この高温のまま天候が安定してしまっている。今月いっぱいはこの傾向が続くらしい。つらい日々が続きそうである。
昨日は胃部の不快感で読書する気が失せてしまった。本日は朝からの若干の事務作業が終了し、パソコンからの打ち出しまでできた。これより1時間ほど読書タイム。
昨晩は虫の声を聞きながら、夏の大三角、木星・土星、そして火星を楽しんだ。やはりさそり座はすっかり地平線の下。木星と火星が、南南西と東南東に、同じような高さで両目のように目立った。土星もこれでは印象が薄くなってしまう。
山の稜線に近いテント場や山小屋の前のベンチなどで、ウィスキーなどをお供に、時間をかけて星を眺めていたいものである。
天の川は秋の季語。
★佐渡の灯も漁火も消え天の川 桑田明子
★寝ころべば峰から峰へ天の川 庄司たけし
★郷愁の夜を欺かず天の河 石田波郷
本日は体調を考え用心のため、夜のウォーキングないし散歩は中止。
とはいえ本日は旧暦の七夕。一応団地内で夏の大三角を長めにこれから団地内を歩いてみることにした。木星と土星が南西に傾き、火星が東の空から昇ってきているはずである。さそり座のアンタレスはもう沈んでいるはずである。位置的に北の方向が見えないのが残念。カシオペア座を久しぶりに見たいのだが‥。
★希ふこと少なくなれり星祭 品川鈴子
★青電に間に合ふ星の別れかな 伊丹竹野子
第1句、年齢とともに願いは少なくなるのか、はたまた家族が増えて多くなるか、それともいろいろとあるが、「健康」という言葉に集約されてしまうのか。もともと願い事を短冊に書く習慣がない。正月に神社に行っても願い事はない。何事につけ、神頼みや他人任せは嫌いである。こんな私ははて、もしも願い事をどうしても書けと言われたら、何を書こうか。
多分「神頼み」などがない世界になりますように、というのが願いといえば願い。神がいれば、怒るだろう。仏がいれば無視されるであろう。家族も呆れている。
第2句、青電は終電の一つ前の電車。恋人同士、離れがたく終電の一つ前の電車に間に合ったのだろうか。終電の赤電よりも一つ前、というのがこの句の眼目。現在なら始発になってしまう二人かもしれない。これ以上は言わないほうがいいだろう。
明日は午後から組合の事務所にて会議。1時間前後、ひょっとしたらもっと短時間で終わる会議のはずであるが、終了後は少々事務連絡と事務作業に携わることになりそう。
午前中はその準備の続きを少々と読書タイム。
胃部の痛みはひいたので、本日の昼はホットドッグなどを食べてみた。15時に帰宅後ねっとりとしたプリンを食べてみた。これらが少々早すぎたようだ。16時ころから胃のあたりが重苦しくなった。
病院で処方されて服用していなかった胃薬と吐き気を抑える薬を服用して、1時間ほど寝た。夕食は再びお粥にしてもらった。今のところ胃のあたりに違和感はない。
病気のひとつひとつの症状が気になる。ことさら重大に考えて落ちこむというのではなく、体のひとつひとつの違和感との対話に神経が集中するようになった。現役で働いている間は、俗事に紛れて忘れているような自分の体との対話、それに敏感になってきた。ひとつひとつの体の変化に敏感になっている。
★わがゆくてわれにも知れず雲の峰 川上梨屋
★死の如し峰雲の峰かがやくは 飯島晴子
入道雲=積乱雲を山にたとえるのが「雲の峰」という季語である。入道雲はもくもくと湧き上がるので、躍動感があり力強さや生命力の旺盛なさまに使う場合が多い。ここでは、生命力あふれる状態が制御不能ないし不安感に繋がる句(第1句)や、反対に死をイメージした句(第2句)を取り上げてみた。
第1句、気力が横溢していたり、あるいは気力を振り絞った場合でも、見えない未来は不安でもある。若い時にはなおさらである。しかしここでは雲の峯は明るいものを暗示しているようである。若さは羨ましい。
第2句、冒頭から「死の如し」という断定である。後光とも違うと思う。死後の天国や浄土や極楽などのイメージとも違うようだ。かがやいている死のイメージ。決して否定的ではない。静かにおさまっている。どのような心境で、どのようなイメージなのか、いろいろと考えさせてくれる不思議な句であると思った。
