでおり、21日にかけて急速に発達しながら、本州の太平洋側を北東に進み、21日朝には千島近海に達する見込みです。低気圧や前線に向かって暖かく湿った空気が流れ込むため、大気の状態が非常に不安定となるでしょう。
[防災事項]
<暴風・高波>
 21日にかけて、全国的に風が強く、北日本と東日本の太平洋側を中心に非常に強い風が吹くでしょう。海は大しけとなる見込みです。
 21日にかけて予想される最大風速(最大瞬間風速)は、
  関東地方、伊豆諸島  25メートル(35メートル)
  北海道地方、東海地方 23メートル(35メートル)
  東北地方       22メートル(35メートル)
 21日にかけて予想される波の高さは、
  関東地方            7メートル
  東北地方、伊豆諸島       6メートル
  北海道地方、東海地方、近畿地方 5メートル
の見込みです。暴風、高波に警戒してください。
<大雨・雷・突風>
 東日本、西日本の太平洋側では、20日夜遅くにかけて、局地的に1時間に50ミリ以上の非常に激しい雨が降るでしょう。
 21日18時までの24時間に予想される雨量は、いずれも多い所で
  東海地方 200ミリ  関東甲信地方 120ミリ  伊豆諸島 100ミリ
  東北地方  80ミリ
の見込みです。
 土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水に警戒してください。また、落雷や竜巻などの激しい突風にも注意が必要です。発達した積乱雲の近づく兆しがある場合には、建物内に移動するなど、安全確保に努めてください。
<暴風雪・大雪>
 21日は、北海道地方で雪を伴った非常に強い風が吹くでしょう。また、大雪となる所もある見込みです。21日18時までの24時間に予想される降雪量は、多い所で50センチ
の見込みです。猛ふぶきや吹きだまり、大雪による交通障害に警戒してください。
<融雪・なだれ>
 20日は、気温が高くなり雨が降るため、東日本と東北地方の積雪の多い所を中心に雪解けが急速に進む見込みです。21日にかけて、雪解けによる土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水、なだれに十分注意してください。
[補足事項]
 今後、地元気象台が発表する警報・注意報や気象情報に留意してください。
 次の「暴風と高波及び大雨に関する全般気象情報」は、21日5時頃に発表する予定です。

昨日は「雨水」

2016年02月20日 11時10分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝から曇り空。9時位までは時々陽射しも時々あったが、それ以降は雲がどっしりと空を覆った。北側の号棟のベランダに取り込み忘れた布団が手摺りに暗く掛けてあった。10時半位からはとうとう降り出した。気温は窓から見える景色程には寒々しくなく、温かい位。昨日は「雨水」であったが、まさしくそのもののような雨。掛けてあった布団は取り込まれているのを確認して、何となくホッとした気分である。

 寒い晴れの日、暖かい雨の日、暖かい日が順繰りに定期便のように訪れる。春の気配ということである。節気は雨水。

★洗ひ菜のふはりと崩れけふ雨水    鈴木志美恵
★骨の音ためしてをりぬ雨水の日    鳥居おさむ
★弓と弦馴れ初めの日の今日雨水    庄司たけし
★砂場にはままごとの皿雨水かな    藤井誠三

明日は「DNPミュージアムラボ」

2016年02月19日 23時02分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は、五反田にある「DNPミュージアムラボ」に行く。「時間と空間の旅、展覧会をより楽しむ!3Dデジタルデータで見るBnFの地球儀・天球義コレクション」という講演会を聞き、展示を見ることになっている。
 始めていくところである。地図もあり、申し込みもしているのだから心配はないのだが、初めてというと何となくドキドキするものである。場所は五反田駅の傍。横浜からのアクセスは悪くない。
 「大日本印刷(以下 :DNP)とルーヴル美術館(以下 :ルーヴル)は 、共同プロジェクトとして進めている『ルーヴル-DNP ミュージアムラボ』の取り組みを体験できるスペースを東京都品川区のDNP五反田ビルに開設します。」という案内がなされている。
 【http://www.dnp.co.jp/news/1189578_2482.html】
 工夫された鑑賞システムがあるようだが、解説を読んでいてもよく分からないところもあり、実際に空間を体験して見なければ記載しても意味はなさそうである。明日になってのお楽しみというところである。
 だが明日は天気が悪い。特にこの講演の始まる午後から悪くなるようだ。

ショパン「練習曲集」(アシュケナージ)

2016年02月19日 22時31分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 アシュケナージの練習曲集については非常に評価が高いということである。ピアノの技法については知らないし、私はまったく弾くことはできないが、かなりの難曲である上に音楽的にも優れているという評価である。
 録音は1971年から1982年にかけて行われている。
 いづれも愛称はショパン本人の命名ではない。
 作品10の12曲はショパン23歳の時の出版で、フランツ・リストに捧げられ二人の交流のきっかけとなったという。
 作品25の12曲はショパン27歳の時の出版。
「3つの新練習曲」はショパン30歳の時の出版。他の作曲家の作った教則本に含まれていた曲とのこと。
 このCDを購入したころの私はピアノのソロの曲には極めて疎かった。しかし作品10の最初の曲と、愛称がついた「別れの曲」「黒鍵」「革命」は私もよく耳にはしていた曲である。
 この27曲は変化に富んでいて、様々な音色、表情を体感できる。私はノクターンに次いで聴くことの多かったCである。
 単独で聴くというよりも、全体せめて作品10、作品25、新練習曲とそれぞれにまとめて聴きたい曲である。ひとつひとつの曲が有機的につながって12の曲でひとまとまりに感じる。