池田湖の南岸にある鳥越堀切と決湖碑を紹介します。
唐船峡の東にある鳥越橋です。池田湖は、この右にあります。
鳥越橋から池田湖を見たものです。切れ込んでいますが、ここが鳥越堀切です。
安政4年(1857年)、二月田温泉に滞在した島津斉彬は、指宿が水利に乏しく田んぼが少ないことから、池田湖の水を灌漑用水とすることを考案しました。池田湖の壁(カルデラ壁)を開削して水を引くという計画です。
工事が始まりましたが、斉彬の死と明治維新で中断しました。明治5年に県令大山綱良が工事を再開し、明治9年に完成しました。
これは、最初の橋の下流に古い橋があり、そこから開削した水路を見たものです。なお、この水路に下りる道はありません。
隣に新しい鳥越隧道があり、この先の湖岸に取水施設があります。
水管の上に貯水池があり、池田湖の水を揚水して灌漑する施設と思われます。
下流に決湖碑があります。
決湖碑と案内板。後ろは開聞岳です。
決湖碑は明治9年に建てられました。この事業で池田湖の水が3m低下しました。
案内板にある工事の様子。トロッコで石を運搬し、水路の上に石のアーチが見えます。
決湖碑の隣の用水路。横断する水管の水は、先ほどの新しい灌漑施設から供給されているものでしょう。
決湖碑の上流にある古い水路と水門。
下流の田園風景を望む。斉彬の灌漑事業によって水田が拓かれたのです。