午前中は退職者会の関連の事務作業をいくつか。退職者会ニュースの9月号は入稿が終り、校正刷りの完成待ちなので、本日は30年記念誌の原稿を少しばかり手直し、新しい原稿を貼り付けて、打ち出しをしてみた。明日の打合せや役員会での検討の素材にしたい。
昼からは久しぶりに妻と出かける予定。先週の火曜に二人で出かけて昼食後に別行動をしてからおかしくなった。本日は昼食後も幾つかの買い物に付き合うことになった。
先週ほどの猛暑ではないが、それでも暑い。昨日の昼間も入道雲が多数浮かんでおり、躍動感たっぷりの夏の雲であった。ひとつだけ下部が黒っぽい入道雲があり、また一雨来るかもしれないと心配したが、予報は外れでホッとした。
本日も同じような天気、昨日よりも高温になるとの予報である。まだまだ夏の雲。秋の落ち着いた高層の雲が主流にならない。
「続編の序」は、良くまとまっており、堀田善衛の日本の歴史と西洋の歴史の同時代性把握を要領よく表現していると思う。
これは私の大筋での問題意識と重なっている。絵画作品を見るにつけ、この地球上にどんと存在する大きなユーラシア大陸の東西の両端における同時代性への着目は、人類史という大きな枠組みで考えた場合にとても魅力的な視点だと思っている。
「鎌倉時代初期、すなわち十三世紀初頭と、西欧での十三世紀とに、言うまでもなく種々様々な相違、違和はあるものの、大凡のこところていうことにするならば、むしろ双方の相似、共通性の方に強く印象付けられ…。
「例えば宗教の問題。中世にあっては、宗教は人間世界の一切に関して、根源的かつ人世の全般を蔽う大問題であった。それは西欧たると、日本たるとを問わない。しかも西欧に普遍公定(カトリック)の宗教があり、これに対してワルドオ派やカタリ派などにみられるような、‥異端派が続出‥。日本にあっては、国家宗教としての仏教と、法然、親鸞、日蓮などの、個人救済を旨とする新興宗教が台頭しはじめ、これに対する国家宗教と宮廷から発する弾圧は、これは要するに異端追求である。‥救済への情念の激しさと共通するものを見させるものであった。ただその後の推移において、日本はまことに独特である。国家宗教は、皇室の衰退とともにほとんど形骸化し、法然、親鸞、日蓮などの、かつて異端視されたものが主流を占めて行く。」
「政治においての、西欧封建王制の成立と、その領主たちの頭領としての国王国家への過程というものが、日本における武士たちによる幕府形成と、実に、あたかも並行しているかとさえ思われて来るのである。ここでも京都宮廷の名目化、ほとんど有職故実の存続だけを目的としているかに見える有様は、この並行からはずれているであろう。はずれていることによってその存続が保証されたという特異性がある。」
「文芸の世界においても、新古今集などの和歌の大成期と、西欧においての、いわゆる吟遊詩人たちの勃興期というものが、ともに十三世紀であったということも気を牽く‥。」
「これは並行などという現象面のことなのではなく、この世界の人間の歴史が中世にあって、人間そのものとして存在し、かつ進行していた‥。」
以下本日読み終わったのは、「公卿補任 建暦元年記」、「歯取リノ老媼ヲ喚ピ、歯ヲ取ラシム 建暦二年記(1)」、「旅芸人と天皇 建暦二年記(2)」。
「旅芸人と天皇」では、網野善彦から大きな影響を受けたことを記述している。網野善彦の「中世の非農業民と天皇」を引用している。
日影を探しながら石川町駅そばの組合の会館を往復。
帰り際には桜木町駅で途中下車して、喫茶店で30分ほどの休憩と読書。「定家明月記私抄 続編」の「続編の序」と3つの節を読んだ。その後、さらに横浜駅で途中下車という贅沢をして、地下街の有隣堂に久しぶりに寄ってきた。
特に購入したい新刊本は見当たらなかった。しかし既刊本では読みたい本は幾冊も、否何百冊もある。そこには眼をつぶり、文庫本売り場を二回り。
これまでならば横浜駅から歩くのだが、本日は病み上がりでもあり、地下鉄を利用して帰宅。
