黎明館の裏に、古民家を移築した「樋(て)の間の二つ家」というのがあるので紹介します。

この建物は、霧島市横川町下ノ赤水の海老ケ迫家を移築したものです。
建築年代は、天保年間(1830年~1844年)と伝えられています。

南北棟の「なかえ」と東西棟の「おもて」が、「樋の間」で直角に連結した「樋(て)の間の二つ家」です。
これは「なかえ」。前の写真では手前が「なかえ」。

「なかえ」の入口を入ると土間の台所で、かまどがあります。
向こうが流し。

台所に、樽(たる)や甕(かめ)があります。

台所の隣の部屋で、囲炉裏と自在鍵があります。
私も子供の頃、こんな囲炉裏の周りで食事をしていました。

天井。
梁は黒光りがしており、その上は竹が張られています。

「おもて」の一室。
茶の間に当たるのでしょう。ここにも囲炉裏があります。
左の板の間が「樋の間」。

「おもて」のもうひとつの部屋。床の間です。
この種の住宅は、川内川流域から旧姶良郡にかけて見られるそうです。
部屋は、台所以外に3部屋ですが、結構広く、ゆったりとした生活をしていたことが想像できます。

庭の井戸。

この建物は、霧島市横川町下ノ赤水の海老ケ迫家を移築したものです。
建築年代は、天保年間(1830年~1844年)と伝えられています。

南北棟の「なかえ」と東西棟の「おもて」が、「樋の間」で直角に連結した「樋(て)の間の二つ家」です。
これは「なかえ」。前の写真では手前が「なかえ」。

「なかえ」の入口を入ると土間の台所で、かまどがあります。
向こうが流し。

台所に、樽(たる)や甕(かめ)があります。

台所の隣の部屋で、囲炉裏と自在鍵があります。
私も子供の頃、こんな囲炉裏の周りで食事をしていました。

天井。
梁は黒光りがしており、その上は竹が張られています。

「おもて」の一室。
茶の間に当たるのでしょう。ここにも囲炉裏があります。
左の板の間が「樋の間」。

「おもて」のもうひとつの部屋。床の間です。
この種の住宅は、川内川流域から旧姶良郡にかけて見られるそうです。
部屋は、台所以外に3部屋ですが、結構広く、ゆったりとした生活をしていたことが想像できます。

庭の井戸。
子供の頃は囲炉裏でしたねえ。
炭でなく、薪だったから、煙たかったですが・・・
自宅には、種子島の実家からもってきた囲炉裏がありますよ。
囲炉裏は雰囲気がありますね。
これでお湯を沸かして、焼酎を飲みます。
私の子供のころの家も、こんな感じでしたよ。
土間があって、かまどがあって…
囲炉裏の周りで食事をしていました。
小さいときは、電気も来ていなかったので、基本的には江戸時代と変わらない生活でした。
藁ぶき屋根の家に、いつか住めたらいいですね。
現在は、コンクリートでなくても密閉の部屋。何ミクロンのゴミまで取れる掃除機、塩素の匂いの水道水・・。
ああー、身が縮まる。心も神経質で狭くなる。
ヨシッ! 生きてるうちに、いつか藁葺き小屋に住もう!(今から、アンター家をーば建てる銭も無っかとかなー との声が聞こえるが・・)
「て」は、「とい」(樋)からです。
川を渡して水を流す筒を、種子島では「てー」といいますが、鹿児島では短くして「て」というんですね。
樋のように、二つの建物を結んでいるからでしょうね。
名前にも、歴史が込められていますね。
「おもて」は「表」でしょうが、「なかえ」は何でしょうね。
案内板には、ひらがなしか書いてなかったのでわかりません。
中居?
このような建物は、この地域には比較的たくさんあったようですから、特別な金持というわけでもなさそうです。
≪ひ≫ じゃなくて ≪て≫ なんですね。
chiroさんが鹿児島は短く発音するって教えて下さいましたが ≪とい≫ からでもなさそうだし 気になる気になる
囲炉裏のお部屋 ドールハウスのようです。。
これは特別のじゃなく 普通の家なんでしょうか・・・
天保年間・・・・庶民の家なら残ってないからやっぱりお金持ちの家でしょうね。
ころ~ん とひっくり返ってしばらく天井を観ていたいです。。