途中下車を2回もした。電車はガラガラであった。
横浜の本日の最高気温は28.7℃と久しぶりに30℃を下回った。しかし明日はまた31℃の予報である。来週の日曜日まで連続して30℃を超える予報。35℃は超えないのがせめてもの救いである。
この一日だけの秋を感じさせた30℃に届かなかった気温、「新涼」といってしまっていいのだろうか。涼しさ、というともう少し気温が下がった方が実感がある。暑さ、涼しさ、寒さ、いづれも感覚的ものだから、絶対温度で語ることはできないが‥。
★新涼の身にそふ灯影ありにけり 久保田万太郎
★新涼や素肌といふは花瓶にも 鷹羽狩行
★おのが突く杖音に涼あらたなり 村越化石
明日は久しぶりに組合の会館に出掛けることにした。昼間はまだ体力的に自信がないので、午前中早めに家を出て、地下鉄利用で往復。
本日は二十四節気の処暑の始まりの日。このころ暑さが収まる、とされているとのこと。確かに横浜も昨日までの猛暑から一転、まだ30℃に届いていない。
そして昨晩の猛烈な雨と雷がいったん収まったが、再び雨が時々強くなる。先ほどまで時間雨量30ミリ以上の雨が40分以上も続いて、少し弱まったばかり。さいわい雷は鳴っていない。
雨と雷が涼しさを呼び込んだ。蝉がまだ雨が降っているにもかからず、再び鳴き始めている。クマゼミの声である。ようやくこの時期になってクマゼミの数がミンミンゼミ・アブラゼミを凌駕したようだ。
午前中のオンライン講座ののち、クーラーは付けずに窓を開けて、扇風機を軽くまわしている。昨日までは猛暑で窓を開けると熱気が入ってきた。昨日までが如何に異常な暑さだったか、を示している。
★処暑なりと熱き番茶を貰ひけり 草間時彦
★家居してもの書く処暑の雨涼し 小倉英男
一昨日の朝日新聞の夕刊の全国版に掲載された「仙台・追廻住宅」の記事に触発されて、学生時代の友人たちと懐かしい話をメールでやり取り。
私が仙台にいた1970年から75年にかけてはまだ空き地もあったがそれなりの数の住宅や風呂屋などがあり、友人が、安く間借りをしていたことなども思い出した。
ここが、当時は空襲被害者と引揚者用の住宅だったとは思いもしなかった。
仙台でも何故か異質な感じがしていた。新しい建物もなく、木造の家ばかりで、平屋が多く、2階屋も少なかった。一方で住宅に塀がなく、見通しの良い明るさを保持した一角でもあった。
通学の行き帰りに歩いて通り抜けることもあったが、当時はすでに活気が感じられない、静かなたたずまいだったと記憶している。50年もしてからこの町の成り立ちをはじめて知った。
私の住んでいるところ、21時45分頃から凄まじい雷と80ミリを超す猛烈な雨に襲われた。約1時間近くもこの雨の区域と雷が上空を停滞。ようやく雨の区域は海上に去って行った。これから東京湾を横断して千葉県の方に移動しているようだ。
当初都内から南下してきたこの雨の区域は少しずつ東に流れていく。同時に房総半島の最南端からやはり強い雨の区域が少しずつ北上している。二つの雨の区域が現在は千葉県域で合体するように近づいている。
図は22時過ぎの図。
私の住む強盗も一瞬停電となった。用心してパソコンの電源を落し、コンセントを抜いておいてよかった。北からの雨がひどく、階段室を滝のように雨水が流れ下った。南側のベランダの雨水排水管からも水が溢れ、ベランダのサンダルが溢れた水に浮いていた。
久しぶりの狭い範囲の雨であった。80ミリを超す雨の区域が通過したのは、横浜市の北部の5区ほどの範囲であった。
午後から、明日の「美術の物語」(ゴンブリッジ)についてのオンライン講座の資料の打ち出しと読み込みをはじめた。
明日の9時前までに本文と資料の両方の読み込みを終えたい。
夕刻から妻に付き添われて、バスにて大型スーパーまで買い物に行ってみた。往復4000歩あまり。歩き始めは足裏の筋肉に、昨晩のように少し痛みがあった。すぐに痛みは取れたものの、スーパーの建物の中のエスカレーターや階段の上り下りで少しふらついた。まだまだ体力や体調は完全には戻っていない。平らな所では問題なく、まっすぐに歩ける。
回復が遅い。歳なのだという実感である。
「定家明月記私抄」(堀田善衛、ちくま学芸文庫)を読了。書名はこの通りなのだが、続編には「定家明月記私抄 続編」とあるので、「正編」「続編」という区別をしてみた。
その4で引用した以降、「定家は左右なき物なり」(建仁三年記(1))から「末代ノ滅亡、慟哭シテ余リ有リ」(承元二年記(2))、および最後の節の「明月記欠」まで。
定家の年齢にして、42歳から48歳までである。最後の「明月記欠」は2年半にも及び、47歳から50歳に相当する。
俊成の死、九条家の衰運、官僚・貴族としての昇進の停滞等々があり、後鳥羽上皇の放埓な振舞いに振り回されながら、新古今集編纂に携わった時期である。この新古今集の編纂事業は後鳥羽上皇からの歌の差し替え(切り継ぎ)要求によって定家は大変な苦労をさせられている。
「この兼実良経の主家の親子に対する感情も、可成り入り組んだものであった‥。保守的で天台教学の範囲内につねに止まっていた定家としては、それを振り切って法然の専修念仏の新信仰にとりついた兼実については、一抹のうとましさを感じても不思議はない。慈円も、何か大事が起るとすぐに雲水の旅に出るなど‥九条家の大黒柱としてはやはり頼りない‥。さもあらばあれ、定家よりも七歳年少の良経は摂政であり、主家の主であり、和歌所寄人の筆頭であった。新古今巻頭は良経であり、その歌は、常に漢詩の風韻をもつ平明なものであった。新古今集の仮名序も良経筆になるものであり、定家はこれを「此ノ御文章、真実不可思議、比類ナキ者ナリ」と評価もしている。三十七歳の教養人にこれだけのものが書けるということは、二十世紀現在の教養水準から考えても、「真実不可思議」というものであろう。‥“昨日までかげと頼みしさくら花ひとよの夢の春の山風”技巧もなにもない、率直な追悼歌である。‥煙(良経の死)とともに定家と九条家の縁もまたうすらいで行くのである。定家としてなさなければならないことは、歌学の家としての家の確率である。そのためには自らは早く公卿に列し、また為家を教育してその昇進をもはからねばならない。」(「良経暴死」)
「人は人に対して人格の一貫性を求める。しかし同じく、人は人として一貫性を貫き難い場合がいくらでもあり得る。私は別に定家を、だからといって避難しようなどとは到底思わない。日記によって、時代のなかにある定家という人のあるがままを、診ていきたいと思っているだけである。」(「近日、時儀更ニ測リ難シ」)
「私は‥時には自分が平安末期から鎌倉時代へかけての、週刊誌の編集者になったか、とすら思ったことがあった。時世時代の移り行き、それは時には激流と化して巨大な渦巻きをなし、飛沫をとび散らかして、その当時に、渦中にあった人々にとっていずれの方向へとも見極めがたい進行の仕方をする。そうしてこの場合の飛沫は、飛沫とはいえ、すべて人間の生命である。ただの幼児であるにすぎふ安徳天皇は、海に溺死せしめられる。時には流れそのものが流血である。天皇の宮廷であっても、定家らの公家においても、また荘園の農民や流浪民、武士においてもそれは同じことである。(日記などの資料や時代の資料を)眺めていると、この時代の異様な風貌が茫と浮び上がって来ると見える。京都は袋小路のデカダンスであり、鎌倉はシェークスピア劇の如き骨肉の争いである。」(「明月記欠」)
後鳥羽上皇という、傍若無人で、淫らで、移り気で、浪費癖が顕著な、後先など考えていないような稀有な帝王のもとで、崩壊しつつある宮廷の世界とそれを支えてきた支配秩序、そして新しい武家社会が骨肉の争いに明け暮れる時代のなかで、繊細なことばの文芸に大きな地歩を作りあげたといわれる定家の、堀田善衛流の像が次第に見えてきている。
同時に、同時代性としてこの12世紀末から13世紀初頭のこの列島の精緻な文芸世界が、ヨーロッパの中世の文芸と並べてみた場合、ひょっとしたらあちらでは建築と絵画に相当するのではないか、という感想も持った。木造の建築が朽ちてしまう中で、「ことば」が稀有な位置を占めたのではないか、という感想は引き続き持続して頭の片隅に残しておきたい。